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力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
          (新改訳聖書2017)
    

北九州シオン教会

  ルカ福音書 24:1~12

24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

   2024年3月31日(日)リビングライフQT 

5節~あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
この言葉は、今日の信仰者として歩む私達には、厳しい言葉ではないでしょうか。
女の弟子達は、イエス様の御体に、葬りのための、香油を塗るために墓に来たのです。
金曜日の、十字架から下ろされた時間は既に、安息日の始まる日没近かったから、出来なかったのです。
言い換えると、女の弟子達は、イエス様の死に、まだ繋ぎ止められたまま(“死”と言う、人生=人間最悪の敗北感)の中に釘付けになったままだったのです。正に、イエス様を愛し、お慕いする心は、称賛に値する美しいものと、人の世界では評価されるでしょう。
しかし、神の恵みと命の福音からするなら、これ程屈辱的行動は、悲しいばかりです。なぜなら、神の御子イエス様を、死の世界に葬るのですから。
しかし、こうは言っても、無理からぬ姿ですね。男の弟子達はどんな思いでヒソヒソ集まっていたのでしょうね
しかし、ここに一条の光がさしこんだのです。
8節~彼女達はイエスの言葉を思い出したのです。
主のお言葉《人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる‼️》
ここから新しい命の世界が開かれ始めたのです。
私達は、みことばを信じて、思い出すときは、信仰が動き始めるときなのです。
ですから、神の言葉をしっかりと、心の耳で聞き、魂で思い出しては、生きかえらせましょう‼️
主は、私達信じる者の初穂として、甦られたのです‼️
ですから、イエス様は私達の希望なのです。
     ハレルヤ‼️
  ローマ人への手紙 5章6節~11節

5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
   2024年3月30日(土)リビングライフQT 

神との和解‼️
《和解》と言う言葉は、私たちに何を思い起こさせますか?
不利益を被(コウム)った方へ、被害を与えた者が、謝罪したり、被害を弁済したり、精神的苦痛への、出来る限り様々な方法での回復の道を開く・・事で、両者が歩み寄って、関係の修復を行うことを《和解》と、言いますね。
必ず両方の歩みよりがなければ成立しません。
ところが、今日のテキストは、神と人との和解について記された、世界に類を見ない《和解》が記されているのです。
《人間=あなた・わたし》は、神の《いのち》を付与されて、《生きる者》とされたのです。動物も神に造られたものですが、彼らは(生き物=生物)です。
しかし、あなたは・わたしは、《神によって生きる者》なのです。
今朝のテキストの10・11節に3回《和解》と言う言葉が語られています。
それも《和解させていただいた‼️》と、記されています。
(和解した)とは書いてないのです。
言い換えると、神が私(私達)を、引寄せて・包み込んで、神のいのちに一つに繋いで(結んで)下さった‼️・・と言うメッセージです。
しかし、それは結論なのです。その結論への道は・・・
8節の『私たちがまだ罪人であったとき・・・』と、即ち、私達が神を神とも思わず、自分の思いのままに生きていた私たちに・・・『その道は滅びへの道ですよさあ、わたしの示す道にいらっしゃい・‼️』と、十字架の道へと、導いて下さったのです。そこで見る(た)のは、『父よ‼️彼らの罪を御許しください。』と、祈るイエス様(神の御子)のお姿なのです。
神の御子・イエス様が、私達をゴルゴタの十字架の下(元)にまで連れてきて下さり、私のあなたの罪を代わりに受けて(担って)、父なる神に執り成すお姿を、私達は見たのです。
それが、8節の御言葉なのです‼️
『私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた(私達の罪に対する永遠の滅び=刑罰)ことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられるのです。』アーメン‼️
こうして、神は、罪人(滅ぼされる他ない私達)を、永遠に和解させて下さったのです‼️

この故に、罪赦された私達から、あらゆる和解が、拡がるのです。
あなたの廻りにこの輪(和解)を、拡げて参りましょう。
周りの方々がイエス様の元に引かれて来るとき、神の愛とめぐみの光が、人の心の闇夜を照らし始めるのです。アーメン‼️
   ハレルヤ‼️
  ルカ福音書 23:44~56

23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。
23:49 しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。
23:50 さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。
23:51 ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。
23:52 この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。
23:53 彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。
23:54 この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。
23:55 イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。
23:56 それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。
   2024年3月29日(金)リビングライフQT 

神の創造の御業が為されてから、この時《日》は、最も悲しい・矛盾に満ちた・最悪の・・時間だと言えるでしょう。
先に創り成された、全ての自然界ですら、御子イエス様の、御苦しみの様子は、耐え難い悲しみだったのでしょう。
“光あれ‼️”と、創られた世界が、今暗黒となったのです。
正しい、愛に富んだお方が亡くなられた❗と、言うものではないのです。
創られた《人間》が、創った《お方=神》を
亡きものにしたのです(人として顕れた御方の姿を奪い去った)。
これが人(人間)の罪の現実なのです。
しかしこの時、神は何をされたのでしょう。
人が、途方もない罪にその存在を沈めた時、
神は、今まで、永遠の隔ての《幕》であった、聖所(罪人が神の前に、祈るために指定された聖なる場所)と、至聖所(全能にして聖なる創造主なる神の臨在される所)との隔て(幕)が裂けて落ちた・・・即ち、イエス様が、私たちの罪の身代わりとして、生け贄となられた(十字架の死)事で、この時を期して、赦しの道(神との交わりに入る道)が、開かれたのです。
最早永遠なる聖い神と、私たち赦されたと信じる主の僕の道が一本に繋がったのです。
その隔てがすぐにとれた証として‼️
①神のみ子の死刑執行人が、最初にイエスを神の子と告白しました。
②自分の信仰を隠し続けてきた、アリマタヤのヨセフが、大胆にも(立場や身の危険も捨て置いて)ユダヤ教徒たちが処刑した、イエスのご遺体を大切に、引き取った・・・
(考えられない行動)
また、ガリラヤから、ずっと従ってきた女の弟子達は、主を葬るための備えを捧げられた。
ほんの数時間前までは、反対するユダヤ人(ユダヤ教徒達)の、罵りの声でゴルゴダは、地獄絵の様な凄まじい、罪と暗黒の、さながら地獄絵の様な姿でした。
しかし、今静まり返ったゴルゴダは、血潮滴る荒れ地ながら、神の赦しと平安が満ちていたのです。
全てが、変わり始めたのです。
神の新しい御業が始まるのです。
新たに、主イエス様の祈り『父よ、わたしの霊を御手に委ねます』の、祈りから新しい世界が開かれたのです。
    アーメン‼️
  ルカ福音書 23章33節~43節

23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
23:35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
23:36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
   2024年3月28日(木)リビングライフQT 

十字架上のイエス様のお姿前半①

33節~主の十字架刑は、他の罪人の処刑と同じレベルで行われた。
何と言う屈辱
他の罪人と同じレベルにまでおとしめて、処刑にまで、最高の屈辱を与えて、歴史から抹殺しようとした、罪ある人間の所業が、こんなにも、顕著に暴発したのです。
確かに処刑の業務は、ローマの権限ではありました。しかし、イスラエルではなく、異国のローマがこれを執行した・・・と言うことで、
主イエス様が負われた罪は、ユダヤ人の、宗教的対立からの、歴史的理由に終わらず、異邦人、ひいては全ての民が、このお方への屈辱の泥を、投げたことになるのです。
十字架を取り巻く人々の口汚く叫ぶ罵りの言葉は、同じ様に張り付けになっている罪人の耳にも入り、その一人までも、更なる激しい罪の奈落に、引きずり込むのです。
この、十字架上の二人の罪人の苦しみの中からのやり取りは、二つの明暗に別れます。
自らの自暴自棄な心から、回りの人々のイエス様への罵りや、神の子と自称する・・・と罵られるイエス様に対して、どういう思いでしょう毒舌を持ってイエス様を罵り、更に、自分も我々も救ってみろ何と言う腐敗した人の醜い最後なのでしょう。
こんな毒舌を死に至る最後にまで口にする人の愚かさ
一方、同じ条件下(十字架刑)にも拘らず、その苦しい最後の息の中で、イエス様のお姿を観察しては、回りの民の罵りの言葉を耳にし、その中から、このお方を神のみ子・・‼️
と、信じ理解したのです。同じ状況(条件)下で、福音と救いには違いはありません。
主なる神・イエス様をじっと見つめるか、否かによって、“運命==救い”が変わるのです。
42節の『まことに、まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』
何と言う、祝福でしょう。何と言う完璧な救いでしょう。
ここに福音の“真髄”があるのです。
彼は主に何を求めましたか(はてな)
ただ《思い出してください》それだけです。
これが福音です‼️
     アーメン‼️
“救い”とは、主に覚えていただくことなのです‼️
  ルカ福音書23章13節~25節 

23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、
23:14 こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。
23:15 ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。
23:16 だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」
23:17 【本節欠如】
23:18 しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。
23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。
23:21 しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。
23:22 ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」
23:23 けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。
23:24 それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。
23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
   2024年3月27日(水)リビングライフQT 

救い主・神のみ子・メシヤの前に立つ、ローマの総督。
イスラエルの最高権威者です。
祭司長ですら、総督の前では、一介のユダヤ人なのです。
そのピラトが、繰り返し繰り返し、主への告発は、理由がないと、撥ね付けたのです。
ここに、二種類の罪が、明らかにされています。
①伝統と、自己義と、人の内なる宗教性・・・即ち、創造主なる神が『食べてはならない‼️』と、言明されたものを食べた、“あの木の実”
イスラエルにとっては、律法と、形式化した神殿礼拝でした。自分達の歴史と伝統で築き上げた信仰そのものが、神を否定する道へと、転げ落ちたのです。
②今一つは、正しいと分かっていながら、間違いが間違いと分かっていながら、正しい道を貫けない、弱さ
悲哀であり、同情したくなる道ですがそれもまた、滅びへの道(決断)だと、言うことです。
この何れにも、情状酌量の余地はないのです。
自分で自分を情状で、許容しても、神の光の前では、影が射すのです。その影とは、死の影=永遠の審判・・・なのです。
イエス様の前から逃げ去った、弟子達もまた然り。
実は、人として=人間として、誰一人、十字架への道を主と伴に歩める人はいないのです
少し踏み込んでしまいましたが・・・
ピラトを見てみましょう。彼は、度重ねてイエス様の、無罪を否定しながら、ユダヤの指導者の言葉の前に、心折れて、ユダヤの民と指導者に、引き渡し、成すがままにさせた
なんと言う歴史的罪・人が神を裁きの座につけたのです。それをそそのかしたユダヤの民・・・この中に、私の自己義が影を落としてはいなかったか
主よ今新たにひれ伏して、御前に赦しと回復を求めて、立ち上がって参ります、主よ‼️お導きください‼️
   アーメン‼️
  ルカ福音書22章39節~53節 

22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。
22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
22:43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕
22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」
22:47 イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。
22:48 しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」
22:49 イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
22:50 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。
22:51 するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。
22:52 それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。
22:53 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」
   2024年3月26日(火)リビングライフQT 

ルカはこの短い叙述のなかに、余りに沢山の出来事を、盛り込んでいるので、読んでいてつい読み流してしまいそうになりますが、ここは、場所・状況・主のお心・・・等を含みながら、じっくりと読まなければ、単なる説明文になってしまいますね。

これまで、主イエス様は、常に弟子達と行動を共にしておられました。ところが、いつもの祈りの場所・ゲッセマネの園(オリーブ山の麓)に来られると、主は、弟子達をそこに残して、彼らに祈るようにと言われて、更に奥に入られ一人になられて祈られたのです。有名なゲッセマネの、苦しみの祈りです‼️
父なる神が愛される、全ての人の滅びからの回復(罪からの救い)のための、贖いののための、“死”が間近に迫っている時なのです。
栄光の神であるお方が、人の姿を持って地に降られて、人として死の苦しみを受けるべく(私たちの罪の身代わりとして)、十字架の極刑に向かって歩もうとされているのです。主イエス様はそれを《私の杯》と、祈られているのです。読みながら“あぁ私の罪のために・・・”と、胸が痛みます。
それに比べ、弟子達は、主が帰ってみると、眠りこけていた。
主に、何かしら苦しみと、悲しみが迫っていることを感じながら、現実には、主が話された何度かの、御受難の話はまだ理解していなかったのです。ただ何かしら悲しみと苦しみが主の心に迫っていることは感じたことで、心配と不安と悲しみに包まれていたのです。同情から来る不安と悲しみ、あげくのはて寝入ってしまったのです。
裏返せば、イエス様の祈りがそれほど長いときの苦しみと悲しみに刻まれ去るようなときだったと言えますね
改めて、これを書きながら、胸のいたみを感じないではおられません
この悲しみから立ち上がられた主の前に、イスカリオテのユダが、まことしやかに、挨拶するように、現れたのです。
どんなに主のお心は痛まれたことでしょう
事態の緊迫性を感じたぺトロは、主をお守りしようと用意していた刀で、大祭司の僕に切りつけたのです。
しかし、主の実に静かな対応に、すでにイエス様の歩みは、確実に十字架への道を、確実に歩み始めておられた姿を見ます‼️
私の罪の赦し(帳消し)のために・・・
今日のテキストの、最後の主のお言葉は、
『・・・今はあなた方の時、暗やみの力です。』
この言葉の意味は…
今、あなたがたは、暗闇が勝利した“ついに神の永遠の計画を粉砕出来る‼️”と、誇っていますね。しかし、
今は暗やみの時“十字架の死と葬り”ですが…
この後の“空白”には、何が用意されているでしょう(はてな)
黙想してみましょう‼️


明日(27日)のテキスト

    ルカ福音書22篇1節~13節

22:1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。
22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。
22:3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。
22:4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。
22:5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。
22:6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。
22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
   2024年3月25日(月)リビングライフQT 

教会では、昨日からが、受難週として、イエス様が歩まれる、様々な出来事を通して、御受難への道筋の、深い悲しみと御苦悩を思いめぐらし、新たに、私たちのために、贖罪(罪の身代わり)の道を歩まれた、主の深い愛を思い、心に刻む一週間なのです。
そして福音書から、イエス様の御苦しみを黙想し、深い感謝と新たな信仰を育む時とするのです‼️

今日のテキストは、エルサレムの二階座敷が用意されている、過ぎ越しの食事の場所の用意が整えられる経緯が、記されています。
まるで、イエス様があらかじめ、用意するために手配されていた様に感じます。
水瓶を持った人が・・
これらの出来事は、不思議な神の摂理と言う理解で、とめておきましょう。
大切なことは‼️
①イスカリオテの、ユダに、“サタンが入った”という記述なのです。
サタンは、現実に生きた人の魂に直接働きかけるのです。
それは人の魂(心の深い所にある《霊》)に、神への愛と信頼への揺らぎ・不信・罪が介入すると、その隙間にサタンは、入り込んでくるのです。
その人は、最早内部でコントロールするサタンの影響下で、それが自分の意思として動き始め、計画性を持って、神の業に反する道へと、突き進むのです。
主イエス様は、その様な暗黒の手が拡がりつつある中で、淡々と道を進まれていたのです。
サタンにとって、神様がご計画される“愛”に富んだ道は、外部からの攻撃(策略)では、勝ち目はないので、内部からの攻略と腐敗による、破壊を、狙ったのです。
教会は・クリスチャンは、この事実を見落としてはなりません。
周りでサタンがどの様に巧妙に働こうと、神の道を妨げることは出来ません。
私が四国で開拓伝道中に、幾度かやくざや内部からの揺さぶり(福音の働きへの妨害)で、実際に心が潰される様な暴言や、刃物での脅しに揺さぶられました。経験の浅い、牧師家庭で、愛に包まれて育った私には、それはそれは、強烈なパンチでした。心臓が破れるのではないかと思うほど、動揺したのも事実です。
しかし、私は退きませんでした。殺されても良い❗この町から追放されても良い‼️
顔は青ざめ、心臓は音をたてるほど、高鳴っていましたが、彼らの脅しを拒絶しました。
今振り返っても、動悸が帰ってくるほど・・・
神様の業は少しも妨げられませんでした。
私はそれで強くされました。主が共にあられる‼️アーメン‼️
さて、弟子達は、淡々と何も知らずに、場所の準備をしたのです。それは、十字架への道筋を整えることになったのです❗

さぁ‼️恐れることなく、主の道を、確かな永遠への道を、今日も明日も、進み行きましょう
   詩篇61篇1節~8節

<61> 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデによる。

61:1 神よ私の叫びを聞き私の祈りに耳を傾けてください。
61:2 私の心が衰え果てるとき私は地の果てからあなたを呼び求めます。どうか及びがたいほど高い岩の上に私を導いてください。
61:3 あなたは私の避け所敵に対して強いやぐら。
61:4 私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。セラ
61:5 神よまことにあなたは私の誓いを聞き入れ御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。
61:6 どうか王のいのちを延ばしその齢を代々に至らせてください。
61:7 王が神の御前でいつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまことを与えて王をお守りください。
61:8 こうして私はあなたの御名をとこしえまでもほめ歌い日ごとに私の誓いを果たします。
   2024年3月24日(日)リビングライフQT 

ダビデらしい、
(捧げきった)ダビデだから・・・
1~2節の表現は、まさに、ダビデの、主なる神への信頼《信仰》の雄大さ(自分の限界の中での信仰ではなく、殻を破った悠久の信頼)ですね。
言葉は、その人の魂までも、解放します。
反対に、言葉で、どれ程、私たちは信仰と信頼を狭めてしまってきたことでしょう
ダビデの祈りと信仰は、(俗に言う溜飲が下がる)といった思いがします。
《どうか、及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください‼️》
  かと思うと、
《あなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の影に身を避けます‼️》

6節~8節までは、王に対する、祝福と安全・安定への祈りです。
これは、確かに“ダビデ自身に関することも含めてはいますが、
むしろ、国家として、神が建てられた国《神の御支配になる神の国=イスラエル王国~更に、やがて建て挙げられる、キリストに贖われる神の国=《教会》”を、顕しているのでしょうか・・・・ダビデに始まる新しい神の国の、開かれていく、永遠の道を思い描くのです‼️
主よこの祈りを教会を通して、“主の日”に至るまで、引き継がせてください‼️アーメン
こうして、私はあなたの御名をとこしえまでもほめ歌い、日ごとに私の誓いを果たします‼️ アーメン‼️
今、私達は、このダビデの祈りを、受け継いで、神の国が永遠に守られることを、祈り継ぎましょう
   詩篇60篇1節~12節 

<60> 指揮者のために。弦楽器に合わせて。第八の調べにのせて。ダビデの賛歌。

60:1 神よあなたは私たちを拒み私たちを破られました。あなたは怒られました。どうか私たちを回復させてください。
60:2 あなたは地を揺るがし引き裂かれました。その裂け目を癒やしてください。地が揺れ動いているからです。
60:3 あなたは御民を苦しい目にあわせよろめかす酒を私たちに飲ませられました。
60:4 あなたはあなたを恐れる者に旗を授けられました。弓から逃れた者をそこに集めるために。セラ
60:5 あなたの愛する者たちが助け出されるようあなたの右の手で救い私に答えてください。
60:6 神は聖所から告げられました。「わたしは喜んでシェケムを分けスコテの平原を測ろう。
60:7 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムはわたしの頭のかぶと。ユダはわたしの王笏。
60:8 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上にわたしの履き物を投げつけよう。ペリシテよわたしのゆえに大声で叫べ。」
60:9 だれが私を防備の町に連れて行くのでしょうか。だれが私をエドムまで導くのでしょうか。
60:10 神よあなたご自身が私たちを拒まれるのですか。神よあなたはもはや私たちとともに出陣なさらないのですか。
60:11 どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいからです。
60:12 神にあって私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけてくださいます。
   2024年3月23日(土)リビングライフQT 

当時の王は、国民も軍事も全て一身に担う存在でした。
神への礼拝の儀式(燔祭)等は祭司の勤めでしたが、同時に、祭司は王の相談役でもありました。また神からの導きが祭司を通して、王に伝えられもしました。
ある意味では、祭司は王のバックにあって王(国)を、支える立場でもありました。
しかし、ダビデはイスラエル最初の王であったこともあり、イスラエルの信仰の象徴的存在でもありました。
今日の祈りを見ても、その事が良く表れていますね。
今朝のダビデの祈りは、まるで祭司の祈りのような、神と民との間に立った、祭司的・仲保者的祈りです。
ダビデの治世は、まだまだ、神から排除されたサウルの影響や、更にダビデの王子、アブシャロムの反乱(クーデター)その後も続いた、部下の反逆など、様々な戦いがあったため、近隣の部族や国々からの闘いに、敗北を味わったのです。
その様な中から、神に祈りを捧げた詩なのです‼️
1節~4節までは、苦い敗北の日々を回想し、その中に国の背き、それによる敗北の苦い日々を、告白しています。
ダビデの苦難の中での祈りは、何時も、悔い改めから始まっています。
祈りはつい、願いが先行したり、つぶやきや、疑問が先に出て、どこか自分を正当化する(神様への不満を漏らす)傾向に走りがちです。
創造者なる神の前に、私達はどのようにして、出たら良いのでしょう❓
私達に、正しさがあるのでしょうか。主なる神に主張したり、訴えたりする・・・何か私達にあるのでしょうか。
ただあるのは、主に悔い改めと、赦しと慈しみを求める、砕かれた心だけを、主は求められるのでしょう。
それ故に、主なる神の栄光の証のために、勝利を求めるのです‼️
11節~12節・・・こうして新たに、神の御手に握られて、世に証人とされるのです。
11節~どうか敵から私たちを助けてください。
人による助けはむなしいからです。
    アーメン‼️
うめきと、悲しみと、
悔い改めの祈りが、ついに神への、信頼と勝利の叫びとなって締め括られるのです‼️
ダビデの祈りと賛美は、まだまだ続きますが、実に多くの学びを与えられますね

  詩篇  59篇1節~節

59:1 私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。
59:2 不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください。
59:3 今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。【主】よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。
59:4 私には咎がないのに彼らは走り身構えています。どうか目を覚ましここに来て見てください。
59:5 あなたは万軍の神【主】イスラエルの神。どうか目を覚ましすべての国を罰してください。邪悪な裏切り者をだれもあわれまないでください。セラ
59:6 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。
59:7 ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです。「だれが聞くものか」と。
59:8 しかし【主】よあなたは彼らを笑いすべての国々を嘲られます。
59:9 私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。
59:10 私の恵みの神は私を迎えに来てくださる。神は私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。
59:11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって彼らをさまよわせてください。彼らを打ち倒してください。主よ私たちの盾よ。
59:12 彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに。
59:13 憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください。彼らがいなくなるまで。神が地の果てまでもヤコブを治められることを彼らが知るようにしてください。セラ
59:14 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。
59:15 食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明かします。
59:16 しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。
59:17 私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。
  2024年3月22日(金)リビングライフQT 

ダビデが信じ信頼するお方《神》を何故こんなにまで、ダビデは信じ抜くことができたのでしょう。
ダビデの、神への祈りは、まるで、側に居られるお方に、直接訴えるように、切実に、具体的に祈っているのです✨《神の御加護を‼️》と、言うような御祈祷の類いではないのです。
どんな宗教界の中にも見ることのない、全く独自の祈りの境地です。
実に、ダビデと主なる神との間には、どの様な関係があるのでしょう。これこそが、ダビデの祈りが、異彩を放つ理由なのです。
即ち、ダビデの信仰は・・・、自分の存在は、神の御手によって、創りなされ、日々御創りになられた目的に叶って(添って)、更に完成へと、創り成されるお方として、信じ仰いでいるので、ここまで、斬り込んだ思いを投げるように、祈られるのではないでしょうか。
ダビデにとって、自分は神の中に《在る》という信仰と確信に生きていたのです。
実は、この信仰こそ、主イエス様に贖い(あがない)取られた、私たちの信仰でなければならないのです。
この様なダビデの信仰の心を見つめながら、
次の節を読み直してみましょう‼️
☆9節~私の力よ 私はあなたを見続けます。
神が私の砦だからです。
☆10節~わたしの恵みの神は 私を迎えに来てくださる
神は、私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。
☆16節~しかし、この私はあなたの力を歌います。
朝明けには あなたの恵みを喜び歌います。
☆17節~私の力よ 私はあなたにほめ歌を歌います。
神は私の砦 わたしの恵みの神であるからです。
もはや、この詩は、呻きや、呟きに流れる祈りではなく、光と解放を待ち望んでいる、輝きの賛美となっています。
私たちの(あなたの)祈りの素晴らしい、お手本ですね

主なる神への信仰と、祈りの時の神へのイメージを、新しく整えましょう。
 詩篇  58篇1節~11節

<58> 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。

58:1 力ある者たちよおまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。
58:2 実におまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。
58:3 悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。
58:4 彼らには蛇の毒のような毒がある。耳の聞こえないコブラのように耳を閉ざし
58:5 蛇使いの声も聞こうとしない。巧みに呪文を唱える者の声も。
58:6 神よ彼らの歯をその口の中で折ってください。【主】よ若獅子たちの牙を打ち砕いてください。
58:7 彼らが流れ行く水のように消え去り神が矢を放たれるとき干上がりますように。
58:8 彼らが溶けて消え行くなめくじのように日の目を見ない死産の子のようになりますように。
58:9 おまえたちの釜が茨の火を感じる前に神はそれが緑のままでも燃えていても等しく吹き払われる。
58:10 正しい人は復讐を見て喜びその足を悪しき者の血で洗う。
58:11 こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」
  2024年3月21日(木)リビングライフQT

  詩篇  57篇1節~11節

<57> 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。
57:2 私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。
57:3 神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ神は恵みとまことを送ってくださいます。
57:4 私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。
57:5 神よあなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。
57:6 彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ
57:7 神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。
57:8 私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。
57:9 主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。
57:10 あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。
57:11 神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。
 2024年3月20日(水)リビングライフQT

リビングライフ序文説明に記されている、旧約聖書第一サムエル書24章1節22節・(ダビデがサウルから逃れて洞窟にいた時)を、読んでみてください。そうすればこの詩篇が、もっと迫ってくるでしょう✨

私は以前、苦しみの時に、この詩篇を声を出して会堂で読んだことを思い出しました。それは教科書を読むようではなく、ダビデのこの詩を、私の祈りの叫びとして、声を出して祈った(詠った)のです。その時の感触を思い出します。柔かな温かな・・・言葉にはできないものが私を包み、私の傷んだ魂がジュワーっと、包み込まれて癒されていくのを、感じたのです。
長い祈りから立ち上がったときは、魂も心も体も軽くなっていました。
今朝のダビデの詩の中から(全部がそうなんですが)幾つかの光る言葉を引き出して見ましょう‼️
☆1節~私のたましいは あなたに身を避けていますから。
☆3節~神は、恵みとまことを送ってくださいます。
☆7節~神よ 私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。
私は歌い ほめ歌います。
さらに8節以下11節まで・・・・
私の魂よ目を覚ませ・・
何と力強い一言一言でしょう。(割愛しますが、聖書本文でお読みください‼️)
  詩篇  56篇1節~13節

<56> 指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べにのせて。ダビデによる。ミクタム。ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに。

56:1 神よ私をあわれんでください。人が私を踏みつけ一日中戦って私を虐げているからです。
56:2 私の敵は一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです。
56:3 心に恐れを覚える日私はあなたに信頼します。
56:4 神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。
56:5 一日中彼らは私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな私に対する悪です。
56:6 彼らは襲おうとして待ち伏せし私の跡をつけています。私のいのちを狙って。
56:7 不法があるのに彼らを見逃されるのですか。神よ御怒りで国々の民を打ち倒してください。
56:8 あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。
56:9 そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを。
56:10 神にあって私はみことばをほめたたえます。【主】にあって私はみことばをほめたたえます。
56:11 神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。
56:12 神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。
56:13 まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。
 2024年3月19日(火)リビングライフQT

こうして、ダビデの詩を読むと、勇気や希望が湧いてきます‼️
この様に力強く歌い上げながら、悪しき者の手がなくなるわけではないのです。
一日中攻められ、罵られ、闘いを挑まれているのです。
その現実は変わらない中から、ダビデのうた(詩)は何と力強いのでしょう‼️
私は、思いました❗
その力強さは、ダビデの内にある強さではなく、ダビデが連戦・連勝の、勇者の風格から出る強さや、粘りなのでもなく、
ただ、ただ、全能の神の影に覆われて、護られている強さだと。即ち、神にあって強いダビデなのです‼️
実はクリスチャンも、神に信頼し尽くしていると、ダビデのように強くあることができるのです。
たとえ、四面楚歌(廻り全てがあなたを攻め・いじめ・無視し・虐げられる)の状況の中であっても、神に信頼するものは、強いのです。弱者ではないのです。
アーメン‼️
この苦悩に充ちた詩でありながら、魂を揺さぶられる、激しくも、勝利の雄叫びにさえ、聞こえてくるのです。
信頼する・・と言うことは、全く相手に 全てを委ねて、全身全霊を投げ出していることを意味します。
実は、ダビデの場合、彼の全生涯が、いかに評価されたとしても、詩篇51篇で吟われた悔い改めの祈りの原因となった、あの罪は、人社会の中では、評価を低くし、信頼関係が低くなるのが常です。しかし、そのダビデが、なぜ、イエス・キリストの世に顕れる系図の起点となったのでしょう。・・・・
それほどダビデの神への信仰と信頼は、完璧な100%の信頼で解け合っていたのです。
彼の祈りは、自分は神の御手の中にあることに、信頼しきっているのです‼️
これが彼の神との関係だったのです。
主なる神はあなたをも、ダビデと同じように100%覚えていてくださるのです。
もし、あなたがダビデのように、主なる神との距離が近く感じないとしたら、それは、神様のあなたへの評価が低いからではなく、あなたの神様への信頼度の低さが、主なる神との距離が、遠く感じる理由です。主はあなたとの間に、何一つ妨げになるものはないのです。ただあるのは、すべてを帳消しにする
《十字架》があるのみです。
   ハレルヤ‼️
 詩篇  55篇16節~23節

55:16 私が神を呼ぶと【主】は私を救ってくださる。
55:17 夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。
55:18 主は私のたましいを敵の挑戦から平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。
55:19 神は聞き彼らを苦しめられる。昔から御座に着いておられる方は。セラ彼らは改めず神を恐れない。
55:20 彼は親しい者にまで手を伸ばし自分の誓約を犯している。
55:21 その口はよどみなく語るが心には戦いがある。そのことばは油よりも滑らかだがそれは抜き身の剣である。
55:22 あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
55:23 しかし神よあなたは彼らを滅びの穴に落とされます。人の血を流す者どもと欺く者どもは日数の半ばも生きられないでしょう。しかし私はあなたに拠り頼みます。
 2024年3月18日(月)リビングライフQT

私は、このダビデの詩を読みながら、正に私の回りにも、様々な私を脅す言葉や、中傷する言葉・悪し様に非難する声・無視する眼差しや態度・・・陰で密かに語られる非難の言葉・・・人間って、その様な声や、態度や、姿がよく見えるものですね誠に愚かなことです。私は何を見ているのだろう(何)私は何を気にしているのだろう(はてな)
その様な気配り(気の回しよう・その様なことに過敏な自分)が、どれ程、自分の人生に役立つのでしょう。
このような愚かなことに心を向けていることは、人生の敗北を待つのみです。
ダビデの詩で吟われている内容の多くが、自分を陥れる言葉と態度ばかりです。
しかし、その中に彼ダビデの信仰の息吹が、にじみ出し、吹き出している箇所を拾ってみましょう。

16節~私が神を呼ぶと、主は私を救ってくださる。
17節~・・・主は私の声を聞いてくださる。
18節~主は、私の魂を平和のうちに贖い出してくださる。・・・
22節~あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない
23節~・・・・
しかし、私はあなたに拠り頼みます‼️‼️‼️

何と明快でしょう
この、同じ詩を反対するものの仕業や言葉や挑戦の姿の内容に心向けながら読むと、何と重い詩(うた)となるでしょう。
あなたの重荷を主に委ねよ‼️アーメン
 詩篇  55篇1節~15節 

<55> 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。

55:1 神よ私の祈りを耳に入れ私の切なる願いに耳を閉ざさないでください。
55:2 私をみこころに留め私に答えてください。私は悲嘆に暮れ泣き叫んでいます。
55:3 それは敵の叫びと悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを降りかからせ怒って私を攻めたてています。
55:4 私の心は内にもだえ死の恐怖が私を襲っています。
55:5 恐れと震えが私に起こり戦慄が私を包みました。
55:6 私は言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。
55:7 ああどこか遠くへ逃れ去り荒野の中に宿りたい。セラ
55:8 嵐と疾風を避けて私の逃れ場に急ぎたい。」
55:9 主よ彼らの舌を混乱させ分裂させてください。私はこの都の中に暴虐と争いを見ています。
55:10 昼も夜も彼らは城壁の上を歩き回り不法と害悪が都のただ中にあります。
55:11 破滅が都のただ中にあり虐待と詐欺はその広場を離れません。
55:12 まことに私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。
55:13 それはおまえ。私の同輩私の友私の親友のおまえなのだ。
55:14 私たちはともに親しく交わりにぎわいの中神の家に一緒に歩いて行ったのに。
55:15 死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたままよみに下るがよい。悪が彼らの住まいに彼らのただ中にあるからだ。
 2024年3月17日(日)リビングライフQT

この詩を読みなから、様々な状況を想像しました。彼を攻めているのは、敵ではないのです。
不法と害悪が都のただ中に・・虐待と詐欺がその広場を離れません。
ふと、息子(王子)アブサロムの反逆ではないか(言ってる意味が分からない。)と、思いました。その時、ダビデは泣きながら僅かな手勢を連れて、都落ちするのです。他にもその時の詩が出てきますが、
何と不運な、王でしょう。
彼は争わずに、神の義と導きを信じて、神に訴え、呻くように叫びの祈りをしています。
また、15節には、『死が彼らをつかめばよい。彼らは生きたまま、よみに下るがよい。悪が彼らの住まいに、彼らのただ中にあるからだ。』
と、審判者のように歌い上げています。
人が、この様に怒りの祈りが出来るのでしょうか❓
旧約聖書には、しばしばこのような、裁きに近い祈りや宣言が語られる行(くだり)があります。新訳の私達には、思わず、人が神に代わって、裁く権限が与えられるのだろうか❓と、思いますが…
もちろん「ノー」です。
贖い主が来られる前の、旧約時代には、預言者、祭司、祭司長が、直接神に代わって、裁きの権限を与えられていたのです。また、今学んでいるダビデはその気高さ、信仰、先に学んだ、あの忌まわしい出来事以外は、自他ともに、祭司たちさえも導く、神の僕でした。ですから、彼はこの様に神のみ心と自らの思いとを、ひとつに重ねて、宣言し、祈り、訴える事が出来たのです。
私達も、このような観点から、もっと大胆に訴え、宣言し、誓うほどの、勢いと力に立った祈りと賛美を、主に捧げるクリスチャン、主の僕として、主に仕えたいですね‼️
 詩篇  54篇1節~7節 

<54> 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに。

54:1 神よあなたの御名によって私をお救いください。あなたの力強いみわざによって私を弁護してください。
54:2 神よ私の祈りを聞いてください。私の口のことばに耳を傾けてください。
54:3 見知らぬ者たちが私に立ち向かい横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ
54:4 見よ神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。
54:5 神は私を待ち伏せる者たちにわざわいをもって報いられます。あなたの真実によって彼らを滅ぼしてください。
54:6 私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。【主】よあなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。
54:7 神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。
  2024年3月16日(土)リビングライフQT

ダビデの生涯を見ると、若いときから、イスラエルの王として、
イスラエルの12部族を統一してからも、近隣の諸国からの略奪・侵略等の諸問題に直面し、心休まることがなかった。そのような中で、ダビデは一貫して、創造主なる唯一真の神《ヤハウェ》に寄り頼み、心動くことなく、妥協せずに、神の国として、独立を守り、近隣諸国に、真の《唯一なる神》を、証し続けたのです‼️
これがダビデの最大の歴史的功績ではないでしょうか。
正にこの賛美の詩(うた)は、その事を最も如実に証ししています‼️
イスラエルは、決して強い軍事国家ではなかったのです。ただ神に寄り頼む、信仰の民だったのです。
こうして、イスラエルには、神の居ますこと・神に寄り頼むものの強さ、栄光・永遠性を証ししたのです。
此の姿は、私達、異教の島国に生きる(日々生活する)神の民《クリスチャン=主の弟子》としての証しの日々に通じるものではないでしょうか。そんなことを、この祈りの詩の中に、感じさせられました。アーメン

明日(17日のテキスト)
詩篇 55篇1節~15節 
 詩篇  53篇1節~6節

<53> 指揮者のために。「マハラテ」の調べにのせて。ダビデのマスキール。

53:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。
53:2 神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。
53:3 彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。
53:4 不法を行う者たちは知らないのか。彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ神を呼ばない。
53:5 見よ彼らは恐れのないところで大いに恐れた。神があなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。
53:6 ああイスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
  2024年3月15日(金)リビングライフQT 

  詩篇  52篇1節~9節

<52> 指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときに。

52:1 勇士よなぜおまえは悪を誇りとするのか。神の恵みはいつもある。
52:2 欺く者よおまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。
52:3 おまえは善よりも悪を義を語るよりも偽りを愛している。セラ
52:4 欺きの舌よおまえはあらゆる滅びのことばを愛している。
52:5 だが神はおまえを打ち砕いて倒し幕屋からおまえを引き抜かれる。生ける者の地からおまえは根絶やしにされる。セラ
52:6 正しい人たちは見て恐れ彼に向かって笑う。
52:7 「見よ彼こそは神を力とせず自分の大きな富に頼り破滅のわざを勝ち誇る者。」
52:8 しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。
52:9 私はとこしえに感謝します。あなたのみわざのゆえに。私はあなたにある敬虔な人たちの前ですばらしいあなたの御名を待ち望みます。
  2024年3月14日(木)リビングライフQT 

この詩の基になった、物語(ダビデが直面した事情)について少し説明しましょう。
ダビデがまだ王になる前、サウル王の元で、全軍を指揮する隊長でした。しかし、連戦連勝で、名声が上がり、『サウルは千を打ち、ダビデは、万を打つ』とうたわれるようになり、サウルの怒りに触れ、サウルから命を狙われるようになった。そんな時、ダビデの側近の“ドエグ”が、サウルが遣わす、ダビデの探索隊に、祭司アビメレクに、匿(かこ)われている・・と、密告したのです(ドエグは、自分の地位を挙げるためでした)
そのため、ダビデは危険を察知して、密かに、逃れたのですが、ダビデをかこった為に、サウルの怒りに触れ、祭司85人が虐殺された
この知らせを受けたダビデは、と悲しみの中からうたったものです。
ダビデの怒りと悲しみはいかばかりだったでしょう
神に仕え、それ故に、自分をかくまった聖所に仕える人々が、一網打尽に殺され、神の聖所さえ、悪の住みかとしたこの矛盾の最中にあって、ダビデにとっては、自らが傷つき、殺される以上の悲しみと屈辱を味わい、神の栄光が踏みにじられたにも関わらず、その中から、ドエグとその一味への神の裁きの警告と、審判を宣告するのです。神に敵対する悪に対しての、厳しい裁きを歌い上げ、容赦ない神の審判を、宣言しています。
私達主に仕える者として、このダビデの詩は、あることを教えられます。
ダビデは、この詩の中で、彼らを直接さばいてはいません。彼らに神による審判を警告し、むしろ、義の道に歩む者が、挫けることなく、神の正しさを信じて、神の恵みと栄光を待ち望むように‼️と、励ましているのです。
主の僕は挫折しない。見える所で挫かれる様でも、神の御名は汚されず、神の清さは最後の勝利となって、待ち望む者を覆うのです。
8節~しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。
私は世々限りなく、神の恵みに寄り頼む。
9節~私は、とこしえに感謝します。
あなたのみわざのゆえに、

私はあなたにある敬虔な人達の前で
すばらしあなたの御名を待ち望みます。               
 ハレルヤ‼️
 
 詩篇  51篇1節~19節

<51> 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。

51:1 神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
51:3 まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しくさばくときあなたは清くあられます。
51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。
51:6 確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
51:8 楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
51:9 御顔を私の罪から隠し私の咎をすべてぬぐい去ってください。
51:10 神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
51:13 私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。
51:14 神よ私の救いの神よ血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。
51:15 主よ私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
51:16 まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。
51:17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。
51:18 どうかご恩寵によりシオンにいつくしみを施しエルサレムの城壁を築き直してください。
51:19 そのときあなたは義のいけにえを焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき雄牛があなたの祭壇に献げられます。
  2024年3月13日(水)リビングライフQT

51篇の本文が始まる前の、序文について、この経緯を記録した箇所は、旧約聖書第二サムエル記11章→12章に記録されている。
ダビデの生涯最大の罪の記録です。
    (参考まで)

この(詩篇51篇)、ダビデの祈りは、砕かれた神の僕“ダビデ”の深い深い懺悔の詩だ‼️と、感動させるものではないのです。
ダビデの全生涯が、非の打ち所のない、立派な業績を積み重ねたものであっても、実は、ここで悔い改めている、彼の犯した罪が、その全生涯を覆し、彼が生き続けることさえ、苦しくなる、汚れとなって、彼の魂と全存在を、包んでいたのです。
古代の歴史の諸王は、その大権を持って、押し通しては、後ぬぐいをしては、権力を更に増大しながら、世に巾を効かせたのです。
しかし、ダビデは、神の人預言者ナタンによる、ダビデへの直言に、王座から転げるように降り、王冠を投げ出し、王衣を引き裂いて、神の前にひれ伏して泣いて、呻く様に悔い改めたのです。預言者の前に幼子のように泣いて悔い改めるダビデを想像してみてください。
罪に大小はありません。『罪の支払う報酬は“死”です』
いまや、ダビデは、神の審判(さばき)の前に、恐れおののいて、ひれ伏したのです。
その様をうたった詩なのです。
悔い改めた時を遥かに経過した、時にさえ、
此のような魂を揺さぶるような祈りをするダビデの、神の前に変わることのない姿に、圧倒されます。
悪いことをしました。ご免なさい。お許しください・・・と言ったお詫びの祈りではないのです。
ダビデの全存在を投げ出した、悔い改めと、それに対する全能の審判者なる神の、愛と赦しと回復を、ひたすら信じて、待ち望む、罪人“ダビデ”がそこにあるのです。
①先ずダビデは、自らの罪を隠さず、弁明せず、犯した自らの罪を忌み嫌い、さらけ出しています。
②次に、神の赦しを求め、洗い清め(ヒソプで罪を除いて)、主なる神との交わりを回復してください。と、願うのです。
③私にきよい心を造り、救いの喜びを私に戻してください。
④背く者たちに、あなたの道を教えます。
⑤私の、血の罪からわたしを救いだしてください。
⑥神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた心、あなたはそれを蔑(さげす)まれません。
この時でもなお、神への信頼と慕う思いと、懇願が生き生きとうたわれるのです。

この祈りと悔い改めの結果は・・・イエス・キリスト、救い主の御降誕へのベースとなったのです。
改めて、あの十字架の贖い(贖罪)の意味をここに観るのです。
 詩篇  50篇16節~23節 

50:16 しかし悪しき者に対して神は仰せられる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語りわたしの契約を口にするとは。
50:17 おまえは戒めを憎みわたしのことばをうしろに投げ捨てた。
50:18 おまえは盗人に会うとこれと組んで姦通する者と親しくする。
50:19 おまえの口は悪を放ち舌は欺きを仕組む。
50:20 おまえは座して兄弟の悪口を言い自分の母の子をそしる。
50:21 こういうことをおまえはしてきたがわたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。
50:22 神を忘れる者どもよさあこのことをよくわきまえよ。そうでないとわたしはおまえたちを引き裂き救い出す者もいなくなる。
50:23 感謝のいけにえを献げる者はわたしをあがめる。自分の道を正しくする人にわたしは神の救いを見せる。」
  2024年3月12日(火)リビングライフQT

何とも悲しい主なる神の嘆きの詩なのでしょう。
これは、神が選ばれた神の民(イスラエル)に対する、深い悲しみの言葉です。
16節の『悪しき者』とは、神の選びと、祝福に与り(出エジプト・イスラエル建国・代々の王による国の安泰)、主なる神の恩恵に与りながら、その御恩を忘れ、自分の求める道を独自に選びとり、その道を悪い者(神に従わない者)と、手を組んで、神の御警告も、神の嘆きさえも意に介せずに、自分の由とする歪んだ道に・・
主なる神が、真に求める事(神の創造の本来の目的)は創造された“人類”が、創造者と交わりを持ち、更に祝福された命と恵みの数々の喜びを賜り、人が、創られたお方に感謝と喜びを捧げて、深い交わりの中に、歩むことだったのです。
それは、生まれた子供に全ての愛を注ぎだして、ある時には大きな犠牲を払って、これを助け、支え、与え尽くして、その子の喜びを共に喜ぶ親‼️
正に主なる神の喜びは、子であるあなたが、主に感謝して、主なる神に近づき、賛美を捧げ、主なる神を呼び求めることなのです。
23節を、今一度じっくり味わってみましょう。
『感謝のいけにえを献げる者は
わたしをあがめる
自分の道を正しくする人に
わたしは神の救いを見せる。』
☆リビングライフ
73ページ《一節の黙想》から抜粋
・・・信仰生活の目的が《神であるか》《自分の利益であるか》を確認する方法は、『感謝の告白』です神の言葉に信頼し、神の恵みから離れない人は、日常が感謝で溢れています‼️
    (あ)(ー)(め)(ん)


 詩篇   50篇1節~15節

<50> 指揮者のために。フルートに合わせて。ダビデの賛歌。

50:1 神の神【主】は語り地を呼び集められる。日の昇るところから沈むところまで。
50:2 麗しさの極みシオンから神は光を放たれる。
50:3 私たちの神は来られる。黙ってはおられない。御前には食い尽くす火がありその周りには激しい嵐がある。
50:4 神は上なる天をまた地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。
50:5 「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ。いけにえによってわたしと契約を結んだ者たちを。」
50:6 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。セラ
50:7 「聞けわが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよわたしはあなたを戒めよう。わたしは神あなたの神である。
50:8 あなたのいけにえのことであなたを責めるのではない。あなたの全焼のささげ物はいつもわたしの前にある。
50:9 わたしはあなたの家から雄牛を囲いから雄やぎを取ろうとしているのではない。
50:10 森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも。
50:11 わたしは山の鳥も残らず知っている。野に群がるものたちもわたしのもとにいる。
50:12 たとえ飢えてもわたしはあなたに言わない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。
50:13 わたしが雄牛の肉を食べ雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14 感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。
50:15 苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」

 2024年3月11日(月)リビングライフQT

何と慰めに満ちた、神のお言葉でしょう。
イスラエルの民が、律法によって神を礼拝するとき、捧げるための燔祭の動物と、その捧げる方法(手順)は、それはそれは厳しいしきたりがありました‼️
イスラエルの民は、その儀式の手順が、細かく、複雑であればあるほど、その政(まつりごと)の重みがましてありがたみが深まっていく・・・そんな儀式へと進化していっていたのです。
ところが、この詩篇の言葉を読む(聴く)と、何と温かく、主なる神が降りてきてくださるような、優しさや、愛に富んだお言葉が溢れ流れ出てくるような感じがするのでしょう。
1節~6節は、厳格で、私たちが考え、想像するより遥かに、厳しく、隠れることの出来ない、審判の眼を向けておられるお方、そのお方の前に、私たちを集められる‼️
ところが、7節以降に進むと、一転して、
8節~あなたをいけにえのことで責めるのではない・・
9節~13節・・には、燔祭や犠牲を求めているのではない。‼️
☆感謝のいけにえを神に捧げよ・・❗
☆誓いを神に果たせ❗
☆(苦難の日に)わたしを呼び求めよ❗
《そうすれば》
*わたしはあなたを助けだし
*あなたはわたしをあがめる‼️
主なる神が求めておられるのは、
犠牲や燔祭や捧げ物ではないのです‼️
主が求めておられるのは、主を、頼りにして、交わりを深め、助けを求めることなのです‼️
何と優しいお方なのでしょう。
これが私達の信仰の源流なのです。
    ハレルヤ‼️
主の前に深く心開きましょう。
素晴らしい主からの呼びかけに‼️
   アーメン❗
 詩篇  49篇13節~20節

49:13 これが愚か者の道。彼らに従う者もその口のことばを喜ぶ。セラ
49:14 彼らは羊のようによみに定められ死が彼らの羊飼いとなる。朝には直ぐな者たちが彼らを支配する。彼らの形はなくなりよみがその住む所となる。
49:15 しかし神は私のたましいを贖い出しよみの手から私を奪い返してくださる。セラ
49:16 恐れるな。人が富を得てもその人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は死ぬとき何一つ持って行くことはできずその栄誉もその人を追って下ることはない。
49:18 たとえ人が自分自身を生きている間に祝福できてもあなたには物事がうまく行っていると人々があなたをほめたたえても。
49:19 そのたましいは代々の先祖のところに行く。そこでは永久に光を見ることはない。
49:20 人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。
 2024年3月10日(日曜)リビングライフQT

今日の詩篇は、引き続きこの世が評価する称賛・富・栄誉・・・が、如何に儚(ハカナ)いかを歌い綴(ツヅ)っていますね。
しかし、今日の詩の中に、注目すべき箇所がチラッと、光を放っています‼️
それは・・・
①14節ー15節・・・
少し理解に困難な部分もありますが・・・
愚か者の道
《朝には、直ぐな者ー正しい者ーたちが支配する。 彼らの形はなくなり よみがその住む所となる。》
この箇所の意味は、
《朝には》とは⇒朝日の如く、正しい人の歩みが明らかになることを詠っているのでは⁉️
しかし、それでも”死”が全てを覆ってしまう。
ところが詩篇の作者は《しかし》と、続いて光の福音を輝やかしています。
神は私のたましいを贖い出し、よみの手から 私を奪い返してくださる‼️ハレルヤ
更に、16節『恐れるな・・・』と、
どの様に驕(オゴ)り高ぶっても・・・
20節~悟る(神の正しさは私達の救い)ことがなければ滅び失せる獣に等しい。
これ等は、神の不義への裁きの、確実な実現の陰に、如何に神に依り頼み、正しい道に歩む者には、“いのち”を保証されているか・・を詠っているのです。
私達は、この時代のなかで、不義や、悪が力をもって(正に今の局地的に起こっている戦争や、暴虐・)いるなかで、神の正義が失われているのではないか(はてな) と言う疑問や恐れに対する、密かな答えなのではないでしょうか‼️
 詩篇 49篇1節~12節

<49> 指揮者のために。コラ人による。賛歌。

49:1 すべて国々の民よこれを聞け。すべて世に住む者よ耳を傾けよ。
49:2 低い者も高い者も富む者も貧しい者もともどもに。
49:3 私の口は知恵を語り私の心は英知を告げる。
49:4 私はたとえ話に耳を傾け竪琴に合わせて謎を解き明かそう。
49:5 なぜ私はわざわいの日々に恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が 私を取り囲むときに。
49:6 彼らは自分の財産に拠り頼み豊かな富を誇っている。
49:7 兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。
49:8 たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。
49:9 人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。
49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らの心の中ではその家は永遠で住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。
 2024年3月9日(土曜)リビングライフQT

何と 心が折れるほど、空しい呼び掛けでしょう。
しかし、この現実に目をつぶり、今の繁栄と希望と充実に、身も心も委ねているとしたら、それは何と、悲しくも恐ろしいことになるでしょう。
☆日本の全土に君臨することを望みながら、半ばにして、死を迎えた秀吉は 
“露と落ち 
  露と消えにし 
    我が身かな
 浪速(大阪)のことは
    夢のまた夢”
あれほどの働きとその結果を手にした秀吉も、命の灯火が消え入ろうとする時に、気付いたことは、
人生の歩み(戦い)で、手にしたものは、朝露が、葉っぱの面からから転がり落ちて、地面に吸い込まれるように、空しく、何も残らない

詩篇の記者は、
5節~なぜ、私はわざわいの日(死)に、恐れなければならないのか。
8節~魂の購いの代価(神からの永遠の保証)は高く、永久にあきらめなくてはならない。
12節~しかし、人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。(獣と同じように消え失せる)

何と、空しく、さびしい告白なのでしょう。
7節の、人は購い出すことはできない。
これは何を意味しているのでしょうか。
この事(購い出す)が、実は、聖書最大の私達へのメッセージなのです。
罪(神の裁きの唯一の原因)から、解放される(赦され永遠の神と結ばれる)ために、神が私達に手を差し伸べてくださる道と、
その御手に私達が結ばれる道(永遠に結ばれる道はない・・・にも拘らず、神は、その道を拓いてくださる‼️これが福音なのです。)
その道を求めてやまない、呻くような叫びの詩です。
この、人間に運命付けられた、現実を、いったいどれだけの人々が気付き、うめき、悲しみ、惑い、苦しんでいるでしょう。
今日、この詩篇を読んで、あなたの愛する家族・友人・繋がりのある人々のために、祈りましょう


明日(10日)のテキスト
詩篇 49篇13節~20節 
   詩篇 48篇1節~14節

<48> 歌。コラ人の賛歌。

48:1 【主】は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山私たちの神の都で。
48:2 高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
48:3 神はその都の宮殿でご自分を砦として示された。
48:4 見よ王たちは集ってともどもにやって来た。
48:5 彼らは見ると驚きおじ惑い慌てた。
48:6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。
48:7 東風によってあなたはタルシシュの船を砕かれる。
48:8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の【主】の都私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。セラ
48:9 神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。
48:10 神よあなたの御名と同じくあなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえにシオンの山が喜びユダの娘たちが楽しみますように。
48:12 シオンを巡りその周りを歩け。その塔を数えよ。
48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。
    2024年3月8日(金)リビングライフQT

エルサレム、当時(3000年前)イスラエルの民は、ダビデによって初めて一民族国家となった。それ以来、彼らは何度も侵略・略奪・虜囚・追放の憂き目を味わいましたが、彼らは繰り返し、どんなに失っても、ダビデによって選定されたエルサレム(神の臨在を約束された山)を取り戻し、次のソロモン王によって、歴史的世界の七不思議と言われる、壮麗な大神殿を建設し、創造主であり、全ての民を治められ、その中心にイスラエルを選ばれた‼️

その象徴の証として、この神殿がエルサレムの山シオンに、輝いたのです。
神殿は、偶像を礼拝する、彼らの信仰の中で唯一、罪深い人間には 見ることのできない神を、その臨在の荘厳さを見るようにして、体感する“ところ”として、神に許されて、選定された場所に建てられた神の宮でした。勿論この宮に神が住まわれる訳がありません。
しかし、この“宮”に、
罪人が罪を悔い魂を潔めて近付くとき、神はここで、人と親しく交わられるのです‼️
それがイスラエルの民であろうと、異邦の民であろうと、変わりなく交わってくださり、受け入れくださるところとして、建てられたのです。
4節~7節の記述は、正におごり高ぶった神を信じない異邦の王達が、この宮に臨在される神の潔さと輝きに、畏(オソ)れ戸惑った様子が詠われています。
一方、8節~13節には、この都(神殿)に臨在される神の、すべての民に注がれる、恵みと平安は、この都を見る全ての人々に、喜びと命とを、与える。
《神は、死を越えて私たちを導かれる‼️》
この詩篇の栄光は、やがて神が、完全に・永遠に実現される、永遠の神の国の完成の姿を、うたわせたものです‼️
今や、私たち教会とクリスチャンは、この神の国の中に、永遠に導かれて、入ることをひたすらに望んでいる一人なのです。
神よ、今朝も私達はあなたの宮の中“祈りの座”で、あなたの恵みを思いました‼️
こうして、3000年前の聖歌隊のコラの民と共に、喜び歌うのです。
ハレルヤ‼️
   詩篇 47篇1節~9節

【新改訳2017】

<47> 指揮者のために。コラ人による。賛歌。

47:《三版では存在した本節を削除し、前節に合流。cf.ESV etc...。組版の際に本節が組み込まれないように注意すること》
47:1 すべての国々の民よ手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。
47:2 まことにいと高き方【主】は恐るべき方。全地を治める大いなる王。
47:3 国々の民を私たちのもとにもろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。
47:4 主は私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ
47:5 神は上られる。喜びの叫びの中を。【主】は行かれる。角笛の音の中を。
47:6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
47:7 まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
47:8 神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
47:9 国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。
    2024年3月7日(木)リビングライフQT

全地を治めるお方、そのお方を《神》と言う。

イスラエルは、このお方により、選びの民として、神はこの民をして、すべての民(人類)への、神に生きる民のサンプルとして、選らばれたのです。
神はこの民を守り支え、この民を通して、全ての者がこのお方(神)を通して、創られた‼️それ故に、神は、イスラエルの民を中心に、世界を一つに結ばせられる‼️
これがイスラエルの信仰であり、それ故に、神の民としての自負に生きる、特別なアイデンティティーを持っていたのです。
7節・8節・9節では、この思いを、高らかに歌い上げています。
イスラエルの歴史は、その様な位置に有るために、人類の全歴史を通して、神を信じない唯物的人々、神より人間自らの優越性を信じて、神を排除する、或いは、自ら選んだ偶像を神として、形ばかり神聖さを演出した、宗教世界を築いて来たのです。
その様な、歴史と、国々の反抗にたいして、この詩篇は壮大にも、9節には、『国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として、まことに、・・・神は大いに崇められる方。』
この時代よりも、3000年近くも経過した今の時代にも、イスラエルの民に代わり(イスラエルの民は、そのまま神の民として生かされている)
キリストにあがなわれた教会を通して、今や、神はイスラエルに代わる役割を担う者として、あなたが私が選ばれて、主こそ神❗主こそ神‼️と、讚美の声をあげる器として、今あるのです。
あなたは
  わたしは
     神の民‼️
   (は)(れ)(る)(や)
 
     詩篇46篇1節~11節 

<46> 指揮者のために。コラ人による。アラモテの調べにのせて。歌。

46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
46:8 来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
46:11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
   2024年3月6日(水)リビングライフQT

聖歌 283
聖歌(総合版) 202
讃美歌(第二篇) 267
これらは皆同じ賛美です。訳語が少し違いますが、殆どは、この詩篇の46篇をそのまま楽譜にのせた、マルチン・ルター作詞作曲の賛美です。
マルチン・ルターが、カソリック体制から、聖書に基づいた、聖書的教会を立ち上げた、宗教改革の中で、教会賛美は、従来のカソリックでは、“詠唱”の様な、“クレゴリアンチャント”が、賛美のすべてでした。
宗教改革の中心は、聖書中心の信仰と共に、教会音楽(讚美)の改革でもあったのです。
感情表現を讚美に持ち込むことは、異端とされていたカソリック音楽から、全く新しい音楽の境地が、西洋音楽の基礎を築くようになったのです。
バッハはカソリック・プロテスタント双方の楽曲を産み出しましたが、ベートーベンは、解放された音楽を駆使して、神の恵を、人の喜びを、苦悩を、解放を歌い挙げるようになったのです。
その中で、カソリック教会音楽の、殻を破って、歌い上げたのが、詩は、聖書本文(詩篇46篇)そのままをアレンジして、それに力強い楽曲を乗せたのが、この讚美歌なのです。
日本にプロテスタント宣教がなされた時(幕末)に最初にもたらされた讃美歌なのです。
私も就学する前から、この讚美は毎礼拝毎に歌われる力強い讚美でした。
1517年、命を懸けた(ローマ教会から破門された)改革の底力が、沸き上がるように響いてくる讚美です。如何でしょう。あなたの教会の礼拝で、賛美のリストに一度加えてみませんか‼️

神は我がやぐら
    我が強き盾
苦しめるときの
    近き助けぞ
己(オノ)が力 
   己が知恵を
     頼みとせる
黄泉(ヨミ)の長(オサ)よ
 など恐るべし

これは私が小学校に上がる前に覚えた最初の讃美歌です。
また、詩篇本文中の 1節・7節・11節・・何と力強い告白でしょう‼️
10節『やめよ。知れ、わたしこそ神‼️』,
こせこせ、考えたり、小細工したり、情報の検索をしたり、あちらこちらに相談したり、ますます混乱するばかりの中で、主は言われる‼️
(や)(め)(よ)‼️⚡⚡⚡
(わ)(た)(し)(こ)(そ)神‼️
この詩篇をあなたの魂の告白《常日頃の》として、魂のお守りにしては如何でしょうか?
今試練の中にある方、この46篇を、声を出して読みましょう‼️ 
ハレルヤ‼️
そして祈りましょう
 
     詩篇45篇1節~17節 

<45> 指揮者のために。「ゆりの花」の調べにのせて。コラ人による。マスキール。愛の歌。

45:1 すばらしいことばで私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。
45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。
45:3 勇士よあなたの剣を腰に帯びよ。あなたの威厳とあなたの威光を。
45:4 あなたの威光は勝利のうちに進み行け。真理と柔和と義のゆえにあなたの右の手はあなたに教えよ。恐るべきわざを。
45:5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ王の敵は気を失う。
45:6 神よあなたの王座は世々限りなくあなたの王国の杖は公平の杖。
45:7 あなたは義を愛し悪を憎む。それゆえ神よあなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。
45:8 あなたの服はみな没薬アロエシナモンの香りを放ち象牙の宮殿に流れる弦の調べはあなたを喜ばせた。
45:9 あなたの貴婦人たちの中には諸国の王の娘らもいて王妃はあなたの右に立つ。オフィルの金を身に着けて。
45:10 娘よ聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
45:11 そうすれば王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。
45:12 娘ツロは贈り物を携え民のうちの富む者もあなたの好意を求めて来る。
45:13 王の娘は奥にいて栄華を極めその衣には黄金が織り合わされている。
45:14 彼女はあや織物をまとい王の前に導かれる。おとめたちが彼女の後に付き従い彼女はあなたのもとに連れて来られる。
45:15 喜びと楽しみをもって彼女たちは導かれ王の宮殿に入って行く。
45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わりあなたは彼らを全地の君主に任じる。
45:17 私はあなたの名を代々にわたって呼び求めよう。それゆえ国々の民は世々限りなくあなたをほめたたえよう。
   2024年3月5日(火)リビングライフQT

この詩全体に読み込まれている“王”とは、一体誰(どの王)をさしているのでしょう?✨
改めて、この詩篇を読み直して見ると、
“永遠の王”と吟われていることに気付きます。
正に、その王とは‼️やがて、この世に顕れ、全ての民に尊ばれ、世界を支配し、代々に亘って栄光に輝かれる、イエス・キリスト、メシヤ(人類の救い主)への讃歌なのだと、気が付きますね。
後半(9節~17節)は、その王であるキリストのもとに平伏す、様々な人々の豊かさと、祝福が詠われていることに、気が付きますね。
この詩は、《王なるメシヤの“詩”》と呼ばれています。
今日私たちも、この詩と共に心合わせて、王なるイエス様を、心から賛美しましょう。
そして、代々の人々に、この王なる主を、示して参りましょう‼️
    詩篇44篇9節~26節 

44:9 それなのにあなたは私たちを退け卑しめられました。あなたはもはや私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
44:10 あなたは私たちを敵から退かせ私たちを憎む者どもは思うままに略奪しました。
44:11 あなたは私たちを餌食となる羊のようにし国々の間に散らされました。
44:12 ご自分の民を安く売り渡しその代価で何の利益も得ませんでした。
44:13 あなたは私たちを隣人のそしりの的とし周りの者の嘲りとし笑いぐさとされます。
44:14 私たちを国々の間で物笑いの種としもろもろの民の間で笑いものとされるのです。
44:15 私の前には絶えず辱めがあり恥が私の顔をおおってしまいました。
44:16 それはそしる者とののしる者の声のゆえ敵と復讐する者のゆえでした。
44:17 これらすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れずあなたの契約を無にしませんでした。
44:18 私たちの心はたじろがず私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。
44:19 あなたはジャッカルの住みかで私たちを砕き死の陰で私たちをおおわれたのです。
44:20 もし私たちが自分たちの神の御名を忘れほかの神に向かって手を伸べ広げたなら
44:21 神はそれを探り出されないでしょうか。神こそ心の秘密を知っておられるからです。
44:22 あなたのために私たちは休みなく殺され屠られる羊と見なされています。
44:23 起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。
44:24 なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。
44:25 私たちのたましいはちりに伏し私たちの腹は地についています。
44:26 立ち上がって私たちをお助けください。御恵みのゆえに私たちを贖い出してください。
   2024年3月4日(月)リビングライフQT

昨日の、主の御手により護られ、保護され、勝利を得た、感謝の詩(うた)から一変して、初めから終わりまで、敗北と虐げにより、敵に勝利を欲しいままにされて、打ちのめされた苦悩を、詠(うた)っています。
読んでいて、読む者にまで同じ苦悩を感じさせてしまうほど、その苦悩の現実は厳しいもののようです。(9節~16節)
この様な孤立無援の状況の中で、詠(よみ)人はなお、凡てを知り尽くされる御方の前に、虐(しいた)げられるままに晒(さら)されている。(17節~22節)
私は身を翻(ひるがえ)さずに、保護されるお方を待ち望んでいる‼️
御手をさしのべて、救い出して下さい‼️
(23節~26節)

悲壮なまでに、主に全てを委ね待ち望む、捨て身の信頼と信仰の姿をこの処に見るのです‼️
改めて❗信仰・信頼は、利害のやり取りではなく、捨て身で“この方以外には、頼みとするお方はない‼️”と言う、確固たる信頼と不動の信任なのだ・・と、強く学ばせられます。
この信頼こそ、私の信じるお方への唯一の献身だ‼️と新たに心に刻ませられた詩です。
主よ感謝します。
私も又、あなたに信頼し尽くします‼️
ハレルヤ‼️
    詩篇44篇1節~8節 

<44> 指揮者のために。コラ人による。マスキール。

44:1 神よ私たちはこの耳で聞きました。先祖たちが語ってくれました。あなたが彼らの時代昔になさったみわざを。
44:2 あなたは御手をもって異邦の民を追い払いそこに先祖たちを植えられました。もろもろの国民にわざわいを下しそこに先祖たちを送り込まれました。
44:3 自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
44:4 神よあなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。
44:5 あなたによって私たちは敵を押し返し御名によって向かい立つ者どもを踏みつけます。
44:6 私の弓に私は頼りません。私の剣も私を救いません。
44:7 しかしあなたは私たちを敵から救い私たちを憎む者どもを辱められます。
44:8 神にあって私たちはいつも誇ります。あなたの御名をとこしえにほめたたえます。セラ
 
   2024年3月3日(日)リビングライフQT 

2節~異邦の民を追い払い、そこに先祖たちを植えられました。
アブラハムがカルデヤのウルから導かれて来て、様々な先住民が住む、カナンの地に入ってきた。まるで侵入者のようですが、実はその地は、古代文明の栄えた、カルデヤ(メソポタミヤ文明)と、エジプト文明の中間点と、更に、やがて栄えるギリシャ文明を軸とする、人類古代文明の交差する地域なのです。言い換えると、このパレスティナは、アジア・ヨーロッパ・アフリカの大陸が交差する場所なのです。
神に創造された人類が、神から離れ、偶像と欲に埋没し、創造主を忘れた中で、
アブラハムを選び、唯一の神、創造主を全ての民に教え、そこから救いのご計画へと導くために、この地を選び取られたのです‼️
それがイスラエルであり、カナンの地・約束の地・イスラエルとなったのです。
サタンは、神のこのご計画を、粉砕しようと、今に至るまで、闘いを挑んでいるのです。
詩篇の記者はそのような闘いの激しい中で、神によりたのみ、自分の力(戦略)により頼まず、神の主権とそれによる勝利を、祈るのです。
6節~私の弓に、私は頼りません。私の剣も私を救いません。

私の祈りは、私の営み(闘い)は、どうでしたでしょう
私達の信仰の日々の闘いや葛藤は、どうだっただろうか・・・と、この祈りを通して、考えさせられました。
8節~神にあって、私達はいつも誇ります。あなたの御名を、とこしえにほめたたえます。アーメン
    詩篇43篇1節~5節 

43:1 神よ私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
43:2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を退けられたのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。
43:3 どうかあなたの光とまことを送りそれらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山あなたの住まいへとそれらが私を連れて行きますように。
43:4 こうして私は神の祭壇に私の最も喜びとする神のみもとに行き竪琴に合わせてあなたをほめたたえます。神よ私の神よ。
43:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。
   2024年3月2日(土)リビングライフQT

昨日の、詩篇のように、何とつき抜けた、祈りの賛美なのでしょう
改めて❗詩篇の素晴らしさに心踊ります。
・・・とは言え、この詩も又、苦悩に満ち、後がない土壇場に迫られた詩なのです。

しかし、この詩も又、呻きと叫びの中から、自分の正しさ(義)を、訴えてはいないのです‼️
1節・2節に、綿々と訴えてはいますが、何処にも、自らの“義”を、主張した言葉を見い出だすことは出来ません。
“ただ❗”神の《義》の前に、自らを曝(サラ)して、神のお取り計らいに期待するのです。
下手をすると、その結果が自らを、裁きの座に立たせられるかも分からないのです‼️
これが本当に、神の前に出る‼️と言うことなのです。 そして、
祈りとは、その様な神様との対座の場なのだ‼️と言うことなのです。
一見、恐ろしい事の様に思いもしますが…
幸いなるかな✨✨
祈る者と、神様との間には、十字架が、立つのです。
愛と赦しと再生がそこにはあるのです‼️
祈りの座が常にあなたを新しく生かすのです
。ハレルヤ‼️
   詩篇42篇1節~11節 

<42> 第二巻指揮者のために。コラ人のマスキール。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
42:6 私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
42:7 あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
42:8 昼には【主】が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
42:9 私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」
42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。
42:11 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。
   2024年3月1日(金)リビングライフQT

『私のたましいは(神を生ける神を求めて)渇いています。』2節
『私の神よ、私のたましいは・・・うなだれています。』6節
この詩全体は、魂が沈むばかりに、混乱している状況が、ヒシヒシと伝わって来ますね
それなのに、どこか(はてな)ドッシリとした安定感が、伝わってきます。
言い換えると、崖っぷちに追いやられて、後がない・・・と言う姿なのですが、最後の砦が、この詠み人を、支えている‼️
その危機の中の安定は、一体何でしょう⁉️
それは単に、修辞学的(読む人を感動に揺さぶる文章の書き方)美しさではないのです。
どの部分を切り取ってみても、事態は、ギリギリの危機に直面した時の、絞り出すような叫びがにじみ出ています。
その理由は・・・
①2節と6節~に、この詠み(よみ)人が、《神》に向かって叫んでいる‼️と言うことです。
祈りは、“ぐち”や“呟き”ではないのです。
祈りは、ハッキリと、神に向かっての叫びでなければ、祈りとは言えないのです。
あなたは祈ってますか❓と問われた時、
あなたは神の前に座して、十字架の主の前にひれ伏して、それから、主を仰ぎ見❗主の御名を呼ぶのです‼️
時は主が握っておられます。あなたの魂が主の前に整えられる(主に向く)のを、主は待っておられます。
やがて、あなたの本音が目覚めて・・・
『わがたましいよ なぜ、おまえはうなだれているのか。』(5節・11節)と、叫び詠い(うたい)挙げる時
あなたの内からは、勝利の賛美が口をついて出るのです‼️
このような祈りの日々が、あなたの勝利の人生を築き挙げるでしょう‼️(*^。^*)
神を待ち望め
私はなおも神をほめたたえる
私の救い 私の神を
   (は)(れ)(る)(や)