202515() 北九州シオン教会 主日礼拝
 
 李  泳善 (イ ヨンソン)師
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 ローマ人への手紙21729 「教える人の罪」
 

2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、

 2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

 2:19 20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

 2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。

 2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

 2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。

 2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。

 2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

 2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

皆さん、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

今読んだ聖書の箇所はローマ人への手紙217節から29節でした。ローマ書は基本的に、義人はいない一人もいない、ということを前提として書かれています。即ち、救いが必要でない人は一人もいない、というのは全ての人が神様の前では弱い人間だということです。全ての人には救いが必要である、恵みが必要である、ということですね。その理由は、人間はみんな神様の前で、アダム以来罪によって死が入り、その死の定めとして神の裁きの前に立つものだからですね。罪は色もないし味もないし目に見えるものでもないんです。しかしその罪は罪意識を起こします。

そしてそれが人を苦しめ、全ての問題の根源にはその罪があるということです。だからそれは人にとっては苦しいことですね。  その罪の前で人は3つの反応で態度を表します。1番目はローマ書によると、神様の恵みがあるのにも関わらずそれを真正面から無視することです。2番目はその罪の前で他人を裁くことですね。他人を裁くとその裁きによって、私はもっとましだと思ってしまうことですね。しかしローマ書はその裁きに自分が裁かれると言っていますね。3番目の態度は教えることです。私は教えるから、私は大丈夫だと思ってしまうことですね。今日の聖書はそれに対して私たちに話してくれています。教えることというのはどんなことでしょうか?私が正しいことを教えるから私はましだ。私は大丈夫だと思ってしまうことを今日聖書は言っています。

私はミッションスクールの大学で聖書を教えています。99%がクリスチャンではない大学生に聖書を教えるのは簡単なことではありません。必須科目なので、興味を持っている学生は少ないんですね。教室に入るのは、私にとって毎回が霊的戦いのようで、教室に入る前に良く祈って入りますね。教会でメッセージをすると、皆さん良く聞いてくださいます。今もみなさん良く聞いてくださるじゃないですか。でも教室に入って教えたら、本当に学生達が聞いてくれないんですね。私はいつもこのように考えました。「 教えるということの、その本質は何だろうか?」 学生に必須科目の単位を与えることか?教養として聖書を教えることか?彼らがもうちょっと道徳的な人間になるために正しい事を教えることか?私が雇われているから、ここで働いていることなのか? 教えていることの本質が分からなくなる時が多かったのです。

私は梅光学院幼稚園の園長も務めています。一週に一度月曜日の朝、 合同礼拝で100人ほどの幼稚園児を前に、メッセージをします。ところが、その時間が私にとって、どれほどの喜びなのか分かりません。なぜなら、幼稚園の子供たちは目を丸くして、聖書の言葉を一生懸命聞くいてくれるからです。

聖書の中に、砂の上に家を建てて、雨が降ったらそれが流された、というイエス様の例え話がありますね。砂の上に建てた家を絵に描いて、その上に青いビニールを被せたら雨がバーっと流れているように見えるんですね。そうしてその話をすると、本当に子供たちは目を丸くして聞いてくれます。それに歌もつけて歌いながら教えました。雨が降って水が溢れて家が流されたということを話したら、子供たちが盛り上がって、もうど盛り上がってくるんですね。その時、小さい子供は熱狂的な学ぶ人だなと思いました。人生で本当に必要なことは幼稚園で全部習ったと書いてある本もありますね。皆さん、小さい頃は記憶がないですね。記憶がない時期に習ったことで一生行くという言葉もあります。そして私は、大学での講義と幼稚園でのメッセージを通して、教えること学ぶことって、 あぁこんなことかなと、ちょっと分かりました。それは教えることも学ぶこともその内容が私の人生の生活の一部になること、それがその本質ではないかということです。すなわち教える人は教えることが自分の一部になること、学ぶ人も学んだ内容が自分の一部になること、その生活になること、それが教えること学ぶことの意味・本質ではないかと思います。

これは霊的面でも同じだと思います。神様はイスラエルのために神様の教えを彼らに渡しました。すなわちそれは律法です。モーセを通して神様はイスラエルの民が律法を学び、そして律法の通りに生きていくこと、そして それがどれほど祝福されたことなのかを、多くの人々にそれを示してモデルになって、本当に全ての民族が神様の言葉を学んでその通りに生きていくこと、それが神様の目的だったのですね。その祝福の通路になるために神様がイスラエルを選んだわけです。しかしイスラエルはその自分に与えられた特権でもあり義務である、教える使命を失ってしまったわけです。

そして教えることに対するその本質を掴むことができませんでした。彼らは自分が教えている言葉自体が自分だと錯覚しました。しかし神様の目からはそうじゃなかったのですね。イスラエルに伝えた律法を教えるけれど彼らはその通りに生きることができなかったんですね。そのことを前提として今日の聖書を一つ一つ学んでいきたいと思います。

それでは1720までを皆さんもう1回読んでみたいと思います。 

もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

ここでユダヤ人というのはどんな意味があるのか、それはあなたが自分をユダヤ人と称しユダヤ人として生まれたという意味ではなくて、ユダヤ人の本質は何か、それは律法を持つことに安んじ、神を誇るということです。律法を持つことを安んじ…という言葉は、他の聖書で見ると、律法に頼って生きるということですね。律法によって生きる、律法を守って生きるということです。そして神を誇り…それは神を信じることですね。すなわち神を信じ、その神を信じる具体的な生き方として、神様がくださった律法・言葉を守っていく、それがユダヤ人だということですね。そしてその結果ユダヤ人は神を信じ律法を守って生きることによって18節を見ると御心を知り、神様の言葉を持っているから神様の心を知るということですね。皆さんは誰かの心を知るというのは、その人の言葉をよく聞いた時にその人を知ると言えますね。その人と会話を深く頻繁によくする時に、ああ私はあの人の心を分かっていると思うのではないですか。それで関係がよくなるのではないでしょうか。だから同じですね、神様の言葉をよく知って守っているからこそ神様の心を知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、自分がどのように生きるべきかを神様の言葉を良く知っているからこそわきまえることができるのです。わきまえる、とても大事ですね。また19  知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師 そうですね、分かっているからこそ誰かを案内することもできるし、その知識で無知のところに光を照らすこともできるし、よく分かっていない人の導き手、幼子をよく教える教師になれますね。それこそが知恵です。

例えばこういう例えを考えてみましょう。二つの種があります。一つの種は熱い油で揚げた種です。そしたら命がもうなくなりましたね。もう一つの種は本当の種です。この二つを見ただけでは分からないですね。この二つを土に蒔いたら、こちからは芽が出ないですね、でこちからは芽が出ますね。知恵は何かというと、種の状況を見て、これは命がない、これは命があるということを見分ける力。植えてみて芽を見て後で分かるのじゃなくて、もう最初からそれが分かる。それが知恵ですね。悪は実を結ぶことができないです。善は必ず実を結びます。

ソロモンの知恵もそうですね。二人のお母さんが一人の子を、お互い自分の子だと主張してソロモンのところに来ました。一人のお母さんが本当のお母さんです。もう一人のお母さんは自分が苦しんだから他人まで苦しめたいという気持ちで自分の赤ちゃんだと…それは偽りですね。でもその子供・赤ちゃんを半分に切って分けなさいと言った時に、本当のお母さんは「いえあの人の子供です」と子供の命のために譲ったんですね。 ソロモンはそれを見て分かったんですね。どちらが真実でどちらが偽りか、どっちが善でどっちが悪か、それを見分ける力それが知恵です。知恵は神様から来るものです。律法を知っているものは神様が定める善悪を区別して真実と偽りが分かる。だからこそ案内人・光・導き手・幼子の教師だと言えるんですね。それが律法の素晴らしさ神様の言葉の素晴らしさであり、ユダヤ人がなすべき大事な使命であります。しかし現実はどうなのか、それが21節から24節までに書いてあります。 一緒に読んでみたいと思います。

どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。                    アーメン。

ここで聖書は教えることに関する本質を私たちに知らせてくれます。教えるっていうことは、それを教えることより、それを守ることが大事ですね。だから教える人にとって一番警戒すべきことは偽善者にならないことです。聖書は言っています。人を教えながら自分自身を教えないのですか、他人は教えながらなぜ自分にそれを適用しないのですか、盗むなと言いながら自分は盗むのですか、姦淫するなと言いながら自分は姦淫するのですか、偶像を意味嫌いながら自分は神殿のものをかすめるのですか、律法を誇りとしながら律法に違反してるんですか、それで神様の名はあなた方の故に異邦人の中で汚されている理由は、教えながら本人はそれを守っていないからだということですね。結局今日のこの言葉を一番よく覚えないといけないのは皆さんより実は私ですね。私がいつもメッセージをする人だし教える立場にいることがが多いからです。

だからヤコブ書31はこう言って言います。

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

ヤコブ書がはっきりこう言っていますね。教師になるのがいけなという意味よりは教師がそれほど難しいことだということです。なぜなら教える人は言葉が多いですね、言葉が多いからこそ自分が守るべきことが多くなりますね。だからこそ偽善者になりやすい。だからそれを逆説で教師になってはいけませんと言ったのは、それほど教師は難しい。でもその役割はとても大事だということです。

昔、ある本を読んだことがありました。そこにはある親の話が書かれていました。小学生くらいの子供を育てているその親は学校の先生です。彼は朝からすごくドキドキしたそうです。朝からすごく興奮して何か期待する気持ち…、それはその日が父の日だったからだそうです。

その日小学生の子供がお父さんに「ちょっとお小遣いちょうだい」と言ったので、お小遣いをあげて学校に行かせたそうです。父の日にうちの子が私にどんなプレゼントをしてくれるんだろうと、朝からずっとドキドキして、昼になって家に帰って、そして子供が帰ってきたそうです。何をくれるんだろうとずっと待っているのに、何もくれないそうです。夕方になったらその期待が反対に怒りに変わって、今まで育ててあげたのに!もう!何してるんだ!と、それでイライラしている時に、その先生の親から電話が来たそうです。「あなた!今日は父の日でしょう!電話1本でもしなさい!」と言われたそうです。その面白い話を読んだことがあります。 自分は子供に期待したけど、実際に自分の親に対しては電話一つかけることを忘れていたということです。これが多くの人々が忘れやすいことでありますね。

皆さん、人は自分の言葉が自分だと思ってしまうことがあります。もちろんその人の言葉がその人の多くのところを表すことでもあります。でも必ずそうではないんです。私が教えるからこそ、「教え=私」ではないんですね。だから、その教えも自分に適用しないといけないことです。

神様の前で、何が善で何が悪だということを教えるからこそ、自分は大丈夫だと思ってはいけないんですね。それを認めないといけない人こそがユダヤ人だということですね。教えることが特権になって、それが誇りになってしまったら人は傲慢になってしまいます。

今、韓国は政治的にとても大変な状況ですね。大統領を含めて社会の上にいる多くの方が法律を扱う人々です。特に大統領が検事出身なので、その周りの多くの人々が検事や弁護士や裁判官など法律を扱う人ですね。でも今回、法律を扱う人がどれほど法律を守らないのかが、明らかに見えました。法律を扱っていながら自分に対しては法律を全く守らないことの矛盾が見えたわけです。        尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が●●●●2024.12.3夜、非常厳戒を発令。国会で大統領弾劾審議)

イエス様の時代の宗教指導者、多くの人々がそのような誤ちに陥り、

イエス様はその姿を見て、この家は祈りの家なのに強盗の巣にしてしまったということをおっしゃいました。

そしたら皆さんどうすればいいのでしょうか。私たちはどうすればいいのでしょうか。それに対して25節から29節で聖書は説明しています。

もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ユダヤ人の印は割礼ですね。割礼を受けたからユダヤ人である。それも意味があります。しかし本当は心の割礼が必要だと。律法を知っているからユダヤ人ではなく、聖霊によってその神の言葉を愛して守ることこそ神様の民だということですね。

ペテロ第1の手紙29にはこう書いてあります。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

アーメン。私たちはユダヤ人ではないです。しかし私たちは神様から選ばれたキリストを信じる信仰によって選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のもとされた民です。ハレルヤ!だから私たちはその光の中に招いてくださった方の栄誉イエス・キリストの神の御国を主の愛と御業を告げ知らせるために私たちは選ばれた者ですね。その意味で私たちはユダヤ人と同じ神様の民であります。それは何かの資格があるから、何かを全うしたから、何かをしたからじゃないですね。私も私の名前の前に付く色々な教師や園長や主任やそういう肩書がありますが、でも私は神様の前で 一人の人です。

ヘンリー・ナウエンという有名な作家がいます。彼はアメリカの有名な本当に一番いい大学の教授でした。でも彼はそこを辞めて、カナダの障害者の団体に入ったそうです。そこでボランティアとして仕事をした時に、重い障害を持って毎日苦しんで生きている障害を持った方々にとって、彼の肩書、どこの大学の教授だった、どういう本を書いた…ということは、彼らに1つも理解できないことだったそうです。しかし彼らにとって大事なのは言葉ひとつ、表情ひとつ、彼らと共に過ごす時間、その一つ一つだったそうです。

2025年を迎えて私たちがもう一回覚えるべきことは、

私たちがどんな人であっても、神様の前で一日一日を、神様から力を受けて、毎日神様と共に歩んで行かないといけない、そのようなものであることです。2025年の北九州シオン教会年間聖句を見たら、まさにそれだなと思いました。皆さんもう1回読んでみましょうか。「主にあってその大能の力によって強められなさい。」エペソ610節です。私たちも神様の前で、私たちが本当に神様と共に歩むことにおいて、その大能の力によって強められるということは、毎日毎日神様の前で主と共に主の御言葉と共に生きる時にこそ、その大能の力をいただけるのではないかと思います。毎日神様の前で、私は毎日神様なしには生きられない弱い存在だということを認めた上で、私たちがキリストの愛と恵みを求めて生きること、それが主と共に歩む大切な道だと信じます。2025年本当に神様と共に歩む皆さんでありますように。そしてその御言葉を、私たちは実践して生きる皆さんでありますように。その意味ではQT(クワイエット・タイム御言葉黙想の時)がとても大事だと思います。御言葉を毎日黙想して食べていく皆さんでありますように、主のお御名によって祝福します。

お祈りします。

愛する天の神様、2025年が始まり一週目の礼拝を捧げます。私たちが毎週あなたの御前で礼拝を捧げるのは、私たちが毎日あなたを求めて祈り、御言葉と共に歩むのは、あなたこそ私たちに力を与えてくださる力の根源だということです。それを信じているからこそ、私たちはあなたの前に毎日あなたの恵みの御座に出ます。進みます。2025年北九州シオ教会

の上にあなたがさらなる恵みを与えてくださり、ここにいらっしゃる方々一人一人そのご家族の中にその職場の上に、神様の恵みと真が知恵と力があなたの大能の力が、一人一人の上に注がれますように。毎日を主が

祝福してください。全てのことを主に委ね、感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。