
力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
(新改訳聖書2017)
北九州シオン教会
| マタイの福音書 9章1節~13節 9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。 9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒?している」と言った。 9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。 9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。 9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。 9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。 9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。 9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 |
2026年2月1日(日)リビングライフQT 再びカペナウムに帰ってこられた。 2節~7節の記録は、マルコの福音書2章1節~12節の記事と同じ記録ですね。マルコの福音書では、室内は人で入れないので、屋根の覆いを剥いで、天井からつり降ろした・・・と、リアルに記録されています。 何れにせよ、自分で求めても、自らの足では主の御許に行けない人を、こうして連れてきた・・・と言うことは、素晴らしい事態の展開の、きっかけと成ったのです。 《イエスは彼らの信仰を見て・・・》と、記録されています。 この言葉(記録)は、見過ごしにしてはならない、この物語の大きなポイントです。 《彼らの信仰‼️》 ☆それは、この病む人への「愛・友情」心悼めて、心がしっかりと結ばれていた。 ☆この切なる思いを、イエス様が解決(癒し)して下さる・・・‼️ この切なる思いが数人揃って、一つとなって、行動に結びついたのです。 考えとみると、この一致した愛と、心の悼みと、信仰の一体感は、正に《愛》そのものですね。 主イエス様は、その全ての姿《信仰》を観られたのです。 最初に主イエス様が語られたのは・・・・ 『子よ、しっかりしなさい・あなたの罪は赦された‼️』 ここには記されてはいませんが、このお言葉は・この病の人には、完全な解放=救い❗となって・魂から身体全体に、赦しと愛が駆け巡ったのではないでしょうか。 この部分の、文語訳聖書では『子よ。心やすかれ。汝の罪赦されたり‼️』です。 このお言葉は、正に私の中学三年の卒業式を終えた後、死よりも恐ろしい、神の裁きと・罪の重圧に打ちのめされた、私の心と体を駆け巡った・御言葉なのです。あの日、私は救いを確かな者と実感して、今日が在るのです。 律法学者達は、この言葉を聴いたとき、 神の他、罪を赦す権威を持つ方はいないと・心に怒りを持ったのです。 この言葉は、教条的には、正しい判断でしたでしょう。 しかし、彼らは最大の罪をここでおかしていたのです。 イエス様が神の御子(神)であることを否定したのです。 最大最強の罪は、イエス様を《神=神の御子》と信じないことなのです。当時の神学者を自負する・律法学者が・・・です。 恐らく主がその後でこの病む人を立たせられた時、彼らは驚ろいたことでしょう。しかし、この後の流れを観ると、イエス様を神と信じるのではなく、返って、否定し主の働きを妨げ・遂に十字架にまで・・・・・ ところが、群衆はイエス様を、神の権威によるお方だと信じたのです。 後半は、当時、[取税人・罪人]と、ランク付けされ汚れた人、とされたマタイが・罪赦されて・イエス様の弟子とされたことを喜んで、弟子達や・取税人仲間を集めて・感謝の宴を設けると・・・ あの・イエスが取税人や罪人と、食事の席を共にしている・・・と、軽蔑したのです。 しかし、その実・この宴席は・祝福に満ちた・赦された罪人の歓びに溢れていたことでしょう。 解説抜きに・聖書本文を再録しますので・繰り返し読んで・黙想し、祈りましょう。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。』とはどういう 意味か、行って学びなさい。わたしがが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 |
| マタイの福音書 9章14節~26節 9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。 9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。 9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」 9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。 9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。 9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。 9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。 9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。 9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26 この話はその地方全体に広まった。 |
2026年2月2日(月)リビングライフQT 次々繰り広げられる、癒やしの御業‼️ 14節の(ヨハネの弟子)・・・とは、バプテスマのヨハネ→(メシアを指し示すために立てられた最後の預言者)を、指しています。 パプテスマのヨハネも又、イエス様を偉大な方・・・だと、民衆に紹介しましたが、 彼自身は、未だイエス様が、メシヤだと、完全に知っていたわけではないことが、後のテキストに出て来ます。 (11章2節~6節) ですからその弟子達は、依然として、律法中心の働きに従っていたのです。 この問い掛けに、イエス様は、 暗黙のうちに、その理由をヨハネに伝えるように、喩えで語られたのです。間もなく、ヨハネは捕らえられて、殉教の死を遂げるので、明らかにはされなかったのです。伝統に捕らわれずに、神の時を読むように・・・と。 16節ー17節・・・・は、その事を人々にも明らかにされるために、今や新しい時が、拓かれたのだから、伝統や、しきたりに捕らわれずに、心を新しい恵みの時に切り替えて、今拓かれる福音・神の御業(奇跡)を、魂にしっかりと刻むよう に・・・。 私達は、聖書を学ぶ(読む)とき、気付かないうちに、学んできた知識や、身に付けてきた、常識、感覚で、聖書を読んでいると、中々受け容れられない感情を待ったことはないですか。 そんな事❓ 昔のことだから・・・❓ 2千年前の出来事・・・❓ 文脈を読み取れば良いのでは・・・❓ 聖書は、宗教書だったり、歴史的記録だったり、世界のベストセラーだから・・・・NO(no) 《聖書》は、神の言葉なのです。 神の創造の御計画の中で、全ての人類に語り掛けられた、《神の言葉》なのです。ですからあなたが読まれる時は・・・『主よ❗あなたからの御言葉を戴きます。私の魂に語り掛けてください。魂にあなたの御思いを教えて下さい。‼️』と、祈って読んでみましょう。その訓練を重ねましょう。 21節⇒何と、秘かな、しかし大胆な発想の信仰でしょう。これこそ、信仰‼️の独創性ですね。 ① 内なる切実な願い ② イエス様への独創的な求め(接近)・・・ 私達日々の営みの中で、あなたのイエス様は、何処に居られますか・・・‼️ この女性は、多くの群衆の中で、自らを、雑踏の中の一人とは考えていないのです。彼女の目は、イエス様と自分だけしか見えていないのです。これが信仰の極意なのです。 イエス様は彼女に『あなたの信仰があなたを救ったのです‼️』と仰ったのです。何と素晴らしいお言葉を戴いたことでしょうね。 18節・23節~26節 今や、この出来事は、確かに驚くべき奇跡です。 しかし、創造主でいまし、罪の贖いのために、命を与えるために来られたお方なのですから、この少女の上に起こった奇跡は、不思議な出来事ではなく、《福音》そのものなのではないでしょうか。ハレルヤ‼️ 主を賛美します。 |
| マタイの福音書 9章27節~38節 9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。 9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。 9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。 9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。 9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。 9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。 9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。 9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。 9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。 9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 |
2026年2月3日(火)リビングライフQT マタイの福音書を、こうして読み進んで行くと、イエス様に大きな声を掛けて近付いて来る、人々の言葉に、主は即座に❗向き直り、即座に❗御声を掛けておられる姿を、記録しています。そこには(その描写を通して)主に声を掛ける人の、ストレートな思い・主への呼び掛けが『ダビデ』の子よ‼️・・・この呼び掛けは《メシヤ=救い主》‼️・・・との呼びかけと、全く思いを一つにする、信仰の告白なのです。 ただ、見えるように成る・・・‼️・・・と、願う以上に、今や、彼等の内には、メシヤ❗神の御子❗に触れられる・・・・そんな途方もない願いに魂が昇華されて、主イエス様に向かっていたのではないでしょうか。 今まで観てきた・・・ ☆病・患いを癒やし、 ☆ツァラ-トを浄め‼️ ☆盲人を見えるようにし ☆中風の者の癒やし ☆良き音信(福音)を伝え・・・ ガリラヤ・ユダヤ全域に、その噂や影響は、瞬く間に広がって行きました。 その現場には、2000年前の状況下ではありますが、真っ暗な人生を生きる盲人、音も情報もない中で生きる聾者、 生ける屍とレッテル貼られたツァラートの人々・・・・ それらの人々(社会から隔絶された民)の中から、輝き出す信仰と神への光り輝く言葉の告白が飛び出したのです。《ダビテの子よ‼️》この告白こそ知恵や観察や理解からではなく、イエス様の中に《神の御子》を観た者だけが叫ぶ事が出来た告白だったのです。 あなたが、今、罪赦された主の弟子なら、同じ様に、《我が主❗我が神‼️》と、勝利の叫びを、主に向かって献げられるのです。 ハレルヤ‼️ 何故❓ くよくよするのですか 何故❓ 心つぶれる様な愚痴に沈むのですか 今一度、あなたを罪の汚れと腐敗の中から、命の日々に引き上げて下さったイエス様を、主と仰いで、光の中に飛び出しましょう! イエス様は更に・・・(36節~38節)に、刈り入れを待つ多くの傷ついた魂の待つ世界に、眼を注いで祈りなさい‼️と、語られています。 今や、終末の切迫した時代の、刈り入れの時なのです。 今日の教会(それはあなた‼️)に、迫られている、緊急事態なのです。 主よ❗今ここに私がいます。 遣わして用いてください‼️ |
| マタイの福音書 10章1節~15節 10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。 10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。 10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。 10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。 10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。 10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。 10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。 10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。 10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。 |
2026年2月4日(水)リビングライフQT ★福音宣教への派遣 12名の弟子が選ばれました。主は山に入られ夜を徹して祈られ、主に従ってきていた人々の中から、福音に仕える12名の《使徒》とよばれる弟子を選ばれました。 彼等が、これからの、神の国の福音を託す、土台となる人材です。 ペテロ・アンデレ・ゼベダイの子ヤコブ・ヨハネ・ピリポ・バルトロマイ・トマス・マタイ・アルパヨの子ヤコブ・タダイ・熱心党のシモン・イスカリオテのユダです。 主イエス様は、彼等を選ばれて言われた言葉の意味は何だったのでしょう。 『異邦人の道に行ってはいけません。又サマリヤ人の町に入ってはいけません。』 これは、先ず、福音は、二千年以上に亘るイスラエルの歴史の中で、人類の救いとなる《メシヤ》は、神の選びの民イスラエルから出る‼️・・・と、語り伝えられてきた、神の摂理と御計画が有るからです。 主は、彼等に、『天の御国(神の備えられた永遠の御国)が近付いた』と語り、病の癒し、死人の蘇り、ツァラートの癒し(きよめ)、悪霊の追い出し・・・等の権威を授けられました。 神からの権威と、力と真理の言葉の力強い結果が、委ねられたのです。その為に、この12人の使徒達は、全生活が、普通の日常の営みではなく、神の拓かれる導きのまま、食べることにも、着ることにも、休む(寝る)事にも、心と思いを使わずに、与えられるままに委ねること。 弟子達を受け容れる人々(家)には平安と祝福を祈り、語る福音を拒む者には、さばきの徴として、足の塵をはらいなさい。 この指示(足の塵を払う)は、そのまま今の私達の働きの中で再現してはなりません。 これは、主が強く、神の国の現れを顕し示すために、特別な御計画の中で、顕された指示ですから、日頃の宣教活動の中で、実行するものではありません。 1972年~1978年に亘って、毎年、沖縄の伝道の応援に行っていました。その中で、北部の金武シオン教会開拓の応援に行った時、故長澤忠雄先生の指導の下、今朝のテキストの弟子達のように、トラクトによる戸別配布伝道で、お弁当を持たずに、トラクトだけ持って、午前10時出発、午後三時終了して教会集合。昼食を招かれたら遠慮なくいただく。しかし、お招きがなければ、そのまま続行・・・その様な申し合わせで、祈りながら出発しました。沖縄の暑い夏です。私は東海岸沿いの集落を、幾つも幾つも配布したり縁側に座り込んで、福音をお話ししたり、愉しかったです。いつの間にか沖縄北部の辺野古から具志川まで来ていました。(その距離は20km近くなります)何と、2回もお食事に呼ばれていたのです。一緒に参加した他の方の中には、食事なしの方も居ました。でも皆輝いて、喜んで証しを携えて、帰ってきました。私は、20年前に大病を患って、その後、足が不自由になるまでは、教会牧会しながら、過疎地域での、訪問伝道を40年以上に亘って、戸別訪問配布伝道をしてきました。 私の使命は、牧会以上に、過疎地に住む人々に福音を届けることに、大きな喜びを感じてきました。 イエス様は、使徒達に、福音の働きは、全ての創られた者に、福音を届けることだ‼️と、教えたのです。 これが福音の働きで、教会堂や、教会という組織を築き上げることではないことを、教えられたのです。 この原点の訓練が、初代教会の爆発的拡大となったのです。 今、私達には教会が在ります。礼拝や祈祷会や、様々な催しが、開かれます。 しかし、私達の原点は、出て行って、福音を語り生活することです。 主に遣わされる日々でありましょう。 |
| マタイの福音書 10章16節~33節 10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。 10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。 10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。 10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。 10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。 10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。 10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。 10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。 10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。 10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 |
2026年2月5日(木)リビングライフQT 《只お一人怖れるべきお方》 更に、弟子達を遣わすために語られる、主のお言葉は続きます。 語られている対象は、選ばれた12人の弟子達(将来ば使徒゙と呼ばれた)への教えです。 しかし、今学ぶ私達にとっては、特別職のように理解している、《使徒職》に対する教えではなく、始めて福音を聴いて、主の僕(弟子)となった、最初のクリスチャンへの、教えなのです。 即ち、今までサタンの支配する暗闇の生活から、光の主、神の新しい創造世界に生きるための、基盤となる価値観と生き方への、教えなのです。 私達は、福音を信じて新しく生きるに当たって、そこは天国ではなく、今までと変わらない、悪の霊の支配する、この世・・・なのです。言い換えれば、私達は、この12弟子と同じように、狼の中に、羊を送り出すようにして、あなた方を遣わします❗(16節)と、言われたような状況なのです。 魂の内には、輝く光と、何者も破壊することの出来ない、新しい義の世界が拡がっているのです。そんなあなたが・私が、現実に生きる世界と日々は、暗闇に覆われた世界なのです。日々の報道に観るような・・・・ 何が善で、何が偽なのか、何処に光があるのか・・・・常に意識しながら祈りと、神のことばに心を傾けなければ、光の道を見失ってしまうような日々です。 そういった日々の中に生きるためのイエス様からの、手引き書なのです。一節・一節解説すると、膨大になりますので、大切な言葉だけを書き抜いてみましょう。今日のテキストは、繰り返し読んでみましょう。 16節~蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 19節~心配しなくても良いのです。話す(弁明する)ことは、その時与えられるからです。 20節~話すのはあなた方ではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなた方の父の御霊です。 22節~最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 26節~(迫害する者)彼等を恐れてはいけません。 27節~わたしが暗闇(祈りの黙想の中)であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。 28節~・・・たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。たましいもからだもゲヘナ(審判の地獄)で滅ぼすことが出来る方を恐れなさい。 29節〜31節 ・・・雀の一羽でさえ、あなた方の父の赦しなしには地に落ちることはありません。・・・・ 恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 32節〜33節・・・誰でも人々の前でわたしを認めるなら わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 ・・・・の前でわたしを知らないという者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 32節~33節は、最後の審判を彷彿とさせますね 今や、御子の到来と贖いにより、全く新しい創造世界の完成の、時が開かれ始めたのです。 今私達は、その新しく贖われた世界に、踏み出していることを、深く思いながら、今日も祈りつつ主の導きを仰ぎながら、歩みを進めて参りましょう。 |
| マタイの福音書 10章34節~42節 10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。 10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。 10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。 10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。 10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。 10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」 |
2026年2月6日(金)リビングライフQT 今日のテキストは、昔から、わたしの苦手とする箇所です。・・・・・と申しますのは、主イエス様を信じたことで、家族と敵対関係になったり、家族の中での親密(愛情)関係が、変わってくるような、イメージで語られているからです。リビングライフのテキストを、毎日読んでこられた方の中にも、「ウンウン」と頷かれる方も、今も居られるだろうと思います。 日本国は、来週の水曜日(2月11日=建国記念日)を前にして、しきりに、新聞紙上・スマホの情報欄に、また、TVの報道番組に、CMの画面に、《神国日本》の字が躍り、天照大神初め八百万の神々の物語が、話題に上ってきています。 まるで、これが『日本の国体‼️』とばかりに、改めて国民にアピールしています。その様な中で、教会は・クリスチャンは、外国の宗教・文化・習慣を持ち込んで、国土は侵略しなくても、日本人の心(精神)を、文化を、信仰心を・・・即精神文化を、侵略してきた・・・と、今でも激しい反目と敵対心を持って、暗黙の挑戦をしてくる傾向があります。 江戸時代の切支丹迫害時代から、どれ程多くのキリスト教徒が殉教し、主の弟子が家族から切り離されたり、解消を迫られたりしてきたことでしょう。400年に亘るイエス様を主と仰ぐ信仰に、鉄槌や刀や、火攻めや、社会からの追放や、仲間外れ・・・等々の迫害を受けながら、何十万何百万のクリスチャンの、築き挙げてきた、受難の塚により、今や、人口の1%超えの僅かなクリスチャンにも拘わらず、クリスチャンの、清さ、誠実さ、愛の深さ、社会貢献の堅実さ、文学・音楽・思想・教育・・・に、多大な貢献を果たしてきた、実績から、反対(闘い)は、確かに後退してきました。しかし、この闘いはなくならないのです。 否、社会的には見えなくなっても、実は・・・・ 37節~39節の、主のお言葉は、外からの挑戦ではなく、更にもっと激しく、主との愛の絆を危うくする、激しい闘いが揺さぶりを掛ける、敵に対する、警告が語られているのです。 主を、第一とする生き様・・・それは、家族・親・家系(家)・子供・夫・妻・etc. を、二次的な関係とすると、理解されて闘い・葛藤が生まれるのです。 しかし、そうでしょうか。 私達は、先ず創造主・罪からの購い主イエス様を第一とする信仰生活からブレない日々を、積み重ねた結果、家族が救われ、連れ合いが信仰に結ばれ、子供達と共に礼拝を献げるようになっています。未だ行き着いていなくても、必ずその様になるのです。わたしは数えられないほど、主の成された奇跡を観てきました。かつて、猛反対してきた家族が、悔い改めて、涙しながらパプテスマを受ける姿を目の当たりにしてきました。 恐れずに、主を第一にしながら、家族を愛し、愛する者のために祈り続けましょう。又、真実な愛をもって、仕えましょう。 そして御国へお連れしましょう。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 11章1節~19節 11:1 イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。 11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて 11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」 11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。 11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。 11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。 11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。 11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。 11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。 11:14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。 11:15 耳のある者は聞きなさい。 11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。 11:17 『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』 11:18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」 |
2026年2月7日(土)リビングライフQT 世の人々の関心事に 関する指摘と警告 1月17日の、マタイの福音書3章で、バプテスママのヨハネから洗礼を受けられた時の記事で、今日のところを引用しましたが、ヨハネは捕らえられて、その働きを終え、牢獄で心の中で迷いを持っていたのです。自分が洗礼を授けた方が・本当に・来るべきメシヤだったのか❓・・・と、彼の弟子を遣わして、主イエス様に、問い掛けたのです。 イエス様は、ヨハネの弟子に、答えを告げずに、『業を見て信じるように・・・‼️』と、伝えられました。 1+1=2・・・と言う答えは、誰もが迷わず信じます。・・・それは、「知っている・理解出来る」と言うもので、信仰ではないのです。知識の世界です。 しかし、主が成されている様々な徴と・教えと・業・・・これ等は、例え、観ていても、知識にはならないのです。見て・・・信じ受け容れる・・・信仰の世界なのです。イエスorノーかではなく、《アーメン》か《疑い》か・・・の、 世界になるのです。バプテスマのヨハネも又、メシヤの到来を自ら語っては来ましたが、今改めて、主イエスを《メシヤ》として信じ、受け容れ、逍遙として殉教の道へと、進まれたのです。 (マタイの福音書 14:1~12) 主は、ヨハネの弟子達が帰ると、集まった群衆に、ヨハネの偉大さを話されました。 しかし、その中で、ヨハネの偉大さにも勝る、更に大いなる事は、神の御国に上る者(神の遣わされたメシヤを信じた)は、更に大いなる者です。・・・この意味は、パプテスマのヨハネと、主を信じたクリスチャンとを比較しての、意味ではなく、預言者時代の[待ち望みの信仰]と、今預言の成就する時代の信仰の、神の御計画の中での、時代(時限)の相違を仰ったのです。 今、私達が主を信じて歩む日々が、如何に素晴らしい勝利の日々か、改めてこのお言葉で実感するのです。 12節~15節は、ヨハネへの賞賛と、彼の生涯の働きの栄光を、称えられたのです。ハレルヤ‼️ 預言者達の苦難と葛藤を、主は、深く理解し、その中での働きの尊さを、語られていますね。 私達の信仰生活における、闘い、人々の無関心、迫害にも優るような、無視と嘲笑と、排除は、平和な時代の迫害と言えますね。主は、それをも御存じです。 主から受け容れられていることこそ、勝利と喜びですね。 |
| マタイの福音書 11章20節~30節 11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。 11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。 11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。 11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 |
2026年2月8日(日)リビングライフQT イエス様の裁きのお言葉悲しいかな、主はどんなに心痛めながら、御語りに成られたのかなぁと、思いながら読みました。確かに、主は悲しまれたでしょうが、神なる御方のお言葉ですから、その重さは、計り知れない確実性があります。確かに2000年という、時代の隔たりがありますが、今は、コラジンも、ベッサイダも、存在はしていません。しかし、ツロもシドンもレバノンの港町として、栄えて交易の中心となって存在しています。何故、この様な違いが・・・それはイエス様が仰る通り、主イエス様の御存在を敵視して、受け入れず、心の中から・誇り高い町として、主を排除したからです。 《絶対者》なる御方を閉め出す(比較対照して)・・・何と言う、怖ろしく愚かな仕業でしょう。これが《罪》の現実なのです。 ツロやシドンでも、主の御業は顕されました。それによって町に主の御名が拡がったのです。異邦の町だから・・・選ばれた主の民の町だから・・・ではなく、信じ受け容れるか否か《信仰によって‼️》なのですね。ハレルヤ‼️ 25節 : 父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子達に現してくださいました。 ハレルヤ‼️ 主は、神の力ある業を、ユダヤ教の難しい律法遵守の学者達に・・・ではなく、何も知らない無知な、しかし何か(真実)を求める、異邦の民に現されたのです。 28節 : 『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。《わたし》があなたがたを休ませてあげます。』 何と慰めに満ちたお言葉でしょう。 このお言葉を信じて、主の愛と慰めに救いを頂いた方は、今日まで、どれ程おられたことでしょう。 これからも・・・・‼️ あなたも今日、このお言葉を聴いて(読んで)主の前にひれ伏しましょう。 あなたの重荷を主の前に下ろして・・・・ |
| マタイの福音書 12章1節~21節 12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。 12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。 12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。 12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」 12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。 12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」 12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。 12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。 12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。 12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」 |
2026年2月9日(月)リビングライフQT 安息日律法に関する、パリサイ派の学者との論争。 『安息日律法』 《安息日》とは、元々、主なる神が、天地創造された時、最初に「光よ。あれ‼️」と、仰せられた。すると光が出来た。・・・・第一日。創世記1章3節・・・から始められて、天地万物を御創造になる記録を、一日(これは24時間刻みの一日と言うのではなく、一つ一つの創造主の働きを区切る言葉のー表現ーとしての表記として、《日》とあらわしているのです)この様に記録して、六つ目の働きの積み重ねの後(即ち、6日を終えて)、そのお働きに一区切り付けられ、7日目はお休みになられた。・・・と言う記録から、古代の民は、日々の生活を7日刻みに区切り、生活リズムを確立してきたのです。 しかし、この《7日周期》の生活リズムが、人々の生活リズムとして、確立されるのは、 世界最古の文明・メソポタミヤ文明(アブラハムの時代)の頃からですが、それが、 イスラエルの民の、エジプト脱出(出エジプト)の中で、民がシナイの荒野で、神からの律法を頂いた中で、モーセを通して与えられた、《モーセの十戒》によって、イスラエルの民に確立されてから、宗教的意味を持って、全人類に拡がったのです。 現代の暦(グレゴリオ暦)は、1582年に、ローマ法王グレゴリオ13世の時代に、制定されたのが、日本では、明治6年に、太陰暦(中国暦)から、グレゴリオ暦に代えて、今日に至っています。 モーセの十戒には、土曜日が、7日目とされていたので、聖書で、《安息日》と言うのは土曜日なのです。 今私達が、日曜日を、安息日《聖日》としているのは、イエス様が墓から甦えられたことを記念して、日曜日を、安息日⇒聖日として、神様との交わりの休みとして、大切にしているのです。 ユダヤ教では、今日も、モーセの律法に従って、イエス様の時代と変わらず、この日の生活の規制を、厳格に守っているのです。 パリサイ人達の、テキストの中での追求は、真に微細な事なのですが、彼等にとって、律法はそれ程、彼等の心を支配していたのです。 この例のように、律法は、その規定を厳守することのためにあるのではなく、その規定の教える意味を知る(学ぶ)事により、豊かな祝福された人生を紡ぐためにあるのです。ユダヤ人達は、律法の規定を守ること自体が、人生そのものだ(永遠への道筋)・・・と、考えたため、愛も慈しみも慰めも育たない、ユダヤ世界を作り上げてしまったのです。 ユダヤ人であるイエス様は、厳格な天と地の融合し得ない世界を、神の子として天に留まることを為さらずに、御自身を低くされ、人の姿をとられて、地に降られたのです。 テキストを次に進むと、手の萎えた人の癒しを、敢えて、ユダヤ人に問い掛けて、彼等自身が、安息日に対する矛盾に気付くように、語り掛けたのですが、彼等の頑なな心は却って、怒りに燃え、愛と慈しみからは遠のいたのです。 何と寂しいことでしょう。魂の痛む心が解らない人にとっては、教え・規則・真面目な生き方・・は、しばしば、痛む心を理解できなくなり、捌いたり、排除したり、不正だとしたり、怒りで満ちて、期待する思いとは、異なる方向へと進むことになるのです。 気を付けましょう。主イエス様は、何を私達に求めておられるのでしょう。 《人の子は 安息日の主です》 主との交わり、礼拝、祈り、賛美・・・その中から、主の御思いを、私の・あなたの魂に培っていただきましょう。 アーメン‼️ |
| マタイの福音書 12章22節~37節 12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。 12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」 12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」 12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。 12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。 12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。 12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒?も赦していただけますが、御霊に対する冒?は赦されません。 12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。 12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。 12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。 12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。 12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。 12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」 |
2026年2月10日(火)リビングライフQT この時代、ここに登場するような、耳が聞こえない・眼が見えない・口がきけない・・・と言う人々は、他にも、登場しますが、ここでの様に、(悪霊につかれた)と言う、説明が付いた例はないのです。即ち、通常の生活が出来ない人を、悪霊の働き・・・とレッテルを貼ることは、古代社会では、得てしてあったことでしょう。 しかし・・・・・ 福音書の記述には、区別して記録されています。 ですから今日の記事は、悪霊につかれたと言うより、三重苦に閉ざされたこの人の魂は、自らでコントロール出来ないために、怒り・イライラ・絶望・等々の感情が、しばしば、この様な乱行に及んだのでしょう。 考えたら、この様な惨めな人生を生きる、この方の内なる思いは、涙が溢れるほど、胸が痛みます。 群衆の雰囲気で、何か大きな光が・愛が・命が・・・感じられたのでしょうか・・・ 否‼️イエス様が彼に近付かれたのでし ょう 。 思い巡らせながら、私のまぶたに、熱いものを感じました。 アァ❗イエス様の愛‼️ 主の癒しはたちどころに彼を覆いました。それは、最初の人アダムが命を吹き入れられて、生きるものと成った‼️という記述に匹敵する、神の創造の御業ではないでしょうか。 この厳粛な、御業に対してパリサイ人たちは、とんでもない愚問を投げかけて、神の御子イエス様を、悪霊のかしらと、罵ったのです。涙が滲み出ます。 この文章では遣り取りについて、詳細な解説は省きます。 一通りお読みください。どんなに、愚かな彼等の態度でしょう。 37節~『あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって、不義に定められるのです。』 深く心に留めて、愛と真実と正義に立った、《言葉》を、大切にしましょう。 主を賛美し、主を告白し、主に明け渡し、 主を求める・・・言葉は、人を癒し、救い、包み、導き、豊かにするでしょう‼️ ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 12章38節~50節 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。 12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、 12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。 12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。 12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。 12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。 12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 |
2026年2月11日(水)リビングライフQT ユダヤ教徒の指導者、即ち、律法学者・パリサイ人・・・彼等は、神から遣わされたメシヤである《神の御子イエス・キリスト》を、信じ受け容れようとはせずに、何処までも、モーセの教えの枠内にはまる存在か否かを確認し・・・それが彼等の、イエス様への関心事でした。ツァラートの浄めも、盲人の開眼も、聾者の癒しも、死人の蘇りでさえも、彼等の検証なしに、汚れた霊(悪しき霊)の仕業と、レッテルを貼り、民を、イエス様から遠ざけるように、画策したのです。 彼等は・神に忠実で、正しい選びの民の僕と、自認していたのです。福音の光を当てると、何とも滑稽極まりない姿ですね。 癒しも、奇跡も、栄光も・・・・福音の世界(神の国)では、『アーメン‼️』なのにですね。 彼等(パリサイ人・律法学者)は、モーセ・イザヤ・ヨナ・ソロモン・・・・に関しては、偉大な神の人と、認識(敢えて)していますが、これ等の歴史的偉大な指導者・・・神の人を、観てもないまま、受け容れ信じていながら、今、素晴らしい天の輝きに満ちた《しるし》を、目の当たりにしながらも、疑問視したり、言うに事欠いて、悪霊の仕業とまで酷評する・・・・とは、何と言う、怖ろしいまでの天に対する敵対行為でしょう。 しかし、今日も尚、私達も以前はそうであったのです。即ち、『信じられない・そんな事、昔の伝説・神が創造したなんて・自分の存在は・・・』等と、聖書を道徳倫理の最高のテキスト・・・としてしか、受け容れなかったのです。即ち、自分の理解と認識が最高の判断材料=神、だったのです。 イエス様はこの様な、人々の怖ろしい、神に対する敵対行為(意識)即ち、[罪]を、一つ一つ積み重ねるように担いながら、やがて、十字架の上で、『父よ彼等を御赦し下さい・・・彼等は何をしているのか、解らないのですから。・・・』と、祈られたのです。 何と言う執り成しの祈りでしょう。 主御自身が、全(総)ての・・父なる神(創造主)への反抗と、不信仰・汚れ・離反を代わりに担い・・・身代わりとなって、祭壇の子羊のように、贖い(身代わり)の死を遂げられたのです。 万民(過去・現在・未来)の(永遠=御国)の命の源と成られたイエス様は、今や、全ての民(あなた・私)の父で有り、母で有り、兄弟姉妹・・・神の家族なのです。そして、私達お互いの関係も、兄弟姉妹なのです、父母なのです。 アーメン‼️ |
| マタイの福音書 13章1節~17節 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。 13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。 13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。 13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。 13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。 13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。 13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。 |
2026年2月12日(木)リビングライフQT 有名な、種蒔きのたとえ話・・・❗ 今日はジックリ考え、御存じの方は、思い出しながら、黙想しましょう。 この喩え話は、明日に、解き明かしが成されていますから、お楽しみに。 今日のテキストの焦点を、10節からの記述に合わせて参りましょう。 「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか。」と言う弟子達の問い掛けに、主は、御国の奥義は、赦された者にしか知る(理解)事が赦されていないので、喩えで話して、《その真理を知りたい❗》と、心開いて聴こうとする者のために、敢えて、喩えで語るのだ‼️・・・と、主は御語りになられたのです。 人生の日々の中で、(創造主なる神)に、生かされている真理を求めてやまない、魂に対して、神は豊かに応えて真理の道を教え導かれます。 その様な魂を持つ者は、神の光の中に導かれて、豊かにされるのです。 しかし日常の煩い(問題)に、心削り果たしてしまい、魂の空洞を満たす、求道の道に、思いを向けない者には、神の切実な愛の迫りには無関心となり、魂の目も耳も、閉ざされて、御国の真理(永遠の命に至る道)からは、遠くなるのです。 旧約時代の最大の預言者イザヤが、彼の庇護者である、《ウジヤ王》が死んだ後、神がイザヤを、神のことばを託す預言者として召された時の、神のイザヤへの召命の言葉が、14節~15節の引用なのです。彼の預言はその後の、ユダ・イスラエル両国の歴史に大きな光となるのですが、民はその光を仰ぐことをせずに、偶像に走り、やがて滅亡していくのです。しかし、その預言の言葉が、今こうしてメシヤの到来となって、弟子達はその方のみ声を直に聴き、新しい時代への真理に導かれているのです。 こうして、今聖書を通して、私達も神の御言葉を読みながら、只、通読したら恵がある・・・まるで、アジアの仏教徒が、周る車(経車)を回したら、それで、お経を唱えたことになる・・・とならないように。聖書の御言葉を神からの、毎日の語り掛けだ‼️と、期待して、心開かれて今日の糧として、《聴く=学ぶ=黙想》する時、私達は魂の中に、神を迎え、豊かな知恵が与えられ、愛に富んだ日々が迎えられるのです。 16節~あなた方の目は見ているから幸いです。また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 13章18節~30節 13:18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 13:19 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。 13:20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 13:21 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 13:23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」 13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 13:25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。 13:26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。 13:27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』 13:28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』 13:29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。 13:30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」 |
2026年2月13日(金)リビングライフQT 昨日の種蒔きの喩え話の解き明かしが開かれます。 日本のお百姓さんは、畑を耕して、畝を造り、その盛り上げた畝に種を入れるくぼみを付けて、そこに丁寧に種を入れますね。種によっては、芽が出る方向を上にして、丁寧に植え付けますね。 しかしイエス様の時代のお話からすると、多分麦の種でしょうね。耕して、雑草を取り除いた畠一面に、種を握っては投げるようにまき拡げるのでしょう。日本以外では太古から、この様なやり方で種蒔きするのが描かれています。 ミレーの《種蒔き》も、その様な構図でしたね。 ですから、種の中には、道端まで投げやられたり、耕してない石地に飛び散ったり、茨や草の残った、耕されていない周辺にまで、飛び散った種があったのでしょう。 このお話は、蒔き方のお話ではなく、蒔かれた《種》の行く末のお話です。 ※種とは、神の御言葉です。 ☆ 道端に落ちた種は、人々が踏み固めた道なので、鳥(サタン)の眼について、直ぐに食べられてしまう。 ☆ 岩地とは、少しの窪みに土が在り雨上がりの湿り気が残っているから、直ぐ芽を出すが、岩だから根が張れない。日が昇る(試練の陽が当たる)と、たちまち焼け石となり枯れる。 ☆ 茨の中に落ちたとは、軟らかな土ですが鬱蒼とした草に覆われて、陽が当たらず、成長できない・・・✖ ◎道端⇒人に踏みつけられる(無関心にも踏み破壊される)・鳥がついばむ。(サタンが排除する) ◎岩地⇒直ぐに感激・感動するが、魂にまで取り込まないため、すばらしい感動・感銘は一度、困難や迫害が生じると、直ぐ醒めてしまう。(感動・感銘)は、感情の浮き沈みで、消えていく。 ◎ 藪(ヤプ)や茨(イバラ)の中に落ちた種 ⇒誘惑・心配事・困難や被害に遭うと、それに心奪われて、御言葉のタネは、埋没したまま、芽を出さなくなる。 何と、この世には、様々な誘惑や、危険や障害が満ちていることでしょう。 それはサタンが必死となって、人が《神のことば》に目覚めさせられることに、危機意識を持っているからなのです。私達は神の言葉に、必死で心を傾け、その御言葉を、耕してきた魂の畑に受け止めて、育んでいきましょう。畑を耕すのは、 《い ・の・り》・・・なのですね。 後半(24節~30節)の喩え話は、またまた、種蒔きの喩えですが、麦を蒔いた畑に妨げる者が来て、毒麦の種を蒔いて行った・・・と言うものです。何と怖ろしい。 御利益への道・一攫千金穂の誘惑・様々な誘惑(ご覧なさいTV・スマホ・噂・流行・時代の流れ・・etc.)⚡が、蒔かれた種の芽生えを妨げるのです 神の言葉・賛美・祈り・礼拝・聖徒の交わり・献身(福音に生きる)・・・ この様な畑には、神のことばは、力強く芽吹き成長して、30倍・60倍・100倍の実を結びます。・・・何故なら、《神の言葉》には命が宿っているからです。 (神)ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 13章31節~43節 13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。 13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」 13:33 イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」 13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。 13:35 それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」 13:36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 13:37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。 13:38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。 13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。 13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。 13:41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、 13:42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 13:43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。 |
2026年2月14日(土)リビングライフQT |
| マタイの福音書 13章44節~58節 13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。 13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。 13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。 13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。 13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。 13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、 13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。 13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」 13:53 イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、 13:54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 13:55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 13:56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」 13:57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」 13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。 |
2026年2月15日(日)リビングライフQT |
| マタイの福音書 14章1節~節 14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 14:2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」 14:3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 14:4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。 14:5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。 14:6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。 14:7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。 14:8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。 14:9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、 14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。 14:13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。 14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」 14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」 14:17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」 14:18 するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。 14:19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。 14:21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。 14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。 14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。 14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。 14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。 14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。 14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。 14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。 14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。 14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。 14:34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。 14:35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、 14:36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。 |
2026年2月16日(月)リビングライフQT |
| マタイの福音書 14章1節~節 |
2026年2月17日(火)リビングライフQT |