202477() 北九州シオン教会 主日礼拝

李 泳善師 「信仰義認のめぐみ」 (ローマ5:1-8)

 

5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、 神との平和を持っています。

5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。 そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神 の愛が私たちの心に注がれているからです。

5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死ん でくださいました。

5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ 人がいるかもしれません。

5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神 は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 

信仰とは、神の言葉を信じることを言います。

それも状況や条件に応じて信じるのではなく、無条件に信じる。

状況と条件がみことばと矛盾しても、みことばを100%信じることが信仰です。

アブラハムは神の言葉を約束にして新しい出発をしました。

飢饉が来ても

妻を奪われる危機にさらされても

年をとって子どもを産むことが不可能な状況でも

奇跡的に得た息子を焼き殺して捧げるという状況でも

アブラハムは状況と現実を信じるよりも神の言葉を信じました。

彼は神の言葉は必ず成し遂げられ、

神は無から有を創造され、

死者を生かす、全能者であると信じて疑わなかった。

 

その信仰に神様は感動され、アブラハムを義とみなされました。

 

私たちもイエス・キリストを死んだ者の中で神様が生かされたことを信じ、

そのイエス・キリストの血が私のすべての罪を洗ってくださると信じて、

この信仰によって、主は私たちを義と見なされ、

神の子としておられると信じています。

 

このように信仰によって義になることを日本語では信仰義認といいます。

この信仰によって義と認められた人が受ける恵みと祝福があります。

 

今日はこの恵みと祝福について見ていきます。

 

1-2節を見ましょう(神と平和を味わおう)

 

元の人間は神の子として創造されました。

エデンの園で神は人間にすべてを任せました。

しかし、中央の善悪の知識の実だけは食べないように命じられました。

その善悪とは人間に「あなたはすべての権限を持っていますが、この世の王は神様です」ということを認めさせるのです。

 

しかし、人間はその善悪の知識の実を食べました。

今は神なしで生きることができると独立宣言をしたのです。

罪の中で最も重い罪は反逆の罪です。

神の代わりに人間自身が王になると主張し、それは人間を罪の沼に陥った。

 

沼に落ちると脱出できそうだが絶対脱出できない。

罪の沼はまさにそのようなものです。

私は私が私の人生の王だと思いますが神が王であることを否定すると、

私が王になるのではなく、空中の権威を握った者が王になるのです。

 

エペソ人への手紙

2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

この世界の流れに従い、虚物と罪の中で生きていくのが人間です。

その人間は、空中の権威を握った者、すなわち不従順の息子の中で働く霊に従うことです。

 

ブラッドダイヤモンドという映画があります。

ダイヤモンドは人が好きな宝石ですが、

ブラッドつまり「血」という言葉には合わない。

しかし、先進国で購入するダイヤモンドの中では

アフリカ紛争地域で生産されるものがあります。

このダイヤモンドを購入して支払われるお金がその地域の武器購入に利用されます。

結局、政府軍と反軍の間にダイヤモンドで買った武器で

数多くの人が死んで血を流すということです。

私はただダイヤモンドジュエリーを買って贈り物をしただけです。

私が支払ったお金で地球の向こうにいる人々が死んでいくということです。

なぜですか?空中の権威を握った者、

彼らの邪悪な精神がその市場を支配しているからです。

人間の肉体の欲望通りに生きていくと、それは不幸で痛みで虚無で終わる。

これは神と敵になったからです。

 

また、敵ではなくても神との間に真の平和がないかもしれません。

例えば、とても邪悪な人ではありません。

道徳的に神の前に義にかなって生きようとする人がいると考えてみましょう。

ところが、いくら努力しても神様が怖くて遠くに感じられる場合があります。

これは、律法の行為で神の前に近づく人の場合を指します。

 

一例を挙げましょう。

ある日私が皆さんに二人でコーヒーでも一杯しようとしたらどうでしょうか。

嬉しい方もいますが、 私と二人で向かい合ってどんな話を一つ?と不快になる可能性があります。

 

しかし、私はこう言っていると思います。

 私の家で数日過ごしましょう...と言うと、ほとんど拒否されます。

先生の家に行って一緒にご飯食べて話してとても不便です。

 

ところで、逆に皆さんが両親がおられた自分の家に行くとしましょう。

私も両親の家が私の家ですねそれでは行って母親ご飯くださいと言って、

私の家だから、どれくらい楽ですか?

 

あなたの霊的なことも同じです。

私たちが神と律法的に会うと、神の家にゲストとして行くようです。

だからいつも気をつけて礼儀を整え、人と自分を比較して

その信仰生活が疲れるかもしれません。

 

しかし、神の家が私の家であればどうでしょうか。

母さんご飯くださいと言うように神様に恵みをくださいと言うことができます。

外で大変だったとしても、神様の家に来たら快適な服を着て心が平安でしょう。

これらの恵みと栄光はどのようにして得られますか?

それはイエス・キリストを信じる信仰によって神に義を認められた者に来るものです。

神は私の父であり、父の家は私の家です。

その平和はどこから来るのでしょうか?イエス様を信じる信仰から来るのです。

 

今は敵意ではなく平和を味わわなければなりません。

 

その中の恵みと栄光を味わったので、今はそれが私の喜びになりました。

 

3-5 節を見てみよう

 

イエス様を信じて義であると認められた人に来る第二の恵みと祝福は

それは私の環境について平和を享受することです。

人がいつも心配していることの一つは、私の環境について

病気になるとどうですか?

お金がなくなったらどうですか?

人間関係が崩れたらどうでしょうか?

失敗したらどうですか?

私たちは自分自身を不幸にする環境、すなわち苦しみを恐れています。

だからその苦難を避けたいので、そのような道は決して行かない

常に苦難のない道だけを選択し、信仰生活も患難に出会うことが目的になります。

 

しかし、イエスは私に従うと自分を否定します。

毎日自分の十字架をつけてついてくると言われました。

時には私たちは苦しみがあっても道を行かなければなりません。

だから私たちは苦しみの後に起こることを知る必要があります。

今日、聖書は苦難の中でも喜ぶと言いました。

その理由は

苦難は忍耐をもたらします

忍耐は練られた品性を産む

練られた品性は希望を生み出すことを知っているからです。

 

最初はそのことが苦難に見えましたが、後にはそれが希望に変わるということでしょう。

 

詩篇119:71

苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。

 

ヤコブの手紙1:2-4

1:2 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

1:3 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。

 

あなたの鍛冶屋で鍛冶屋が良いナイフを作るために鉄を火に入れます。

そしてハンマーでその鉄を打つ

これが試練です。

ところがずっと火に入れて殴って火に入れて殴ってこれを繰り返します。

すると、その鉄は非常に硬くなります。これは練られた品性です。

 

そして練られた品性の状態から希望が訪れるのです。

あなたの願いはただ私が望む願いではありません。

希望は神の願い天の願いです。

ところで、普段は本当の希望が何なのかよく分からない。

 

昔、ハ・ヨンジョ牧師はこう言いました。

健康なときは知りませんでしたが、病気になるので、私の時間も能力も限られています。

そうなると玉ねぎの皮をむくような本当に重要ではないことはしなくなったんです。

そして最も重要な本質だけが残ったということです。

そしてそれが本当に私たちが求めなければならない希望です。

 

パウロとシラスはピリピで伝道し、刑務所に閉じ込められました。

そこで二人が賛美をし始めたので地震がありました。

牢屋が開き、彼らは自由の体になりました。

彼らは刑務所から出てくるのは望みではありませんでした。

看守が自決しようとすると、パウロは彼を止めました。

そして彼に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたとあなたの家族は救われます。」 」と言うと 本当にその看守の家族が救われました。

天国の願いがその刑務所でなされたのです。

 

試練や練達がなければ、考えは複雑になります。

パウロはおそらくその宣教旅行のために費用が必要だったでしょう。

また、その旅行の業績をよく記録し、人々に宣伝もよくしなければならなかったでしょう。

安全も重要であり、そのためパウロの働きが人々に認められることも重要でした。

私たちの教会も建物も必要、財政も必要、組織も必要、広報も必要です。

しかし、これらのことはすべて不要です。

本当になくてはならないものは何ですか?

それは主を信じる信仰と聖なる崇拝と失われた魂を求めて福音を伝えることです。

 

私たちは数年間コロナ禍のために試練と練達の時期を経験しました。

これが私たちを困難にすることを私たちは知っています。

しかし、この時期に皆さんよく考えてみてください。

私たちが本当に見逃してはならない真の天の希望は何ですか?

私たちはそれを見つけます。

 

苦しみの中であなたが希望を持っていたなら、その願いは通常望みではありません。

その願いは明らかに主がくださった願いです。

決して絶望で終わらない。

なぜなら、その希望は神が私たちの心に注いだ愛の結果であるからです。

聖霊様がその愛を私の心に注いでくださったのです。

すでに神が印を押してくださったので、

その希望が失望で終わったり、恥ずかしいものになることはできません。

 

この時期、皆さんが見えないと信仰生活をしないでください。

試練に勝ち、練られた品性を成し、その中でくださる神様の願いを発見し

その希望は必ず成し遂げられる。

その希望は結果だけでなく、

その希望が成し遂げられる過程も私たちにとって喜びになります。

 

6-8節を見てみましょう(私の罪人との和解)

 

イエス・キリストを信仰によって義であると認められた人に与えられる第三の恵みは、

罪人の私の存在との和解です。

人にとって最も神秘的な人はまさに自分自身です。

人は自分と和解できないことが多い。

自分を必要以上に評価して優越感を持つとか、重度の罪悪感を持つこともあります。

自分に対してあまりに劣等感を持つとすれば、他人が自分を卑下すればそれを我慢できません。

自分の弱点と弱さを隠すために他人を無慈悲に批判することもあります。

拒否されたことについてあまりにも恐れている。

他人に愛と認めを得るために何でもして、

その人が私のコントロールの中にいると思うと、一瞬で不快に感じます。

 

これらすべてが事実、人の中の幼い頃から起こった傷から来るものです。

その傷はすべて罪から来るものです。

これは矛盾の塊である人間として生まれた私たちです。

この世界にただ無責任に投げられて何とか激しく生きていかなければならない存在が私たちなら、 私たちが生きている意味は何ですか?

ある若者が自分の誕生日にこう言ったそうです。

二十数年前、私が生まれたのが最大の悲劇だ

 

さて、皆さんに一人のドイツ系米国人宣教師を紹介します。

ソ・ソピョンという人です。

子供の頃不幸に育ったシェーピングという女性は看護師になり、

1912年、朝鮮の光州地域に派遣されます。

そして、韓国人と同じ服を着て黒い男のゴムの靴を履いて

14人の孤児たちを養子として世話をして 一生彼らのために生きた。

 

徐徐平 という意味は「ゆっくり平穏に」です。

これは、急いで生きてきた自分が逆にゆっくりやさしく生きよう

という意味で自分の名前をつけたのです。

cgntvでこの宣教師の人生を映画にしました。

私はこのようにキリストの道を歩んで一生を送られた方を見ると、

この方は人生をどのように生きなければならないか、どれくらい

知っておられたという感じを受けます。

 

この方は栄養失調で50代に天国に行きました。

ベッドサイドに書かれた文章は次のとおりです。

Not success, But service  

                 「成功ではなく仕える」

この方の人生がこんなに貴重なのは

イエス様の愛を実践されたからです。

そしてイエス様の愛を実践できたのは、

イエス様の愛を本当に受けたからです。

 

神の愛はどんな愛ですか? それは許される愛です。

私たちがまだ罪人になったとき

空中権勢を握った者の霊に捕らわれる。

肉体と欲望で生きていた罪人、

そのような怒りの子供たちのために、イエス様は自分の命を与える価値はありませんでした。

しかし、そのような罪人のために、キリストは十字架を持っています。

神様の愛を先に明らかにしてくださいました。

このような愛と恵みが満たされるように

                                    https://hajungwoo4.exblog.jp/24178202/  

ソ・ソピョン、ゆっくり穏やかにのあらすじ

1912年、一人のドイツ系米国人宣教師が韓国にやって来る。彼女の名はソ・ソピョンといった。ソピョンは済州島でハンセン病患者の面倒を見るようになる。そればかりかホームレスや孤児達にも目を向け彼女は救いの手を差し伸べたのであった。当時は貧富の差が激しく貧しい人はどんどん生活が苦しくなっていったのである。孤児たちは国や朝鮮の人からも見捨てられ行き場を無くしていた。ソピョンは女性の地位を向上させるため”二日学校”を建立。彼女は生涯献身的に貧しい人たちを支え持っているもの全てを与えたのである。

ソ・ソピョン、ゆっくり穏やかにのイントロダクション

キリスト教の教えを守り異国で貧民らを献身的に世話したドイツ人宣教師の生涯を追ったドキュメンタリー。

ソ・ソピョンは最終的に孤児14名の養子と38名の未亡人の世話をした。その行動から彼女は朝鮮のテレサと言われている人物である。

ソ・ソピョン、ゆっくり穏やかにのキャスト

ハ・ジョンウ(ナレーション)
ユン・アンナ
アン・ウンセ

ソ・ソピョン、ゆっくり穏やかにのスタッフ

監督…ホン・ジュヨン、ホン・ヒョンジョン

ソ・ソピョン、ゆっくり穏やかにのデータ

韓国公開日:2017426

ちょっと一言

俳優ハ・ジョンウが自身がクリスチャンということもあり、無償でナレーションを担当しています。ソピョンは栄養失調で亡くなるほど献身的に貧しい人を支えました。