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 マルコ福音書 10章46節~52節

10:46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
10:47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
10:48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
10:50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
 2024年1月31日(水)リビングライフQT

日本中を震撼とさせた、能登地震の映像と、大混乱に陥った被災者達の叫び、映像に、思考が止まるような、感覚を覚えました。
阪神淡路大震災から29年、あの朝、起き抜けて、祈りのために会堂へと行く前に、TVをつけた瞬間、高速道路が倒れて、車が潰されている映像が飛び込んできた。こんな早朝からこんなドラマどこがやっているんだ
それがあの阪神淡路大震災の第一報でした。
その後、
☆東北震災・津波・火災
☆奥尻島地震と津波
☆松代群発地震
☆秋田地震 ☆新潟地震 ☆北海道胆振東部地震 ☆十勝沖地震 ☆熊本地震  ☆数年前からの能登地震・・と経て(順不同)、今回の能登大地震で、新年の年頭を揺るがす、日本国民全体に激震となって、この年が始まって、1ヶ月が閉じようとしています。
今朝改めて、被災地の方々の慰めと復興への、あらゆる支援の充足を祈りましょう。

さて、今朝のテキストは、一人の盲人の人生に起こった、全てを覆す光について、学びましょう。
まず、バルテマイ(この盲人の名前)の目が閉ざされて、暗黒の中に取り残されている様に、彼の人生は、生きるために物請いしながら、只生きるしかない日々でした。

私は、今から19年前に“SJS=重篤全身性皮膚壊死症”と言う、難病に罹患し、生死の間をさ迷う4週間後、病状が次第に落ち着いてきた(その時点で全身湿疹で皮膚は剥離し、毎日頭以外の全身の皮膚が剥離して、皮下から、滲み出る血液と体液で)、病衣も敷布も、どろどろに濡れる毎日でした。
そんなある朝、目が覚めても、全く何も見えないと言う、完全失明となりました。
この病は、致死率が30%と高く、生き残れたとしても後遺症として、全盲か、弱視になる確率が非常に高い・・・と、知っていましたので、『ついに来たか(はてな)』と覚悟しました。それからの2~3週間、完全失明のまま、一人でエレベーターで階下に降り、入浴したり、食事も同室の方が声かけして下さり、何とか介助なしで食事もしていました。
(こうして、私は結果時に6ヵ月の入院を、経験しました)
今の時代だからできましたが、2000年前(日本で言えば縄文時代です)の、障がい者は人として扱われない時代です。彼は繁栄する大都市エリコの町にも入れず、門の外で物請いをしていたのです。しかし彼の耳は聞き逃さなかった。群衆のざわめきの話題が何かを‼️
この鋭さが生きる力なのです。
実は、わたしも、目が完全失明した朝、手探りで洗面所に行き、手探りで窓を開けると、サッーと、朝日が飛び込んできて、その明るさが今まで以上に、いのちを感じたのです。(明暗の識別は残っていました。)
バルテマイは、群衆のざわめきの中に、いのちの光を感じたのです。『“ダビデの子よ❗私を哀れんでください‼️”』人々が押し静め様とすると!ますます声をあげて叫んだのです・・・
凄まじい勢いです‼️
主はその様子を観て言われた『彼を呼べ』
(は)(れ)(る)(や)
主に呼ばれて、受けた問いかけに、間髪を入れず、
『“先生、目が見えるようになることです”』…と✨
素朴に生きてきた、彼の内なる願いはただこの一時でした。
この内なる想いが、あの誰をも押し止められない“叫び”となっていたのです。
私があの窓辺で、朝日を浴びながら思ったのはこの“一事”でした‼️
即ち、“主はこの光の中を歩ませてくださる“でした‼️
あなたは今朝、主に何を求めますか(何)
 マルコ福音書 10章32節~45節

10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
 2024年1月30日(火)リビングライフQT

イエス様に同行していた12人の弟子達は、いつの間にか、イエス様に向けられている、憧れ・崇敬の眼が、自分達にも注がれている‼️と、いつの間にか思い込んで、次第に、自分等の将来への展望に向けて、想いを巡らし始めていたようですね。
しかし、イエス様の日々は、父なる神・創造者のご計画に沿った、購いの業の完成への時が、刻々と近付いているのを御感じになり、非常な緊張(私たちの罪を 一心に担う という、救いの使命に向かっての、霊的緊張感)に、魂の痛みを負っておられたのです。
その様な主のお心も知らずに、語った二人の弟子たちの言葉に、唖然とします。
しかし、ふと我が生涯を振り返って見たとき、こんな願いを主に向かって、想い描き、求めたことを、思い出します。
それを“ヴィジョン”と言い、また“主から頂いた目標”と言う名のもとに、働きの成功と、豊かな成果を主に願ったことを・・・
主に従う道は、日々新しく、主が今日も歩まれる道を、見定めながら、従う日々なのです。働きの結果は、誰かが刈り取り、また新しく、鍬を入れながら、主に従がいながら十字架の道を全うしたいですね 
 マルコ福音書 10章17節~31節

10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
10:24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
10:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
10:28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
10:30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」
  2024年1月29日(月)リビングライフQT

私たちから見たら一見、愚かに見える、この金持ちの青年の存在❗

イエス様の時代のユダヤ教徒の中では、律法学者・祭司・・等の宗教階層以外の一般信徒としては、ピカ一の信仰者だったのです。
彼はその上、自分の積み上げて来た、様々な善事善行にさえも、それを完璧だとは断定せず、更に上にある、神のご要求はないだろうか・・・(はてな)と、へりくだった(❓) 否⁉️主(当時イエス様は一般的には秀でた律法学者だと目されていた)、から『完璧です‼️』との、お墨付きをいただこうとしたのかも…⁉️

イエス様は、この青年を”慈しんで“言われた・・・と、記されています。イエス様の深く悼む(いたむ)心が、伝わらなかったようですね
彼は去って行った
なんと悲しいシーンでしょう。
彼が求めた、《永遠のいのち》って、なんだったのでしょう。
今日新たに私達も《永遠のいのち》って、私にとってなんだろう…‼️と、魂に深く自問してみましょう。
主が言われる(23節以降の弟子たちとの対話で言われた)ことを、
深く胸に刻みましょう。
即ち《永遠のいのち》とは、私たちが勝ち取ったり、到達したり、その領域に入る資格を得たりするものではない・・・のです、
ただ‼️神ご自身がお与えくださるもの、主なる神と一体とされることなのです。‼️
それが27節
『それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。』と言う、お言葉なのです。
このお言葉(ロゴス)の前にひれ伏し、常に主の哀れみと慈しみを請い求めましょう‼️
**31節・・・
自分の努力で得たものは、神の国では、無価値だと言うことです。
主から頂いた赦しと救いの確かさに優るものが、他にあるでしょうか‼️ 
 マルコ福音書 10章1節~16節

【新改訳2017】
マル
10:1 イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。
10:2 すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。
10:3 イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」
10:4 彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」
10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。
10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
10:10 家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。
10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。
10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
10:13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
10:14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
 2024年1月28日(日)リビングライフQT

離婚に関する、更なる確認と、人の弱さへの、神の赦し。
福音書・パウロ書簡には、必ず登場する教えですね。
しかし、避けて通れない、重要な課題なのです。創造主の最高の傑作として(否、このためにこそ万物は創造された)、最後に創られた“人”・・・
その創られた人が、神の祝福の下で、さらに創造の歴史が始まったのです。その継承が、“愛”による、営みなのです。
“結婚”が、非常に重要なのは、これは神の御手の業を継承する、道筋だからなのです。
しかし、人の営み・智恵・感情・には限界があり(罪を犯したが故に)、主なる神の”赦し“があって、結婚が継続できない場合にも、主の慈しみが包んでくださるのです。イエス様がこのお話しをされる時にも、深い心の痛みを負いながら、しかし、身勝手な感情と思いとに逸脱する、人の罪にたいして、厳しいお言葉で、宣言されたのです。

改めて心傷めている人々を、包み主の慰めへと導いて差しあげましょう

私達は、子供の笑顔、所作、存在感に、どれ程慰められることでしょう
TVの画面に子供の姿が写ると、何だかホッコリさせられますね
子供って、どうしてあんなに自由奔放なのでしょう。
しばしば大人が、子供の声や落ち着かない姿に、イライラするのは…
*子供の未熟さのためなのか?
私はいつも、この自問自答のなかで、このように考えます。
☆それは大人の”羨望“だと…そう思いませんか⁉️
大人は自由な行動が出来にくくなっています。いつも、周りに合わせて自分を、律しています。それが自らの魂までも縛り、父なる神に、声をあげる事が出来にくくなっているのです。
さらに、主なる神への自由な叫びからも、遠ざかっているのではないでしょうか⁉️
15節:『まことにあなた方に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。』
常に神の子どもでいましょう‼️ 
 マルコ福音書 9章38節~50節

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
9:40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
9:41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:44 【本節欠如】
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:46 【本節欠如】
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」
 2024年1月27日(土)リビングライフQT

神の国の寛容
 39節~40節・・・
イエス様の働き・イエス様のご使命に反対しない・・・その様な人が、たまたま(❓)祈りによって奇跡を顕した時(当人の力ではないが)、
牧師・伝道者でない信徒の導きで、一人の人が悔い改めて罪の赦しの救いを経験した‼️
その様な素晴らしい出来事が起こった時に、
長い伝統(二千年)に培われた、キリスト教会には、階層(システム)や、伝道・習慣・規則・・・etc..が存在して、働きの枠づけがあったりしたのです。その一線を踏み越えて、事が行われると、認められなかったり、戒められたり、時には、異端視されたりすることもあったのです。
殊に、中世のカソリック教会で…宗教改革後のプロテスタントの各派の中で、異端審問が行われた歴史がありました。
今の私たちには、余り関係がないと思われがちですが、時々・・・
*牧師伝道者でもないのに…
*『それは、牧師先生のお仕事でしょう❗』・・
と、戒められたりすることは、結構あるのです。

前にも、お話しした事があるかもしれませんが・・
ニューヨークのある街角での路傍伝道で、一人の伝道者がメッセージのあと、悔い改めてイエス様を信じることを、アピールすると、沢山の方が、前に進み出て、泣きながら罪を悔い改めてイエス様を信じる姿がありました。
それを見て感動した、ひとりの男が、自分もあの様な弁舌で、人を感動させたいと、その後何度か、この伝道者の説教を聞いて、自分のものとすべく、繰り返し繰り返し練習して、ある時、それを実行したのです。
最後の招きの時には、感情を込めて、高ぶる心に涙すら溢れて招くと、群衆の中から続々と前に進み出ては路上にひざまづいて、悔い改める姿に、彼自身恐ろしくなって、身を投げ出して大声で『イエス様‼️罪深い私を憐れんでお救いください』と叫び祈り、教会に駆け込んだ・・と。

神の赦しは、父なる神・子なる神・聖霊なる神への拒絶・冒涜以外に赦されない罪はまったくないのです。
ところが中世の時代
教会の規律や戒律が、神との関係を審査する場となり、教会や聖職者(牧師・伝道者を含み)を、守る意味で作られ、それらが用いられて来たのです。
そして、その戒律に反することが、もっとも重い罪と見なされてきたのです。
何とも、この様な考えは❗主の弟子の時代からあった、人間の罪の姿なのですね。
更に、主は次のように、罪について警告されました。
人を躓かせる罪(十字架の救いに導く妨げをする罪)への容赦ない厳しいお言葉を語られました。
この様な愚かな、信仰に陥らないためにも、次のように勧められています。
☆“火によって、塩気をつけられます。”
《火によって》とは、信仰者が、“試練”によって試され・訓練された輝きを身に頂ける・・・と言う事です。
  アーメン‼️ 
 マルコ福音書 9章30節~37節

9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
 2024年1月26日(金)リビングライフQT

イエス様は弟子達への導きを、片時もお忘れにはなりません。
時は流れ、サタンは、その時を無駄に流させ様と、あの手この手で、かき混ぜようと試みるのです。
その様子が 33節~34節に表れていますね

33~34節:イエスは弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じあっていたのですか。』
34節:彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである。・・・

主イエス様が、此れからの御受難の予告を語られた直後のタイミングで
あぁなんと言う、主の悲しみ(心の傷み)でしょう。
この時(31節:十字架の御受難の予告)のために、すでに学んだ、3章13節~19節に記された12使徒の選びだったのです‼️
真に、たどたどしい歩みですが、選ばれたものは、やがて多くの時を経て、福音のために、主が歩まれたと同じ道を歩み、殉教者へと、昇華していったのです。
死ぬこと、福音のために殺されること・・・それが弟子の道だ‼️
と言うのではありません。
《わたしを受け入れる人》
“殉教”とは、死を意味してはいません。
自分を捨て、自分の十字架を負ってわたし(イエス様)に従いなさい‼️この道が殉教の道であり、勝利と栄光の道なのです。
こうして、従うあなたの、わたしの道が、サタンの領域を攻めとり、神の国を勝ち取っていく、殉教の道・人生となります。
イスカリオテのユダは、この殉教の道以外の、勝利の道をまさぐり、失望と後悔の暗黒へと落ちて行きました
今日新たに、幼子の様な心で、主の愛に応え、従って参りましょう。 
 マルコ福音書 9章14節~29節

9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
 2024年1月25日(木)リビングライフQT

霊の闘いの記録‼️
弟子達はこの記録の少し前に、主に遣わされて、町々村々を巡っていた、福音を伝えた時、主から権威を授けられて、病が癒され、悪霊を追い出し、素晴らしい経験をしていたのです。
だのに・・・なぜ、このように惨めな敗北を喫したのでしょう。
このような現実の矛盾を、伝道者である私も、随分経験したものです。
神学校で学び、訓練を受け、各地の教会へ派遣されて、先輩の牧師の下で学びながら、多くの事を身に付けて卒業し派遣されて、開拓伝道に着手しました。
しかし、しばらくすると、油切れになるのか、働きが空回りするのでした。
祈りは怠らずしました。主への信頼をしっかりもって、進んでいました。
いや、つもりでした。
しかし、どこか力のなさを、痛感しながら、歩んだ日々を思い出します。
陶芸家が、大工が、画家が、様々な熟練工が、彼らの手から産まれる至宝の作品を、私達は、(さ)(す)(が)と、感心評価します・・・
北九州隣接の、上野(アガノ)焼の窯元を見学したとき、有名な陶工の作品が、釜から出され、一つ一つ手にとって見ながら、迷いもなく、多くの作品を、ポンポン投げ棄てて割るのです。
それを頂きたい思いで見つめていましたが・・・
主なる神の技は、真似事や、姿形が似ていれば良いのではなく、いのちの《みなぎり》が、そこから溢れていなければ、生きた作品とならない‼️と、教えられました。
同様に、福音は、単に《教え》ではなく、命溢れる神の“いのち”なのです。
神の“いのち”は、“祈り”によらなければ、継承できないのです。
その祈りは、唱える祈りではありません。日常的習慣的祈りを超え、祈りの中で主なる神の命に結ばれる経験としての祈りです。イエス様でさえ、祈りを土台として、あの徴と奇跡の日々を、積まれたのではないでしょうか。
そして、主の最大の《徴=十字架の購いの業》のために、あの、ゲッセマネの園での祈りがあったのです。
29節の『この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことはできません。』とのお言葉が、、改めて今朝、迫って参ります‼️ 
 マルコ福音書 9章2節~13節

9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
9:5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。
9:7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。
9:9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
9:10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。
9:11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
9:12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。
9:13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」

 2024年1月24日(水)リビングライフQT

素晴らしい経験ですね。

その上、この三人にとっては、”千載一遇“とは、まさにこの事‼️
律法の原点(賦与者)の《モーセ》と、預言者としての筆頭の神の器《イザヤ》とが、一同に会したシーンに立ち会っている自分・・・後先なく、ただ酔い知れるような神聖な瞬間を、経験した彼らには、イエス様以上にこの二人の幻が魂を捕らえたのです。
この物語は、私たちの信仰生活においても、ありがちな瞬間を物語っているのです。
確かに、モーセ、エリヤが目の前に顕れて、
姿が見えただけでなく、現実の今の時代の事を語り合っていた‼️
魅惑、限り無く、彼らの魂を捕らえてあまりある状況だったのです。
あなたの中に、“私もこんな経験したら、迷いがなくなり、強い信仰生活を勝ち抜く事が出来るんだがなぁ‼️”・・・と言う気持ちを持った事があるのではないでしょうか⁉️
この様な考え(自称・信仰)が、実は、信仰生活に大きなつまづきをもたらすのです。
ともすれば、サタンに利用されやすい、幻体験です。
ここでのイエス様を含めての会話は、これから、主が向かわれる御受難への、旧約聖書に語られてきた、創造主の、人類救済の、ご計画実現への、メッセージを弟子たちに伝える、重要な一時だったのです。
そんな事とは裏腹に、彼らの眼が物語ったのは、旧約(私たちが言う名称です)・古(いにしえ)の信仰の二大巨頭(モーセとエリヤ)への、驚愕(おどろき)と
感動でした。
彼らの目には、最早イエス・キリストは影が薄くなり、この昔の信仰の巨頭が、心を占めていたのです。
この様な経験はありませんか。
偉大な癒しの伝道者の集会、次々癒されて歓喜に溢れて叫び踊る人々、そこにスックと立って両手をあげて、祈る癒しの器‼️
実はそこに、御霊なる神・御子イエス・キリストの臨在があるのです。
その臨在に触れる事が、最大の祝福なのです。
足なえが癒され立ち上がり、盲人が見えるようになり歓喜にむせび泣くと同じように。
私達もそこで主の臨在に触れるとき、癒された方々と同じ主に触れていただき、力を受けて変えられるのです。

ところが、三人の弟子達は❗この霊的学びにはまだまだ心開かれていなかったのです。
*10節~13節は、エリヤと彼の使命についての質問と、主のお答えですが、彼らには理解しがたいものでしたが、これからの主の歩みの一つ一つがページをめくるように、展開する、メシヤ・イエス・キリスト様の歩みとして、開かれて行くのです。
私たちの信仰生活でも、様々な矛盾した信仰の戦いに直面するとき、
その時は解らないが、主の栄光の御姿を仰ぎ見つつ、進んで受けとめて行くとき、主イエス様の輝く勝利の姿を拝する者となるのです。
“あたりを見回すと、・・・イエスだけで、もはやだれも見えなかった。”
   (あ)(ー)(め)(ん) 
 マルコ福音書 8章27節~9章1節

8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
 2024年1月23日(火)リビングライフQT

イエス様の、御使命の顕現‼️

*先ず、弟子たちへの顕現(ご自分を《キリスト=メシア》であることを、ぺテロの御霊によるキリスト告白によって、明らかにされた。)
*その上、御自分の、キリスト=メシアとしての使命は、受難の道、即ち、罪の購いの道を歩まれること‼️
*十字架の道は、サタンにとっては、一見勝利に見えるのだが、その後の復活を何とか食い止めなければ、完全な敗北となる‼️
この様な神の御子と選ばれた弟子達の会話の中にさえ、サタンは割り込んで来て、魂を“情”で揺さぶろうと、したのです。
福音の真理は、弁舌や同情や周到な根回しなど・・・によって、保護されるのではないのです。
福音を語る事により、サタンの攻撃(悪口・風評・偽りの抽象・伝統・習慣・決まり・等々)によって、破壊しようと、してきます。これが、やがて主イエスが歩まれる道筋を、決定的にしたのです。
主は、その道を、こう語るのです。
真理(福音)の道は、“いのち”を代価として払いこそすれ、自分の“命“を保護するための福音ではないのだ・・・と。(35節~38節)
☆この様な“姦淫”と罪の時代・・・この意味は、神以外に信頼したり、信仰を表したるすることを、《姦淫》と言っているのです。
私たちの福音の道は、キリスト(メシア・救い主・イエス様)と共にいきる“いのち”の道なのです。
9章1節・・《神の国が力をもって到来しているのを見るまで・・と言うのは、聖霊降臨を顕しているのではないでしょうか。
この時、信仰的に幼い弟子たちでしたが、主はすでに彼らが、聖霊に満たされながら福音に生き、殉教の道に突入することを見ておられたのです。
今は、迷いや、遅々たる歩みの中にある、私たちですが、主は私たちの祝福と完成の彼方を見ながら、これを愛し、導き続けて下さるのです。
あなたの道を主に委ねましょう‼️ 
 マルコ福音書 8章14節~26節

8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」
8:16 すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。
8:17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
8:18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
8:19 わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
8:20 「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。
8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。
 2024年1月22日(月)リビングライフQT

弟子達にとって、船の移動はほっとする、ひとときだったのですね。そんな時に、食事のパンが一つしかない・・・
13人にとって余りにも、不用意な・・・弟子達のコソコソ話に対して、イエス様は、語りかけられましたが・・・・(はてな)
弟子達は、日常の食べる事以外に話題が広がらない
二度も重ねてのパンの奇跡の後にもかかわらず…主はどんなに心を痛められたことでしょう。
パンがないから食事をどうしよう
主はそのような話題に引っかけて、
パリサイ人・ヘロデのパン種に気をつけなさい・・❗と、話題を向けられたのです。
主はこの際、イスラエル全土を支配する政治勢力・イスラエルの魂の基盤を支配するパリサイ人・・これ等の支配と影響力には、注意するように・・と話を向けられたのです。
私たちクリスチャン(信仰者)は、つい立場や、状況に安住して、現実には日常生活に埋没して、以前(救いに与る前)と変わらない日常を生きていることに終始しやすいのです。聖書を読む・祈りをすると言う日課や、礼拝に参加すると言う、これ等の積み重ねに安住して、“神の国の民‼️”と言う、栄光の選びに与っていることを、忘れがちです。
あなたの、わたしの、人生に主が何をしてくださったか、今朝、改めて思いを巡らしましょう。
23節以降・・・
盲人の癒しは、20日のテキストにあった(マルコ7:32~36)の御業と酷似しています。
瞬間の癒しではなく、イエス様と会話しながら、側に居られることを、盲人に深く感じさせながら、愛を注がれて居られる様に、感じます。良く、スキンシップと言いますが、まさにそのような配慮を感じます。
あなたはクリスチャン生活の中で、このような、主の深い愛(個人的)を実感されたことはないでしょうか‼️
このような感動が、物見高い人々や、パリサイ人・ユダヤ教関係者に、かき混ぜられないように、『村には入って行かないように…』と言われたのです。
家に帰って、静かに感謝の黙想をすることを、勧めたのです。
私たちの信仰生活の中、静かに主の臨在に触れて、魂を深く恵みに浸される時を持ちましょう‼️
 マルコ福音書 8章1節~13節

8:1 そのころ、再び大勢の群衆が集まっていた。食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
8:2 「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。
8:3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人もいます。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。」
8:5 すると、イエスはお尋ねになった。「パンはいくつありますか。」弟子たちは「七つあります」と答えた。
8:6 すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。
8:7 また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われた。
8:8 群衆は食べて満腹した。そして余りのパン切れを取り集めると、七つのかごになった。
8:9 そこには、およそ四千人の人々がいた。それからイエスは彼らを解散させ、
8:10 すぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方に行かれた。
8:11 すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。
8:12 イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」
8:13 イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。
 2024年1月21日(日)リビングライフQT

イエス様と弟子達は、ガリラヤ湖の周辺の幾つかの町々を巡って、福音を語り、御業を顕されました‼️
それらの町は・・・
カペナウム・ベッサイダ・ゲネサレ・テベリヤ・マグダラ・・でした。
町から町への移動は、ぺテロが以前、漁に使っていた舟を、足がわりに使ったのです。それは、陸路だと、群衆が追いかけて取り巻き、移動が困難になるのと、イエス様の休む時がないからでした。
人として来られたイエス様は、疲れ、傷み、悩まれ眠りを必要とされたのです。
ですから、私達の身体・魂・心の弱さを知ってくださるのです。

今日も、群衆は食べることも忘れて、主のお話しに聞き入り、癒される人達の喜びを共に味わい、長くその場を動かなかったのです。
時間の過ぎるのを気にされた主の御思いから、再びここで、人々に、身体の糧を与えられました。
(16日6章30節~44節)
魂(霊)の糧に、餓えた群衆が、全てを忘れ、求める姿を、主はどんなに喜ばれたことでしょう。
私達は、時を忘れるほど餓え渇いて、主の前にとどまり続けて、求めたことがあったでしょうか?(聖会・祈りの座・礼拝や祈祷会)・・
余りにも日常の事に心奪われて、主からの恵みに心浸す時を失ってはいないでしょうか⁉️
この重なるパンと魚の恵みの奇跡を通して、新たに問われます⁉️

主は、再び舟に乗られて、ダルマヌタ(マグダラ)に来られた。
多分、イエス様の働きの起点である、カペナウムから10kmほど南側にある町“マグダラ”です。
そこに待ち受けていた
パリサイ人達は、またまた、議論を始めた。
彼らにとって、イエス様の奇跡は、民衆への心の“まやかし“ではないか(それは、まるでマジックの種探しのように)と、論じ合っていたのです。
何と、愚かな諸行なのでしょう。
12節:イエス様の深いため息が聞こえてきそうな感じがしますね。
私達の不信仰や迷いや、拒絶感を、主はどんなに哀れみをもって、感じられておられたのでしょう
新たに、今、私達は、
主に心開き、乾いた魂を告白しながら、豊かな主の愛に近づきましょう 
 マルコ福音書 7章24節~37節

7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
7:31 イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
7:33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
7:34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。
7:35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」
 2024年1月20日(土)リビングライフQT

主イエス様は、弟子達を伴なわれて、地中海の港町ツロへと行かれました。そこは異邦人の町ですが、旧約時代から、ユダヤ人が多く住み、行き来の多い町でしたから、メシヤとしての主のお噂は拡がってはいたでしょう。ガリラヤ湖からツロ迄は、約60km以上の道のりです。

お疲れの主は家に入られ休息をとられたのですが、光の主は隠れられませんでした。
ギリシャ人の女性がやって来ました。彼女の幼い娘が悪霊に振り回されていたのです。
婦人に対するイエス様のお言葉は、
”(え)(っ)“と、思わず耳(読んでいるから“目”)を疑うような御言葉ですね。
この文面では再録しないので、ぜひ聖書の本文をお読みください。
主は、“わたしは、イスラエルの民に遣わされたのだから、異邦人のあなたの願いを、先に叶える訳にはいかない⁉️”と言う、拒否の御言葉なのです。
“(え)(ぇ)(ぇ)“
   ”イエス様が(はてな)”
ところが、彼女は、失望や、悲しみではなく、更に食らい付くように、 
異邦人を《犬》と、表現された主に対して『主よ、食卓の下の子犬でも、子供達のパン屑はいただきます』‼️(28節)
なんと言う、超越した信仰でしょう。
何度読んでも、魂を震わす感動の告白でしょう。
この信仰(イエス様への絶大な信頼)が、神の御力を引き出したのです。
更に31節以降・・・
イエス様の今日のテキストとなる行動の全行程は、約320kmにもなるんです。想像できない、強行軍です。九州管内で言うなら門司から大牟田(門司から唐津)往復にもなる距離です。徒歩でです‼️
福音書を読まれる時、この様な距離感、サンダル履きで、12人の弟子達と、徒歩での移動と、夜の休息・・・
イエス様の働きはこの様な苦難にも近い状況で3年半続けられたのです。
31節以降の出来事を読みながら、主イエス様は、静かに、個人的に深く親しく触れることを願われたのではないだろうか・・❓と、ふと思います。
聴覚・言語障害のこの男性は、二千年前の社会を考えると、殆ど人間として扱われていない人生を、生きてきていたのでしょう。イエス様は、彼を一人連れ出して、深く慈しみ、愛で包まれたのです。彼の人生にこれ以上の栄光の時があったでしょうか‼️
彼にとって、聴覚や言語を発する声の癒し以上に、メシヤに触れられ覚えられた・・・と言う源体験こそが、奇跡となったのでしょう。
イエス様が与えようとされるのは、”不思議やしるし“以上に、《神の御子》とお逢いした‼️
主に覚えられた‼️と言う事実なのではないでしょうか。
今日も主にお逢いしましょう‼️ 
 マルコ福音書 7章14節~23節

7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
7:16 【本節欠如】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

 2024年1月19日(金)リビングライフQT

非常にシビア(辛らつ)な喩えを、主は語られましたが、弟子達には理解されなかったようですね。
この喩えは、昨日のテキストの続きのような状況の中で語られています。
ただ先程まではパリサイ人達との、対話でしたが、人々が次第に集まり始めたので、パリサイ人達との対話に終止符を打って、群衆に語りかけられたのです。

15節:外から入って、人を汚すことの出来るものは何もありません。人の中から出てくるものが、人を汚すのです。
イエス様は、群衆に対して、しばしば喩えでお話しになられ、解説はなさっていないのです。弟子達でさえ、理解できないので、弟子たちだけになった時、喩えの解き明かしをしています。何故でしょう。
喩え話は、日常の話題ですが!それだけに、良く理解でき、そのお話を通して、ハット気付くとき、その教えはどの様にも、適応できる魂の問題としての気付きを、聞く者に与える力があったからです‼️
主は、弟子達には解説されています。
なぜ群衆には解きあかしなさらないのでしょう。喩え話と言うものは、聴いた者がその意味を、閃き(ひらめき)のように理解するために、語られるものなのです。
また、もし、パリサイ人・律法学者等が、これを聞いていると、その喩えが、自分達への警告・裁き・間違いの指摘をするものであることが明らかなので、間接的に、話したのです。
今日のテキストの話は、特に、ユダヤ人の宗教的慣習の厳守に対する、偽善性を説いた後だけに、彼等の怒りがいっぱいに充ちていたので喩えによって、混乱を避けたのです。
内容は、弟子たちへの解説で私達も充分に理解できましたね。
パリサイ人達は、どんなに憤ったことでしょう
私達は・・・『思ってもないことを、つい口にしてしまった。』と、辛らつなことを口にした時に、弁解しますが、正にこの事なのです‼️
心の奥深くに、潜めている悪しき思いは、抗議・攻撃の満ちた時に、口をついて出るのです。そればかりではなく、あらゆる悪は内なる人の心の中に潜む、罪と汚れから出て、社会を人を汚すのです。
改めて、私達は❗自らの内(心の思い)を、御霊によって清めて頂かねばなりません。
もちろん言うまでもなく、罪を赦し清めて頂く、御子イエス様の十字架の血潮で洗われた‼️という・・・清い心の中を、常に吟味し、言葉・思い、の全てを、清い愛と赦しと慈しみで満たしておくように、整えておかねばなりません。
どのような瞬間にも、愛に満ちた言葉を、語るのは、日常の平静さ、内に満ちている思いが、言葉となって 回りを癒し、活かし力づけるのです。
何と素晴らしい賜物なのでしょう。
そんな生涯を送りましょう‼️ハレルヤ。 
 マルコ福音書 7章1節~13節

7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
7:12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」
 2024年1月18日(木)リビングライフQT

日本には、三種類のクリスチャン《???》がいます。
① 創造主なる、父なる神を知らず、ただご利益を求める対象としての神をも止めて、迷いの人生を送り、自らの欲望(願望)を叶えるものが神だと思い、真の神を冒涜した罪に充ちた人生を示され、悔い改めて、十字架にあがない(身代わり)の死を遂げて下さった、《イエス・キリストの愛》の前にひれ伏し、それ以来、イエス様を真の愛の神と信じて、この御方と共に歩んでいるクリスチャン‼️
②同じ様に、イエス・キリスト様に出会い、このお方を神と信じた(洗礼を受けた)経験を持ち、しかし、自分に与えられた人生は自分固有の全てだから、都合のつけられる限り、礼拝に参加し、捧げ物も欠かさず、義務はきちんと果たしながら、出来る限り、聖書の教えに沿って生活している。天国に行けるために、できるだけ正しい生活を送るように気を付けた日々を送っているクリスチャン。
③クリスチャンとしての義務(そんなものあるの❓)十一献金・礼拝厳守・聖書通読と祈りの日々・人を許す・罪を犯さない・・天国に行けるレベルに沿った自覚的生活を送っているクリスチャン

今朝のテキストに現れたパリサイ人・・は、②③の累計に似ていますが、より厳格な、付加を掛けながら、信仰生活(❓)を積み重ねた人たちです。
お互いの生活を規制(律法と伝統によって)しながら、互いを戒め合う宗教生活を、していたのです。
私たちは、ともすると、その様な自虐的な生活に追い込む事が、熱心だ‼️と想い易いのです。
この様な、律法的な信仰生活は、実感の感じられるものですょうか、それは、自分の感覚の充足させるものではあっても、それが反って、神の御心に逆行している・・・事に気付かないのです。(9節~13節)がその一例です。
主と食事の席に会った弟子達は、罪に汚れた人生を示されて(神の御子のイエス様の光に照され)罪赦されて、神の子とされた喜びに溢れていたのです‼️
一体パリサイ人達は、何者でしょう
子なる神が共に居るもの達を、彼等は裁いているのです。
今日このテキストを読んだあなた❗どちらの側に立っていますか⁉️
今朝もう一度、十字架のイエス様を仰ぎましょう‼️
そしてひれ伏しましょう。罪赦され神の子とされた‼️恵みを深く感謝して、立ち上がりましょう。
さばき(人を評価する)は、瞬時にして、赦しと愛からあなたを遠ざけとしまいます。
十字架をふり仰ぐとき、直ちに、愛と赦しがあなたを包み、御国へと引き挙げるのです‼️
パリサイ主義・自己評価組は、何と哀れな宗教者でしょう。
宗教者ではなく、赦されと神の子とされた、罪人で在り続けましょうね‼️ 
 マルコ福音書 6章45節~56節

6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。
6:46 そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。
6:47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。
6:49 しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
6:50 みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。
6:53 それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
6:54 彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
6:55 そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
 2024年1月17日(水)リビングライフQT

カペナウムからベッサイダまでの距離は、ガリラヤ湖の岸に沿って歩いて8km程の近距離なのです。
ところが夕方に舟を出したので、ガリラヤ湖特有の陸地から吹き下ろす強い風のため、舟は湖の真ん中まで、押し出されました(47節)
イエス様は、弟子達から離れて、一人父なる神との交わりのため、山に入られたのです。(この様なことはしばしばだったのです)
風に逆らって岸に向かって漕ぎあぐねているところに、主が湖の上を歩いて通り過ぎようとされた時に、怯える弟子達に声をかけられたのです。『・・わたしだ恐れることはない。‼️』
主が舟に乗られると、風も波も静まった。
彼らは非常に驚き、心が不安定になったようだ。
52節に「彼らはパンの事を理解せず、その心が頑なになっていたからである。・・・」❓
5000人を養ったパンの奇跡に関して、その事実を《アーメン》として受け入れられず、心が混乱していた・・と言うことなのです。
混乱した心の弟子達には、慕わしい、慰め主のイエス様が、理解できない(メシヤなのだろうか?自分達が待ち望んでいた方なのだろうか?一体このお方をどう理解したら良いのだろうか?)
という弟子達の戸惑いが、メシヤとしてのイエスを見失う事になった・・・と言うことなのです。
弟子達の戸惑いとは別に、主は更に他の町ゲネサルに行き、更に次々と、御業を顕されたのです‼️弟子達は戸惑いながらも、ついて行く姿が目に浮かぶようです(*^。^*)
私たちの信仰生活にも、戸惑いや魂の沈滞や、不信仰などに揺さぶられることが多々あったのではないでしょうか。
しかし、そんな私たちを主は、強く引っ張って下さったのではないでしょうか。
不信仰で揺れ動く私達が、今あるのは、正に主が大きな愛で包むように、引き寄せて下さったからではないでしょうか。ハレルヤ‼️ 
 マルコ福音書 6章30節~44節

6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。
6:35 そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。
6:36 皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」
6:37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」
6:38 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」
6:39 するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
6:40 人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
6:42 彼らはみな、食べて満腹した。
6:43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。
 2024年1月16日(火)リビングライフQT

古代社会の、地方の営みはどうだったのでしょうか。現代の私たちの想像では、古代の庶民の生活はネットで想像するのを遥かに越えた、原始的なものだったでしょう。

簡単な農業と、狩猟、牧羊・・・等が当時の日常でした。ごく一部の人々の中で、イエス様の弟子となったヤコプ・ペテロ・ヨハネ・アンデレ・マタイ・・・等の中、ガリラヤ湖の漁師が、地域で力を持っていました。
地方の多くの庶民は、ここに記されている様子から推測するなら、食べることも忘れて、イエス様の、慰めのお話を聞くために、ついてくる様を、《羊飼いのいない羊の群れのよう・・・》と、表現されたのです。
それは、食を欠くと言うのではなく、心の安らぎ、魂の平安、明日への(死後への)消し去れない不安への渇望、
イエス様にとっては、心痛む魂に迫る愛の衝動が、自らに(弟子達も含めて)感じられたのです。
休む間もない弟子達への心遣いを、この群衆のために、用いられたのです。
それがパンの奇跡なのです。
ここで私たちは、この奇蹟をどのように、理解し受け入れるべきでしょうか。
当時の人々にとってどれ程、強烈な衝撃となったことでしょう。
私は、できるだけ内容を単純化して、主が民に与えようとされた、恵みが何だったのかを、見いだそうとしたのです。
それは民に対する、心張り裂ける程の、痛み悲しみだったのです。 
 このイエス様の心の痛みを知る事が、パンの奇跡の意味をさらに際立たせるようになりましょう。奇跡の原動力はイエス様の内から溢れ出る《愛》なのです。彼等が聴いたお話は、この奇蹟を通して、民の魂の中に深く、浸透したことでしょう。イエス様の教え(お話し)→深い愛の衝動から溢れた奇跡のパン(現実の癒し)→民衆の受けた慰めと愛。
御国と御心への理解と信頼。これ等が男の数だけで5000人(女性は、食事・洗濯・食料の調達・・・等で、この集団の中には多くは加わってはいなかったかもしれません。しかし、推測しても、男女合わせて7000~8000人にはなっていたと考えられます。
この数は、この地域の殆どの人々の数になるのではないでしょうか⁉️
そう観ると、主が言われた『しばらく休みなさい』とのお言葉が、今や、弟子達に高揚感と、さらに深い弟子としての道へと引き上げて行ったことでしょう。
私は今、これを書きながら、30代の頃に、台湾原住民伝道で、(2000m~4000m)の山岳地の集落を訪ねて、福音を語り続けた時の事を、思い出します。最初は私と通訳の二人だけだったのが、(全て徒歩で)集落を訪ねる度に人数が増えて、又、次の部落での集会に参加して、夜中まで交わり賛美し祈って、松明(たいまつ)を灯して、人々が帰る姿は、山の峰を越えて、灯が一つ又一つと、峰の向こうに消えて行く姿を集落の人と見送り、夜中の一時頃まで祈りながら送った時の事を思い出していました。‼️
深い感動を覚えています。7000人の人々がパンを食べて満足した光景とは、全く違うのですが、同じように、福音に触れて、主イエス様の祝福に与る姿は、共通の感動を覚えますね。
福音は霊も肉も共に養う、命の糧なのです‼️ 
 マルコ福音書 6章14節~29節

6:14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」
6:15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。
6:16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」
6:17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。
6:18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。
6:19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。
6:20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。
6:23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。
6:24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」
6:25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」
6:26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。
6:29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。
 2024年1月15日(月)リビングライフQT

今朝の、テキストの箇所は、何と、恐ろしい内容でしょう。
メシヤである、イエス・キリストの福音書に、この様な醜聞に満ちた話題を、筆者マルコは、なぜ記録したのでしょう。
ここを読むたびに、心(魂)が痛むのです。これは、人間(自分も含め)の罪の重さ・・・誰もがこの様な事をするのではないが・・・
この所業は、人は、自分の立場を守る事を最優先して、神の面前に明らかにされていることを知りつつも、踏み外して、自分の道を進んでしまうのです。
この様な弱さは、日常的に私たちに起こり得ることだと・・警告を語っているのではないでしょうか。
今朝は、根本的な罪の恐ろしさを示している、大切な記録なのです。
だからと言って、神経を尖らせる必要はあります(  -_・)?。即ち、自分にはそんなことはないだろうか・・・❓
と、余りに詮索すると、神経質に成りすぎて、恐れが先行し、心を萎えさせてしまいます。大切なのは、神を見上げ賛美し、祈りと御言葉に、自らを養い、何よりも、イエス・キリスト様を主と崇めて、常に十字架のもとに身を置くことなのです‼️
『主よ❗我が主よ‼️
光の中を歩ませ続けさせて下さい‼️』と
祈りつつ今日も励みましょう。 
 マルコ福音書 6章1節~13節

6:1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
6:3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。
6:7 また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。
6:8 そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、
6:9 履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。
6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。
6:11 あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
6:12 こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、
6:13 多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。
 2024年1月14日(日)リビングライフQT

イエス様が故郷に帰られた?(行かれた)時の出来事です。
ヨルダン川でパプテスマのヨハネから、パプテスマを受けられ、荒野での祈りと試練《40日》を受けられてから、ガリラヤ湖の中心の町カペナウムを中心に、福音を語り初められてからしばらくして、故郷にも福音を携えて、行かれたのです。
イエス様は、ナザレでは、まだ公には何も働きをしておられませんでしたから、全く知られざるお方でしたし、あのドラマチックなクリスマスの出来事は、知る者もない世界でした。
遥かガリラヤ地方での噂は聞こえては来ていたでしょうが、実際に故郷のナザレに帰ってこられたイエス様は、マリヤの息子にしか見えないのです。カペナウムでの噂を通して、ナザレの人々は、変貌を遂げ、偉大な雰囲気を持たれた、イエスを想像したのでしょう。
どこも変わらない、親孝行の息子にしか見えないイエスに対する故郷の人々の中には、イエスをキリスト・メシヤ・神の御子と信ずるには、あまりにも身近すぎて、彼らは信じられなかった。
何と言うもったいない現実なのでしょう。
しかたないことなのでしょうか?
信仰を働かせる・・と言うことは、その人その人の感性や、能力や経験や、知識に依るものではなく、単純に信じることのみです。故郷の人々が信仰を働かせなかったのは《知っている》《分かってる》と言う先入観が、フイルターとなって、メシヤとして来られた、栄光の主、神の御子イエス様だとは、見ることができなかったのです。
イエス様の母親でさえ、カナでの婚姻の席に招かれたとき、イエス様を、息子として見た事で、主の叱責を受けています。(ヨハネ2章)
5節の『何も力あるわざを行うことができなかった。』と記されています。
*行われなかった‼️とは、記されてはないのです。
これはとても大切なポイントです。
即ち主によって力ある業がなされなかったのではなく、故郷の人々が、イエスを神の御子と信じなかったからなのです。
信じる者がいないことが、御業がなされない原因だったと言うことです。
さて、神の国の福音は、速やかに言い拡げなければならないので、主は弟子たちを派遣されました。
彼らが信仰にたって、主からの力を継承するためには、イエス・キリストに直結した“信仰”を、携えなければならないのです。
そのために、最小限の必要以外は身に付けず、全ての必要、寝る場所も、食べることも、一切信仰にたって、遣わされたのです。
12人の弟子たちは、出て行って、悔い改めの福音を語り、病人のために祈り、癒しと奇跡が起こったのです。
これは、イエス様の時代だから・・と、抽象化すべきものではありません。
何時の時代でも、主に遣わされる者には、このような権威が与えられ、それが2000年の信仰の歴史の中に、脈々と繋がれて来ているのです‼️
私の58年の今日までの、遣わされた働きの中で、幾多の徴と奇蹟を観てきたことでしょう。
私の存在自身がそうでした。これからも、福音のために立ち続ける限り、主は御言葉に伴う徴と奇蹟をもって、福音(御言葉)の真実を証してくださると確信しています。
あなたの信仰も叉、同じです。ハレルヤ‼️ 
 マルコ福音書 5章21節~43節

5:21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。
 2024年1月13日(土)リビングライフQT

二つの御業‼️
会堂司(管理人)ヤイロの娘の重い病の知らせ。主は直ちに、彼の家に向けて、移動された。それは、群衆が飢え渇いて、慰めの言葉を待ち望んでいるのを置いて・・・
主の最も重要とした関心事は、人の生死である。イエス・キリストは、神の子として、人の生死に主権を持って、対応される方です。
その途中の出来事は次に回して、しかし、今向かう、生死に関わる問題の最中、主は、足を止められました。
①主の足を止めた女は、多分貧しく、人々からは敬遠される、存在だったでしょう。彼女自身その事を自覚して、最悪の条件下で、しかし、それでも噂のお方に心注ぎ、そのお方のいのち(飢え乾く彼女の最後の望み)に与りたい‼️・・・
私たちの乾きと求めは、*あわよくば・・
*聴かれなく元々・・・まるで宝くじを買うようなものでは、真実な姿ではないです。
彼女の求めは、尋常ではなかったのです。
《衣にでも触れれば私は救われる✨》これが信仰の原点です。
彼女の向かったのは、神の御子イエス・キリスト様でした。しかし、彼女はそれを解っていたとは思われません。最早自分の力や回りに居る医師の力も、全て望み得ない、絶望感があったのです。
彼女の魂は、今や、このお方以外には、100%光はなかったのです‼️
この思いが彼女を突き動かし、その渇きを主はご存知だったのです。
主イエス様は、彼女の接近をご存じだったのでしょう。彼女の渇きは、いのちの水溢れるイエス様の水源から、直ちにいのちの水を、引き出したのです。しかも、それを主が感じ取られて、彼女と対面されるまで、彼女の告白まで、引かれなかったのです。その結果は・・・
『娘よ、あなたの信仰が、あなたを救ったのだ‼️』『安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』と、御声をかけられたのです。今朝、あなたも主からのお声かけを頂いて、今日の歩みを始めましょう‼️

未だもうひとつ、物語が・・・
②35節~43節
ヤイロの娘の、蘇りの物語です。
ヤイロの家は、死の悲しみと、同情に満ちていました。絶望の空気、言い換えると、死の支配者であるサタンの支配(絶望)が、辺りを支配していたのです。イエス様は、その様な中に立たれて、『恐れないで、ただ信じていなさい❗』と言われていますね。
このお言葉は、何といのちに溢れ、力に満ちたお言葉でしょう。
主は、この部屋に、誰も入れないようにと、
三人の弟子だけを同伴されました。
死の部屋は、直ちに、いのち溢れる、光の部屋となりました。
あなたは信じますか⁉️
大切なのは、この少女が蘇った‼️という奇跡なのではなく、弟子達(ペテロ・ヤコブ・ャハネ)が、そこで視たのは、主が《いのちの光・いのちの支配者》であると言うことを視た‼️と言うことなのです。
主は、その後、この事を《誰にも話さないように‼️》と、強く話されました。ゲラサの男の癒しの時と同じように‼️
それは、口止めをすると、人の性質上、語りたくなる‼️と言う逆効果を狙った・・と言う解説を見たことがありますが、愚かな解説です。
そうではなく、ただ噂話となって拡散されることになり、
真実な、“イエスは主なり‼️”と言う、いのちの証が失われるからなのです。
あなた(私)の主は、いのちの光なるお方なのです。
今病を持って、痛んでいる方、困難の真中におられる方、死の不安におののいている方・・・人の力、医療の力に望みも尽きて痛んでいる方・・・
あなたの信じている主イエス様は、いのちの君なのです。このお方に信頼し、このお方を仰ぎ見て、主に触れて参りましょう‼️ 
 マルコ福音書 5章1節~20節

5:1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。
5:3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。
5:4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
5:5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
5:6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。
5:7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
5:8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
5:11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
5:12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
5:13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
5:14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
5:15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
5:17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
5:19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
5:20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 2024年1月12日(金)リビングライフQT

この記録は、
マタイ 8:28~34
ルカ 8:26~37に、
その平行記事を見ますが、ほぼ記録内容は、同じです。
聖書テキストに見るように、この錯乱した一人の人により、ゲラサの町中の人々が、不安と混乱の日々を送っていた様です。
この出来事は、サタンが人間社会にもたらしている、精神的災害の、象徴的出来事に見えます。町中がこの一人の存在によって、平和と安寧を奪われているのです。誰も、手が付けられないで居るのです。罪に沈む他の人々にとっても、介入・コントロール・制御できない、社会問題となっていたし、町中の人達が、彼の魂の内なる問題(哀しみ・後悔・慚愧・悔い)に、耐えられずにいたことを、或いは知りながら、同じ罪の中に生きる人々には、対応する言葉もなく、ただ、見守る事しか出来なかったのかもしれません。
それは、3節~5節に表されています。
私は、こんな経験をしました。
1945年11月頃でしたか、その年の8月に、終戦となり、疎開先の福島から伝道の拠点だった、下関(開拓伝道していた自宅を空襲で失った)に帰るべく、広島が通過できないので、山陰経由で帰還途中、岩見益田が洪水のため、鉄道が流され復旧途中だったので、松江にしばらく滞在しました。その時に借家した所で、朝に夕に、その村(漁村)の神社に、お参りに来るお爺さん(5歳の私にはそう見えた)が居ました。その方が大声で叫び暴れ物を壊し、子供を追い回すために、その時間帯は誰も外に出ないで、息を潜めていました、父は、下関に家族が安住出来る家又は部屋を探しに、単身で、普通区間を歩いて、下関に行き不在でした、父が部屋を見付けて帰るまでほぼ1ヶ月は、私たち家族(身重の母以下五人の子供たちは、恐怖の毎日でした。
やがて父が帰宅してこの事を知りある夕方、一人出て行って、その暴れる人が来るのを待って、神社で彼を捕まえ、祈って彼の、気持ちを沈めてから、彼の怒り、寂しさ、絶望の原因を聞き出したのです。戦争に出た、たった一人の息子が、戦死したのです。国を恨み、天を恨み・・・あらゆる者にその怒りをぶつけていたのです。
父は、彼を抱き寄せ、泣くだけ泣かせたあと、天の父なる神に祈り、慰めと、励ましの言葉をかけて、家まで送って行ったのです。それっきり、その漁師町は静かになり、まもなく、私たち家族はその地を離れたのです。
哀しみ、絶望は、心の中に破壊的な思いを忍び込ませる、悪の霊に隙間を与えます。
聖書のこの夜昼叫ぶゲラサ人も、きっと心の隙間に、何者か(サタン)が忍び込んだのでしょう。
神の御子イエス・キリストは、サタンを支配し、排除することの出来る、権威者なのです。
人々は、この素晴らしい権威者である神の御子を、怖れて町から追い出したのです。
これが人の世界の罪の現状なのです。
トラブルが無くなれば良い❗
しかし、この騒いでいた男の存在は、”人“一人一人の現実の秘めた姿だ‼️と言うことに気付かないまま、生き続けては、又、同じ危機に直面するのです。
神の御子を退けた愚かさを、忘れてはなりません。
しかし、一方、サタンから解放されたこの男は、何と幸いなのでしょう。
18節~20節の、後日談は、何と驚くべき“奇跡”なのでしょう。
主なる神の手に心開け渡した者に与えられる恵みは、何と驚くべきものでしょう‼️
神の前に、人が心明け渡すか否かで、世界は変わるのです。
彼一人の救いにとどまらず、この地方(デカポリス=十の町の意)全体に、神の恵みは証しされたのです‼️
あなたの魂を今日も主に明け渡して進みましょうハレルヤ‼️ 
 マルコ福音書 4章30節~41節

4:30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
4:32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
4:33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
4:34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。
4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」
 2024年1月11日(木)リビングライフQT

“昨日も・・“神の国”は、地に蒔かれた種のようなものである❗と、語られていました。ここでも、“神の国”は、からし種の様だ❗と、言われています。何故なら、その種は蒔かれると!芽を出し、みるみる育ち、他のどの野菜よりも大きく育ち実をつけるのです。
からし種の一粒は、ケシの種のような小さなものです。
一粒が高い木となり、無数の実を結び、更にその実に無数の種(からし種)を宿す。
“神の国”の喩えですが、では、改めて“神の国”とは何でしょう‼️
それは“福音”に他なりません。“福音”とは神の命《愛》なのです。
それは受け入れられ、内に宿すと、驚くほどの結果をもたらす‼️のです、
無限の神の愛が受け入れた者の中に、豊かな実を結び、争いを平和に、失望を希望に、死んだ様な者を甦らせ、、貧しさを豊かさに、見失っていたものを見いだし・・・これが神の国の姿なのです。
決して、天の彼方に、何万年先に実現する“.天国”なのではなく、死んでから行く所ではないのです。
あなたの魂に撒かれ、それを信仰によって育てる時、あなたの中に、無限の喜び・平安に満ちた、神の国が拡がるのですよ‼️
さて、主のこの喩えが未だ弟子達の心の中に、模索と、感動とに揺れ動いている内に、群衆を避けて、ガリラヤ湖に漕ぎ出しました。ところが、ガリラヤ湖特有の夕べに起こる突風で、弟子たちが乗り込んだ(弟子達イエス様の13人は、しばしば湖の嵐で難儀しますが)船は想像するに、定員オーバーでしょう。直ぐに舟端から波が入ってくるのは、目に見えています‼️
パニックになった弟子た達と、お疲れになってぐっすり眠って居られた主イエス様・・・何と言う対照的様子。
イエス様の眠られているそこは、正に《神の国》なのです。
そして、主の、波と風に対する、叱責は、神の御支配のお言葉でした。
弟子たちは素晴らしい瞬間を目撃したのです。しかし、その時は❗これが神の国と支配、力、栄光だ‼️とは、未だ気付かなかったのです。
ただ不思議と怖れに、心震えた経験だったのです。
あなたは、神の国を経験しましたか❓
あるいは、神の国に生かされている、喜びにありますか‼️ 
 マルコ福音書 4章21節~29節

4:21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
4:22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。
4:23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」
4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
4:25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」
4:26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
4:27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
4:28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
4:29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

 2024年1月10日(水)リビングライフQT

なかなか、難解な喩え話しの連続ですね。
☆21節~22節
日本人は、謙遜(❓)を美徳とする風潮がありましたね(もう過去の事になりましたが)実は、そうではなく、良いものは秘匿(ひとく)しておいて、人に評価して貰いたいと言う、自惚れ(傲慢)なのかもしれません。
ここで、主が言われた“明かり”とは、その人が持っている、特技や、能力や、良い性格・・・なのではありません。
明かりそれは、主からいただいた、“命の光”なのです。
クリスマスの夜、
*羊飼いたちが、天からの異象を見た時、彼らは行って主を拝み、町中に、言い広めた‼️
*東の国の博士たちは❗幼子イエスを拝んだ後、東の国メソボタミヤ地方の、メシヤを待ち望む民に、言い広めた。
*イエス様がガリラヤで福音を語り始めると、人々は瞬く間に、想像もつかない早さで南のイドマヤ(300km)・ツロ・シドン(50~80km)エルサレム(150km)と、遥か離れた地域(当時は徒歩でしか行けなかった)まで、命の光は届いて、数多くの人々がガリラヤに押し寄せた・・・
福音は、あなたの内に光となった・・のに時々、あなたは、自信無げに、ひっそりと、内に閉じていませんか。
光は命です。命はあなたを変える力です。
24節~25節:自分を見て、自分の不完全さ、弱さ、不安と恐れで、内に秘めるなら、主の命の光は閉じ込められ、人々はあなたの内にある命の光の素晴らしさを、、見る事が出来ないでしょう。

更に主のお言葉は続きます❗
先程は、“光”でしたが、次は・・・
☆“種”による、教えです。
《福音=神の国》は、それを畑に蒔くと、じっと見ていると、全く延びるのは見えないが、寝て起きて観ると、何日かすると、黒い土から勢いよく、黄緑色の芽が伸びてくる‼️やはり、じっと見ていると全く見えないのに、次の日は更に。その次の日には更に更に・・・何時の間にか、穂が出て・・・
私も小学生の頃、観察日記を書きましたが、自然の観察は、不思議です、じっと見詰めている時は、何も見えず、朝観ると物差しで測って、びっくり5・6・7・8cmと延びていますよね。
私が世田谷で小さな家を借りて、開拓伝道をしていたとき、そばに竹林がありました、あるとき、畳がホンの僅か(1.5cm)盛り上がっていたので、なんだろう?と、ドンと踏んで元に戻しました。次の日曜朝早く礼拝の準備に行ったら、部屋の中に、畳を押し倒して50cm程の竹の子が、一番乗りで、礼拝に出席していました。
私たちは彼を出席者の一人として受け入れ、そのまま礼拝を済ませて、竹の子を根本から切り取り、神学校に持って帰りました。
この箇所を読むとき、何時も思い出します。
神の国‼️何と力強いのでしょう
自分の理性や理解で、福音(神の国)を、過小評価したり、隠してしまったりしないように。
燭台を暗い部屋の真ん中に置くように、あなたの内にある光を暗く、哀しみの中にある人の側に、そっと寄り添ってあげましょう‼️
そんなあなたを、時が来ると、御使いが永遠のみ国に携え上げて
下さるでしょう (*^。^*) 
 マルコ福音書 4章1節~20節

4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。
4:2 イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
4:12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
4:13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
  2024年1月9日(火)リビングライフQT

有名な種蒔きの喩えばなしですね❗非常に解り易くもあり、同時に含蓄に満ちた、お話でもあります。
この喩えばなしは、フン❗フン❗・・・と、聴いて終われない、非常に重要な、宝が隠されている、神様からのメッセージです。
これは単に、話を聴くと言うことに関する、巧みな喩え話とは違うのです。これは、愛の神様からの、重要な意味を含む警告(15節~19節)に満ちたメッセージであると同時に、実に祝福に満ちた、宝の様な(20節)メッセージでもあるのです。
 内容が一般的にもそのまま適応できる内容であるため、しばしば社会の中で適用されて用いられていますが、しかし、このお話は、もっと、人の魂に深く関わる霊の命に関する喩え話なのです。
先ず、種蒔きと、その種がどのような経過(運命)をたどるか、が語られます。日本の農家の方が種蒔きするときは、畝をつくって、一粒一粒丁寧に、蒔くというよりは、そっと寝床において、布団を掛けるように土を被せる・・・の姿からはおよそ、想像もつかない形です。草を刈り、土を掘り返して砕きならしたその地面に、手に握りつかんだ種を、できるだけ広範囲に、撒き散らすのです。古代の農業です。
種は様々なところに飛び散り、その結果、この喩え話のような様々な様子が、生まれるのです。
この喩え話の解き明かしが、14節から始まりますが、
一番重要なポイントは‼️
☆種蒔き(農夫)が蒔いた”種“は、神の言葉なのです。
☆どこに撒かれたのでしょう⁉️
それは、神の愛される“人の魂”に・・・なのです。
その魂(心)の状態が
*耕されてない畑(地面)の様なところで鳥(サタン)がついばんでしまった。
*岩地に落ちた種。陽が昇ると熱(困難や迫害)で焼けてしまった。
*草が生い茂り茨が伸びてふさぎ、陽の当たらないところに・・・
世の思い煩い・富の惑わし・様々な欲望に塞がれて・・・蒔かれた“種”それは命の言葉=命の種・・・なのです。どんなに命に溢れていても、受け入れた場所“心=魂”が整っていないと、命の芽生えは得られないのです。
それに比べ、よく耕された、柔らかな地だと、30倍・60倍・100倍の実を結ぶは‼️
あなたは神の言葉“聖書”を、読んで実を結んでいると、自覚していますか・・・❓
それは、信仰生活で成長していますか⁉️と言うことです。
神の言葉は命があり、このお言葉をしっかり受け止め、祈りの水を注ぎ、砕かれた心の土で包み、日差しや嵐のような誘惑から、身を避け、棘や雑草を献身の清い剣で刈り取って、育てる時、時が来ると多くの実を刈り取る事が出来るようになるのです。
あなたの人生でその様な、多くの刈り取りを経験しませんか‼️
ハレルヤ‼️
あなたにも、私にも出来るのです。
何故なら、御言葉の種は命の源だからです。‼️ 
 マルコ福音書 3章20節~35節

3:20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
3:26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
3:27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒?することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒?する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
3:31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
3:32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
3:34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
3:35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
 2024年1月8日(月)リビングライフQT

今日のテキストは、大切なことが二つ、このお話しの中で、語られています。
*その一つは(20節・21節・30節)
イエス様を、人々が《少し頭がおかしくなった》と言った(判断した)からです。
30歳になられるまでは、早くに亡くなった父親(ヨセフ)に代わって、弟妹を支え、母親(マリヤ)を助けて、孝行息子と思われて来たのですから❗
突然の変貌ぶりに、そのように思い、話し合っていたのでしょう。
しかし、彼らも又、他の民衆と同じように、イエス様の語る言葉を聞いていたはずです。
ですから、主は『聖霊を冒涜する者は・・・』と、聖なる怒りをもって、御語りになられたのです。
☆この箇所は、私が中学の頃、毎週(牧師家庭ですから)礼拝に、伝道集会に、路傍伝道に、祈祷会に出席しながら、他の日常生活では、友達に誘われるままに、横道にそれて、歩んでいたのです。その時、この御言葉を意識するようになりながら、しかし、誘惑からきっぱりと離れることがなかなか出来なかったのです。
ついに、私は自分は毎週御言葉を聴きながら、まともに立ち返れない私は聖霊のみ声に従えなくなってしまったと、自らを追い詰めて、永遠の裁きから逃れられない自分を、消して終わろうと絶望の縁に立ったのです。
しかし、聖霊なる神は、更にわたしを導いて、4日のテキストの、5節の御言葉を掛けてくださったのです。
『子よ、心安かれ。汝の罪は赦されたり‼️』
(文語訳)
☆その②は、34節・35節です。
イエス様の肉親たちが心配して探しに来たのに対して・・・
『誰でも神のみ心を行う人、その人が私の兄弟姉妹、母なのです。』
あなたは、イエス様の家族の一員です。‼️
何と言う光栄‼️
そのイエス様が今日も、伴に歩んでくださいます。アーメン‼️
 マルコ福音書 3章7節~19節

3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。
3:10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
3:12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。
3:13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
3:16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。
 2024年1月7日(日)リビングライフQT

7節~10節を読んで、情景を想像してみると、その人の群は尋常ではなかったのが解ります。
ちなみに、どれ程遠方から集まったか、ただラクダかロバ以外には、乗り物のなかった時代です。殆どの人々が歩いて集まったのです。カペナウムからの直線距離は
*エルサレム 120km
*イドマヤ     170km
*ツロ               60km
*シドン     80km
丘陵地帯・山越え等考えると、実質歩行距離は、その2~3割り増しの距離になる。
人間連続歩行可能は、一日の距離は40~50kmですから、彼らを駆り立てた動機が、如何に大きかったか‼️を、物語っています。
イドマヤは、南の異邦人のテント生活原住民ですから、そこにまで噂が飛び、彼等の心を駆り立て、ガリラヤまで引寄せたのは、一体なんだったのでしょう。単なる奇跡だったとは思えないのです。
恐らくその力の沸き上がる源泉は、”メシヤ“待望であったと考えられます。
改めて、真の救い・解放をもたらすものを持っているのは、今日で言えば、《教会》《クリスチャン》の存在ではないでしょうか。
イエス様がクリスチャンの中に来てくださっている❗クリスチャンが輝いている‼️教会が躍動している‼️
繁栄した《世=世俗》が、蔭って見えるほどにまで輝いた神の子の世界が、燃え輝く姿を想像しました。
主よ先ず、私の中から輝かしてください。
この様な中から、主は12人の弟子を選び、遣わすのです。
彼等は、主から力を付与され、出ていくのです。何と光栄な働きでしょう。
14~15節:彼らを遣わして宣教をさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。
各自が置かれた教会のために祈り、各自が遣わされるために、聖霊のみ力を与えられるように、祈り備えましょう
最後の行に、イスカリオテのユダの、記録がありますが、彼も又主に選ばれ、力を与えられた一人だと・・・
選びが間違っていたのではなく、どこまでも、選ばれたはずのユダの、霊の最終的明け渡しが、出来なかった(己が勝っていた)からなのです。
私達は常に、主の前に歩みましょう。
主よ、捉えてください‼️アーメン‼️
 マルコ福音書 2章23節~3章6節

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

3:1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
 2024年1月6日(土)リビングライフQT

イエス様の福音の働きの中で、この “安息日” 問題は、繰返し繰返し、議論になってきました。ユダヤ人にとって、この律法の箇条は
最も比重の大きな教えだったのです。
何故なら、10戒のうち、最初から四つの戒めは、主なる神と人との関係に関する、重要事項です。
旧約聖書“出エジプト記20章”から、第一戒から第四戒までの要約を書きますね。
①わたし(創造主である神)のほか、何者をも神としてはならない。
②わたしを像(かたち)に刻んではならない。
③わたしの名を、みだりに唱えてはならない。・・そして・・
④安息日を覚えて“聖”とせよ。
即ち、この四項目は、創造された”人“が、創造主との関係を第一にして初めて、祝福されたいのちを、発揮できる・・・と言う、神の導きなのです。
ユダヤの民は、この第四の安息日の律法を、魂の問題としてより、いつの間にか、人生の規律・一週間のルーティーンとすることで、千年以上にわたって守り通し、ついに民族のアイデンティティー((はてな))にまで、育て上げてきたのです。今や、信仰の民・神の民として、守らない者は処刑してでも、この伝統は、崩してはならないものとなっていたのです。
実際、イエス・キリスト様が、十字架刑で、ユダヤ人達(祭司・葎法学者)達によって、処刑されたのは彼等の心情を守り、伝統とアイデンティティーを、守り抜くためだったのです。
はからずも、彼らは、神を第一といていると確信しながら、実は、神のご計画による御子を通して示された、神の愛、清さを、人間の方法で、守り、神の開かれた道を、勝手に閉ざしたのです。
まさに、アダムとエバの”罪“なのです。
28節『人の子は安息日にも主です。』
イエス様の周りは、罪を自覚し、弱く、愛に飢えた民衆が溢れていました。それを遠巻きにした、神に一番近いと自覚している律法学者・パリサイ人が、見下ろすように、どうやって、イエスを罠にかけて、神を汚す者として、消し去ろうか(はてな)と、期を伺っていたのです。
ここに、イエス様に近づいた、片手の萎えた人は、何と幸せ者でしょう。パリサイ派の人々からすれば、神から遠い汚れた民と、レッテルを張られていたこの人が、真の神の御子に触れて頂き、病が癒され魂の深みまで、神の民とされたのです。
私達は、型にはまった信仰生活に、流れないように、気を付けましょう。
魂が何時も、餓え乾き、主なる御子イエス様の”いのち“を求めて、主の側へと、いつも近づきましょう。
形から、忠実さから、頑張りから、りっぱなクリスチャンと自覚する、又そのように評価されることに、喜びを感じる落とし穴に填(は)まらないようにしましょう。
主よ❗わたしを憐れみ、今日も御側に居らせて下さい。‼️ 
 マルコ福音書 2章13節~22節

2:13 イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
2:17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
2:18 さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。
2:20 しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。
2:21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 2024年1月5日(金)リビングライフQT

マタイ(アルパヨの子レビ)への招き❗
前には、漁師を招かれましたね。
漁師は、宗教的には、当時の民の中でも、最下位にある人々でした。
今回は、社会的には、地方の政治的立場にあり、その上、収税と言う職務は、地方政治と言うよりも、支配者ローマの課税に対する職務代行者ですから、民衆からは特に反感を買う立場の人でした。
主の選ばれたのは❗この様な人々なのです。
マタイの家に招かれたイエス様、マタイの職務関係者らの、世俗そのものの状態に、パリサイ人たちは、眉を潜めて批難したのです。ユダヤの伝統的宗教感覚では、イエス様の行動は、とてもメシヤ的神秘感や、厳格な宗教性は感じられず、庶民的にまた、世俗的にさえ見えたのでしょう。
彼らのその様な非難めいた抗議の思いを聞かれたイエス様のお言葉は、
17節~『・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく罪人を招くためです。』
このお言葉を聞くとき、私達は、嬉しくなりますね
心弱く迷い、自らの心の弱さに、嘆き悲しんでいた私(達)のために、主イエス様は来られたのですから。
更に、主はパリサイ派の人々の、断食に関する、彼等の宗教的慣習に関して、疑問を呈した。この様な、伝統的信仰(宗教)生活は、洋の東西・宗教の違いに関わらず、様々な制度・制約・慣習・・・が、重要視され、信仰から来る安心・平安・喜びは、あまり求められては来なかった。
宗教が真理を隠してしまう姿が、この箇所にはっきりと示されています。
聖書の福音は、新しい宗教の教えではなく、福音に歩まれるイエス様のお姿、お言葉に出会い、新たに見聞きすることで、神のみ子から伝わる、創造主なる父なる神に出会い、永遠の神のご計画の中に生かされてきた、自らを知り、新たに主の御目的に叶う自分と成れるように、整えるのです。
最早、今まで自分を支えてきた拠り所を、自分を創られた主のみ思いに添わせる、新しい生き方を聖書の中から見いだすのです。
聖書こそ、常に最も新しい、いのちの道、私たちに備えられた道なのです。 なぜ(何故)
それは、その中からイエス・キリスト様が語りかけて下さるからです‼️
あなたの・私の魂を酔わせる新しい葡萄酒は、新しい皮袋(悔い改めた新しい命に生かされた魂)に、入れましょう 
 マルコ福音書 2章1節~12節

2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒?している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。
 2024年1月4日(木)リビングライフQT

今日のテキストの1節~5節は、私の人生を暗闇から、永遠の光の中に、導き出して頂いた、イエス様のお言葉です。
中学生活の中で、私は罪に沈み、溺れていました。牧師の家庭に生まれ、毎朝聖書を読み、祈りを捧げる生活の中で、誰よりも人間と神の関係について、敏感で何時も、神の光の中を歩ませられている・・・と言う自負と恐れに挟まれて、過ごしていながら、心の弱さで、罪に罪を重ねて、ついに逃れ得ない自分の醜さに、絶望し、自暴自棄に陥ったとき、消え入るような思いで、自らの罪を告白しました。それは立派な改心の思いより、こんな汚れた自分は赦されない
との絶望の縁に立って、火口の中に引きずり込まれるような中での告白でした。
けれどその時に、身体中を駆け巡るような熱い思いの中から、イエス様のお声が響きわたるように、私の魂から心から、全身に駆け巡ったのです。
こうして私は罪の赦しの現実性を❗体感させて頂いたのです。
このような経験をしなくても、もし、イエス様の十字架の赦しを、信じ受けるなら、直ちに罪赦され、“神の子”とされるのです。
その後、罪を犯さなかった訳ではなく、弱さの故に罪に陥る度に、この時を思い起こし、魂のどん底から罪を悔いて、☦️を見上げて、イエス様の十字架の赦しを、新たに信じ立ち上がってきたのです。

さて、この時、この中風の人は、続いて語られた主のお言葉『あなたに言う。起きなさい、寝床を担いで、帰りなさい。‼️』
何と言うお言葉でしょう。
実は、前に語られた罪の赦しの宣言と、今ここに語られた癒しのお言葉は、実は、対の一体のお言葉なのです。
イエス様のお言葉は、魂の罪からの解放(罪の赦し)と肉体の病いからの解放(病気の癒し)を一体としているのです。
即ち、イエス様には、①魂の解放(罪の赦し)
②身体の病の癒し
この双方の御力を秘めておられる完全な救いなのです。
私は、それ以来、良く病気のデパートと、言われるほど、70年に亘る病の連続の人生でした。
癒されてないではないか(はてな)とわ言われそうですが、やはり癒されています。それは病に掛からない‼️のではなく、病に支配されない‼️のです。
死に直面する、局面に遭遇する事は、幾度あったでしょう。自分でも、この度はここから立ち上げれない、最後の時だ‼️と自覚しながら、主に祈り、残される家族の事を密かに祈ることも何度もありました。
現実には癒されて今があるのですが、私が自認(自覚)している癒し・・とは、病に支配されない事、また、魂まで制約されない、制限されないことなのです。
サタンは面白くないでしょうね(*^。^*)
これが病から解放されたわたしなのです。
この時の周りのユダヤの民は、どんなに驚いたことでしょうね
今日のあなたにも、この“赦し”と“癒し”が与えられているのです‼️
 ハレルヤ❗
    アーメン‼️ 
 マルコ福音書 1章35節~45節

1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
1:36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
1:37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。
1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。
1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。
 2024年1月3日(水)リビングライフQT

イエス様と、サタンとの闘いの始まりですね。
サタンとの闘いの力の源は、“祈り‼️”です。マルコは、主イエス様の働きの始まりの、基礎の杭打ちのように、主の《祈りの姿》を、私達に見せてくれているのです‼️
これがマルコ福音書の、骨であり・力強い筋なのです。
多くの民衆が、主を追い求めていることを告げると・・・
主は、ご自身に与えらたれた使命とその働きを、始めようと、宣言されたのです。(38節)
私はこの箇所を黙想しながら、主が立ち上がられる時に語らされただろう、マルコの記述を読みながら、感動が沸き上がるのを感じました。
活字文章としては、淡々とした記述なのですが‼️
主が、この時『・・そのために、わたしは出て来たのだから。』(38節後半)
私のために、今朝・今日このラインメッセージを読まれる、あなたのために、主はこう語られたのですから‼️
39節・・こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって《全世界に向かって、そしてあなたの所へ》・・・のべ伝え、悪霊を追い出しておられた。
この働きは、今に、主の教会(クリスチャン)によって、続けられているのです‼️
*ここで“悪霊を追い出し・・・自己中心に生きて来た私達・そして、そこから救われ、愛と平安に生かされたいと願っていた、あなたの所へと、乗り出されたのです。
このように読むと、福音書の中に、わたしが飛び込むような思いを持って、これから学べる・・・と感じたのです。
早速、ツァラートと言う、当時には最も恐れられていた、感染症(当時はこの病に感染すると、徐々に体の機能が破壊され、皮膚・筋肉・骨・神経・・等に深刻な変形が進む病)の人を、瞬時に癒されたのです‼️
『わたしの心だ、きよくなれ‼️』
何と言うお言葉でしょう
正に、人類が、創造主なる神に背いて以来、穢れ(けがれ)の象徴的サタンの支配から、やっと解放して下さる方が、語られ、宣言された言葉です‼️
この様な、驚きの恵み(救い・祝福・解放・平安)を、頂いたこの男にとって、『誰にも話さないように・・・』と言う、イエス様のお言葉は、到底黙しておられるものではなかったのでしょう。
この箇所の矛盾をどう解釈するかは、又の機会にお話しを致しましょう。今日の益々の人々の乾きは、強く彼らを主に結びつけて行くのです。
皆さん‼️今の時代、人々は、本当の孤独、霊の欠乏、神の愛からの隔絶・・・に、心痛めているでしょうか(言ってる意味が分からない。)
わたしのあなたの輝く日々の存在が…
語らずにはおられない、命の恵みがあるれ出るところに、人々の乾きが引き出されて来るでしょう。
これが今日のリバイバルとなるのではないでしょうか。
   (は)(れ)(る)(や) 
 マルコ福音書 1章14節~34節

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
1:20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。
1:21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
1:23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
1:24 「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
1:26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。
1:29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
1:32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。
 2024年1月2日(火)リビングライフQT

マルコによる、その記録は単純明快な筆致(ひっち)で、出来事を次々と展開しています。
四人の漁師達が、イエス様のお声かけで、直ちに従った姿が淡々と記されています。
ガリラヤ湖畔の小さな漁師町(ガリラヤ湖の大きさは、阿蘇の外輪山に囲まれた、阿蘇平原の三倍ほどの広さで、単独の湖としては、世界で最も魚種の多い湖)
この豊かな湖に生活を支えられている町、カペナウムは、イエス様の伝道の舞台でした。湖から広がる海辺は、湖を背景にして、丘陵地帯の広がるなだらかな傾斜地は、格好の主の語られる伝道の場所となっていたのです。
そんな中で、この四人の弟子となった人たちは、しばしば主のお話を耳にしていたと思われます。
ある日突然、主のお声かけで、従ったのではないのです。
主にとって、毎日の野外でのメッセージは、多くの町の人々への福音の、知らせではありましたでしょう。しかし、この事は、やがて、世界を変える永遠の福音を命がけで語る主の弟子を、導くための、大切な日々だったのです。
私達は、イエス様だから、お声がけするその一言が、弟子たちの魂を射抜く、神の力の素晴らしさ‼️・・・と、考えたりします。しかし、そう考えるのも間違いではないのですが、神の子が人としてこの罪の世界に来られたのは、その様な力と、奇跡的状況をベースに活動されたのではないのです。
主の歩みは、どこまでも、私達と同じ人としての様々な制約や、自然界ならびに、歴史的不条理の中で、弱い私達の受ける様々な制約の中で、ご自身の働きを続けられたのです。
福音書を学ぶ時、この大前提を抜きにして、イエス様を理解しては❗福音の一部を欠くことになるのです。
イエス様は、人々に語りかけながらも、離れた所で朝の漁を終えて、網を整理しながら、聞き耳をたてて聞き入る、この漁師達の存在を、見落としてはいませんでした。
イエス様は、この時点から、彼らがやがて、ご自分に従ってきて、福音を委ねる使命を受けるべき人達だと、見通しておられたのです。
私達が、今こうして主の弟子として、御言葉の学びに導かれているのも、また、主なる神の恵みの導きによるのです。主はあなたを選んで御声を掛けてくださったのです。
貴方はどう主に応えますか‼️ 
 マルコ福音書 1章1節~13節

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。
 新しい年に祝福あれ‼️✨✨✨✨
神の言葉聖書を通して、更に豊かな御国の宝を、掘り出しましょう、今年も宜しく‼️

2024年1月1日(元旦)リビングライフQT

先ず、マルコ福音書を書いた、マルコとは、ぺテロの弟子で、ぺテロが語り、書き残した、イエス・キリスト、メシヤに関する、その方の言行録を、整理して、書いたものです。
この福音書が書かれた頃は、ローマのネロ皇帝の時代で、最もクリスチャンへの迫害が激しい中、クリスチャンを励まし、迫害のために脱落したり、道をそれたりすることのないように、力強い神のみ子イエス・キリストこそ、永遠の救いの命だと言うことを、示すために書かれた、非常に力強い、神の子の救いと癒しと勝利の記録なのです。

さて、今日のテキストは、イエス・キリストが、神から遣わされた、メシヤだと宣言しています。
*2節~「見よ。わたしは(父なる神)、わたしの使い(パプテスマのヨハネ)をあなた(イエス・キリスト)の前に遣わす。彼はあなたの道を備える。」
冒頭から、明確な形で、メシヤ(御子イエス・キリスト)の、顕れる経緯を宣言しているのです。
またヨハネは、人々の前面に立つのですが、
紹介する以上に、この御方が超絶された、神の、み子であることを、証ししています。
*9節~私はあなた方に、水のバプテスマを授けましたが、この方(神のみ子イエス・キリスト)は、聖霊によってパプテスマを授けられます。
“聖霊によって”これは人の力・業・導き・・・の領域を遥かに越えたお方からのみ授けられる神からの力なのです。
この様にして、マルコは、御子イエス・キリスト様を、大胆に紹介するのに、単刀直入に語りだすのです。
更に、ヨハネからパプテスマを受けられたことを通して、謙虚に、私達と、同じ立場に立たれて、手を差し伸べて下さるお方として、紹介されたのです。
この事は、当時の混乱し、頼る術の無い庶民(深い罪人)にとっては、実に力強い、助け人として映ったのです‼️
今の時代にある、クリスチャンとしての私達にとっても、
信じてきた御方(イエス・キリスト)がこんなにも力強い、救い主として、私に、あなたに、関わって下さっているのだと、改めて実感する福音ではないでしょうか‼️
   (は)(れ)(る)(や)‼️ 
2023年度(月) 
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力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
          (新改訳聖書2017)
    

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