教会案内 説教動画 お知らせ・リンク 礼拝・集会 教会の歴史
 ローマ人への手紙 1 章1〜7節

1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
 2025年9月1日(月)リビングライフQT

今日から始まる、ローマ人への手紙。
当時ローマは、アジア、ヨーロッパ全域に支配権を確立した、大ローマ帝国の首都で、あらゆる人種の交流の、中心地でした。パウロのアジア・ヨーロッパへの伝道で、多くの教会が生まれたことから、そのクリスチャン達により、様々な事情によるローマへの移住・旅行等で、ローマにも教会(イエス様を信じる人の群れ)が生まれたのです。また、当然国際都市ローマには、ユダヤ人の町もあったので、ユダヤ教の群れもあり、両者の間に、宗教的摩擦も生じていたのです。
パウロはやがては、ローマにも伝道に行く思いも予定していたので、摩擦の沈静化と、正しい福音の教えを、必要に迫られて、書き送ったのです。
今日の冒頭のメッセ~ジは、端的に、福音の真髄を、表現しているので、書きぬいてみましょう。
2節~この福音は・・・
聖書にあらかじめ約束されたもので 
3節~御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫(預言の成就)から生まれ、
4節~死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
6節~・・・あなたがたも召されてイエス・キリストのものと成りました。
7節~ローマにいる全ての、神に愛され、召された聖徒達へ・・・・
※(ローマ)にいる・・・と書かれているところには、(この手紙を読む・・)と、書き変えても、良いのではないでしょうか‼️
今朝から、私達は、二千年の歴史の時空を超えて、パウロ先生から頂いた手紙を、しっかり読みながら、素晴らしい福音の真髄を学ぶ道へと、導かれていることを、日々感謝を持って、歩んで参りましょう。
 ローマ人への手紙 1 章8〜17節

1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 2025年9月2日(火)リビングライフQT

パウロ先生が、これほどまでに切実な思いで、ローマの教会の信徒達に会い、福音の恵を分かち合いたいと願うのは・・・
それは、単に、同信の友と交わり・分かち合い、親しく交流したい‼️と言う願望だけではないのです。パウロは、以前はイエス・キリスト様ー神の御子を信じるクリスチャン達と、エルサレム教会の、中心にあるイエス様の弟子達に敵対し、この新しい信仰集団を、徹底的に地上から抹殺しようと、迫害した人物だったのです。
当時のサウロ(のちのパウロ)はローマでも、ユダヤの一角で生まれた、メシヤ信仰(イエス・キリスト の新しい教え=福音)を、異端として、神の名によって迫害してきた、張本人だったのです。
そのパウロ(以前のサウロ)が、自らの恐るべき罪の償いだけではなく、自分の撒いた福音への、途方もない主張と迫害への徹底した間違い宣言と、今やイエス様の福音こそ、万物の唯一最大の真理であることを、宣言し伝えるために、ローマを始め、イスパニア(当時の地の果てと言われていた)に到るまで、行く責務を感じていたのです。
13節・14節・15節がその事を示唆しているのです。
この一連の教え(福音)は、信じる全ての(人)に《救いをもたらす神の力》なのだ‼️・・・と宣言するのです。
この《福音》こそ、神の義なのです。そしてこの福音が、あなたを《義》とし、信じる者に命の回復をもたらすのです。
《義人は信仰によって生きる‼️》
これこそがパウロ先生の教えの、大前提なのです。この福音を下敷きにして、これからの学びを、魂に刻んで参りましょう。
 ローマ人への手紙 1 章18〜32節

1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
1:22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、
1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、
1:27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
1:28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
1:29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、
1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、
1:31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。
1:32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。
 2025年9月3日(水)リビングライフQT

創造主(全能の神)を
   知らない
          忘れた
               信じない
  これが罪です
罪の結果が、あらゆる悪を生み出す原因となるのです。これが罪です。
何かと比べて、或いは基準から外れたから・・《罪》となるのではないのです。
繰り返します。神を知らない(信じない)こと自体が《罪》なのです。
20節に~神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られて、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
神は、幼子でも知ることが出来るようにと、御自身を明らかにされてこられたのです。
どうして人は、この様に神が御自身を明らかに顕されて来られたのに、鳥や獣や這うものに似たかたちと替えて、(山や、巨木や、奇岩や、洞窟)など、神秘感のあるものを神としてきたのでしょう。
この様な、歪んだ神信仰から、26節~31節に至るまで、列挙されたあらゆる悪と、罪と、欲と、無秩序が人類の歴史に拡がったのです。
今朝、私達はこの様な、人類史的、哲学的、宗教学的理解を共有しようとしているのではないのです。私達が今、主なる神をどの様に思い、また、思ってきたか・・・を、考えたいのです。
罪を避けよう❗    
罪に沈まないように❗
罪を忌み嫌おう❗
罪から遠ざかろう❗
・・・・・これが私達の聖書の信仰ではないのです。
創造主である御方、即ち、永遠の神を、永久に褒め讃えることを、全てとする信仰に、心捧げることが求められているのです。
 ローマ人への手紙 2章1〜16節

2:1 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2:2 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
2:3 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。
2:4 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
2:5 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。
2:6 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
2:8 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
2:9 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
2:10 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神にはえこひいきがないからです。
2:12 律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。
2:13 なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。
2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。
2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。
 2025年9月4日(木)リビングライフQT

今日のテキストは、《裁く・断罪する・非難する》と言う、人間関係に直結する、行為に関する問題点を、鋭くえぐった教えです。

これは当時の、ユダヤ教の律法学者・祭司・律法の教師・・・に有りがちな、宗教的摩擦・問題点の、教えです。イスラエルの民をモーゼの十戒を始めとして、ユダヤ指導者達は、多くの宗教律法を民に課して、その律法の定規で、民の全生活の監視をすることで、彼等の宗教的地位を、高め保持していたのです。
その実、彼等は律法の教師・指導者で在ることを傘に着て、民が宗教家(祭司・律法学者)を裁いたり、指差したりする事を、神の立てた指導者を、辱めることとして、逆に裁いたのです。
この様な、傲慢で権威(何の権威・・・❓)を傘に着た指導者達に、パウロ先生は、非常に厳しい言葉で断罪しています。
指導者達のその傲慢な心こそ、神の愛と赦しと慈しみを、踏みにじり、軽んじていると、4節には、厳しく指摘しています。
一人一人の心の姿は、その人と、神御自身との関係であって、その権威はユダヤ指導者に、委ねられているのではないのです。
6節には~神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
7節~忍耐をもって善を行い・・・⇒《善》を行う《忍耐》とは❓
世界(人の心)が、悪しき心に満ちているので、〈悪〉の中で《善》は覆われるからです。しかし神は、善を行う者には、《栄光と誉れと朽ちない永遠のいのち》を、与えられるのです。
神の御心に適う《善》を行う全ての者には・・・栄光と誉れと平和が与えられます。(10節)
さて、《律法》とは、いったいなんでしょう。
《律法》とは、神御自身と人との関係を示した(定規)です。神御自身が選ばれた、イスラエルの民にこれを与えて、やがて、全ての民へと、告げ知らしめる基準となるべき者でした。この定規に沿って、神に仕えるとき、自ずと[平安・慰め・喜び・感謝・感動・・・]が、存在を覆い神との交わりに、命溢れる恵みが、与えられるのです。
では、律法のない異邦の民には・・・・❓❓
パウロ先生は14節~15節に、《彼等自身・彼等の良心》が、彼等の律法だ❗と教えました。
それは、 ・・・・・・
最初の人が創造されたとき、神は、御自身の命の息を吹き入れて、《人は生きものとなった》と、創世記2章7節に記されている通りです。この、神の息‼️こそ、神と人との交わりの、命の繋がりなのです。
神の裁きは公正で、律法のある者にも、律法のない者にも、公正な裁きが下されるのです。
更に、今や、イエス・キリスト様による、十字架の贖いにより、完全な回復が約束されたのです。                     ハレルヤ‼️
 ローマ人への手紙 2章17〜29節

2:17 あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、
2:18 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、
2:19 20 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、
2:20 【前節と合節】
2:21 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。
2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。
2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。
2:26 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。
2:27 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。
 2025年9月5日(金)リビングライフQT

自らの人生の拠り所を持つ❗それは素晴らしいことです。
浮き草のように、風に押され流されて、時代の流れるままに、動いてゆく人生は、実りのない哀しいものですね。
所が、今日のテキストの中に描かれている、ユダヤ教指導者の姿は、確固たる拠り所と、民の評価に裏付けられた、彼等自身の誇り高い人生を土台として、安住していたのです。
    ☆律法 
            ☆割礼   
                     ☆ユダヤ人
と言う、アイデンティティーが、彼等の最大の誇りであり、これによって、一般民衆・異邦人を・・・罪人、汚れた者 として区別して、彼等に自らの権威を誇示していたのです。
私達、普通の生活の日々の中でも、会話を聞いていると(自らもその会話の中で)、より多くの経験と、見聞と、学歴と、家系・・・・を、謙遜めいた言葉ではあっても、自分を高める会話へと、発言してしまうことが有るのではないでしょうか。
考えてみると、それがどれほどの意味があるのか❓と、思いながらも、この様な性(サガ)から、解放されることの弱さを、感じさせられます。
ユダヤ教の指導者達の誇り、異邦人世界の中に生きるユダヤ教徒達、これ等は、この様な宗教的誇りと優越意識から、異邦人社会に溶け込まずに、孤立社会を築いてきたのです。
ユダヤ教指導者達が、エルサレムの中を、衣をなびかせながら、民衆が道を開ける中を、誇らしげに歩く姿を想像してみてください。
パウロ先生はこの様なユダヤ人指導者達の、隠れた生活の姿を暴露しながら、糾弾して、本当の神の恵みが何であるかを、証ししているのです。
パウロ自身も、それに気付くまでは、同じ道を辿っていたのです。
正しい道を知っていることが、偉い(権威)なのではなく、神の前に歩んでいる刻々が、尊く、潔く、正しいのです。それが神の選びとなるのです。‼️
神の前に歩む‼️
私達の、内に住み給う栄光の神‼️こそが、唯一最大の誇りなのです。
神の前に謙遜に歩む日々でありましょう。

わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
              創世記17章1節  
 ローマ人への手紙 3章1〜8節

3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。
3:2 あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。
3:3 では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
3:4 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。
3:5 では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。
3:6 決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。
3:7 では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。
3:8 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。
 2025年9月6日(土)リビングライフQT

今日のテキストは、まるで哲学書を読んでいる様な複雑さですね。
昨日、ユダヤ人のアイデンティティーとして、律法・割礼・選びの民・・・・と、列挙しましたが、この様な特別な神からの至福のアイデンティティーを頂いているのに、彼等は、その特別な賜物を、却って神の聖さと、真実な御存在を、汚したのではないでしょうか❓
(この様な非難・反論を受けるのではないだろうか。) ・・・と、人々の疑惑を先取りして、ここに提示したのです。
            しかし
パウロ先生は、たとえ、その様な疑念があっても、神の真実が、人の歪んだ心から出る、悪しき思いで、汚される事はない…と詩篇51篇を持って反論するのです。
『それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます』
   (詩篇 51篇 4節)

人間(罪人)の罪と汚れが、神の聖と義を侵す(妨げる)のであるとすなら、何と言う矛盾ではないでしょうか。
                        
パウロ先生のこの様な弁証の後、当時のユダヤ教徒達の中で、とてつもない詭弁を持って、[善をもたらすために悪を行おう] と語る者がいたようです。実に愚かな言葉です。
この様に、ローマの教会の信徒達に書かれた手紙に、この様な論理を展開しなければならなかった・・・と言うことは、
福音の発祥の地、地中海の東の端エルサレムから、西の端にあるローマ・・2500km以上
(陸路では3700km)
も隔たった地で
福音が歪められるということに、強い危機感を持って執筆したことがうかがわれます。
この様な事情の下で書かれた、この書簡の持つ重要さは、異邦の民、日本、又、二千年という、異教と罪の歴史を重ねた、私達の時代に読むのは、より重みを持って、考え理解させられる、大切な学びの書と言えます。
その様な意味でも、さらに思いを込めて、祈りと黙想のもとに、理解を深めたいですね。
 ローマ人への手紙 3章9〜20節

3:9 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。
3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
3:13 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
3:19 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
 2025年9月7日(日)リビングライフQT

ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、独特の規律(律法)と、それに基づく生活指針に従って、忠実に生き(生活し)ている。
人として生まれた者が、しっかりとした規範(それが神から授かった律法ならば尚更)に沿って生きるのは、尊敬に値します。
しかし、その生き方は,完全でしょうか。即ち、神が由とされる者となれるでしょうか。
この問いに、問いかけされたのが,《良きサマリヤ人》の たとえ話です。
 (ルカ福音書10章
     25節~37節)
律法に生きてきた祭司・パリサイ人・・・は、なぜ、神に受け容れられないのでしょうか。
これこそ、神の福音の原点が語られている福音そのものです。
即ち、律法は《愛‼️》
そうです、其処に全てが集約されているのです。
律法に生きる者には、
☆義人はいない
☆神を求める者はいない
☆善を行う者はいない
☆欺き・呪いと・流血と破壊と悲惨がある。
ある国の大統領が、従来から有る政府機関の《国防省》を➡《戦争省》に変える・・・と、宣言しましたね。これが福音派のクリスチャンだと、自認している有り様です。
この様な自己誤認しているのは、自分の中に在る《自己義・正義感》なのです。
17節・18節~
☆彼等は平和の道を知らない。
☆彼等の目の前には、神に対する恐れがない。
結論は・・・正しさ(義)は、神の愛に包まれた状態に在る‼️
と言う姿なのです。
律法は、罪の意識(自分が如何に罪深いか・神から遠いか・・・)を、知るための指標でしかないのです。
その(自らの)実態を知った時、初めて❗イエス・キリストが十字架の上で『父よ❗彼等を御赦し下さい‼️彼等は何をしているのか、解らないのですから』と祈られたのが、自分のためだ・・・‼️と知ること(信じる事)が出来る時、そこから新しい救いの道が拓かれるのです。
律法は、それを守った・・・❗と言う実績のためにあるのではないのです。守ろうとすればするだけ、守れない自分の弱さ、不完全さ、偽善者ぶりが露呈する・・・・
哀しいかな、そうなんです。
だからこそ、イエス・キリスト様(神の御子=子なる神)の、私のための身代わり(贖い)の死による、罪の赦しが、永遠の門を開く、唯一の鍵(道)なのです。
今日❗新たにこの事実を受け容れ、イエス様の前に跪きましょう。
  ローマ人への手紙 3章21〜31節

3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
3:26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。
3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
3:28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。
3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。
 2025年9月8日(月)リビングライフQT

神の義が示された(21節)この出来事‼️
神は《義》なる御方ですから、その《義》が示された・・・と言うことは、御自身を・・・誰に示されたのでしょう。・・・・・・
他でもない、罪人である私達人類に対してなのです。
しかし、人類は既に罪に汚れ、神の愛の前に立てる者ではなくなっていたのです。
この様に、御自身の全存在を注いで、永遠の(命)を分与し、御自身と共に生きる(永遠の交わり)者とされたのです。この御計画は、神御自身の永遠の営みを、共に分かち合うべく、存在させられた(人)だったのです。
今や神の義に背いた、罪人に対して、神の前に永遠に出られないばかりか、神の怒りの対象となった私達の前に、御自身の義の輝きを顕して、私達を包み癒し回復されようとしておられるのです‼️
それが21節の『神の義が示された』ということばなのです。
『神の義が示された』と言う意味は、その《義》の恵みの中に、私達を招き入れる為なのです。
言い換えるなら、創造の栄光に回復させてくださる‼️と言う、祝福の始まりなのです。
この驚くべき御計画を、22節に『イエス・キリストを信じることによって、信じる全ての人に与えられる《神の義》です。』と、書き記しているのです。
24節~神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して価なしに義と認められる・・・
28節~人は律法の行い(一般的には良い行い)とは関わりなく、信仰によって義と認められる・・・
異邦の民の集まる、ローマの群れの信徒達は、在住するユダヤ教の信徒達の主張する、数千年来の厳格な神からの律法が、そんなに簡単に無視されるべきでなく、寧ろ、律法を護ることが、神に近付く唯一無二の道だと、異教徒達に教えていたのです。ですから今日のテキストのような、複雑な文章の展開となったのです。
最後にパウロ先生は、
律法は無効にはならない。むしろ、信仰によって、神に義と認められるなら、そこからの歩みは、神の義に包まれた、完成された、《愛》と《聖》と《義》に満ちた、歩みが始まるのです。こうして、《神の義》が明らかにされるのです。
と、語っているのです。
 ローマ人への手紙 4章1〜8節

4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
4:4 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
4:5 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
4:6 同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。
4:7 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
 2025年9月9日(火)リビングライフQT

神の前に《義》とされる(認められる)。この事は、神が人を創造されたとき。御自身の命(いのち)➡️《愛・聖・義》そして《永遠性》・・・即ち、神と瞬間・瞬間を、共に・・永遠に共有(この様な表現が、神学的に正しいか否かは解りませんが、私達の言葉で表現することが赦されるなら・・・)して頂ける・・・と、言うことなのです。
実はこの姿(存在感)こそが、神の人間創造の、真意なのではないでしょうか。
《義とされる》・・・とは、そういうことを意味しているのです。
神の前に責められるところのない者とされる‼️・・・それが《義とされる》と言う意味であり、この神との交わりには、誰も妨げるものは無いのです。
サタンがこぞって、彼を責めようとも、イエス・キリスト様、神の御子による十字架の贖いの死による赦しと救いを信じた者は、最早、サタンの手の及ばない神の恵みの中に生かされているのです。
ハレルヤ‼️
イエス・キリスト様の十字架の支配、歴史の中の1ページで顕された出来事ではありますが、永遠なる御方(神の御子イエス・キリスト)の業ですから、時間経過を超えて《永遠》の業となリ、信ずる人全てを、包み込む愛なのです。
あなたはそれを信じますか‼️❓
信じましょう。
信じ続けましょう。
その中から、
《愛と赦し》が
《義と輝き》が
《聖と喜び》が、 
信じた者の内から輝き出すのです。
ですから主の僕(クリスチャン)は、創造主なる神と、御子なる十字架の贖い主イエス・キリストと、魂に語り掛け、新たに義の力を注がれる聖霊なる神を、礼拝することを、命の源として大切にするのです。
七日毎に巡ってくる聖日(日曜=イエス様の甦りの朝)は、その信仰の証しの時なのです。
恵みの時なのです。
☆7節~幸いなことよ、
不法を赦され、罪を覆われた人たち。
☆8節~幸いな事よ、
主が罪をお認めにならない人。
ハレルヤ‼️ア~メン‼️
 ローマ人への手紙 4章9〜17節

4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、
4:10 どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。
4:11 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、
4:12 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。
4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。
4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。
4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
4:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
 2025年9月10日(水)リビングライフQT

ユダヤ人・・・彼等自身は、この呼び名‼️  そして、他の人々を、〈異邦人〉と呼んで、自分達と区別し神に選ばれたアブラハムの子孫である・・・としての徴(しるし)として、割礼にこだわった意識に伝統を築き上げてきたのです。
彼ら(ユダヤ人)は、その徴こそ、アブラハムが神から《義なる者》として、受け容れられ、それを継承してきた者‼️・・・として誇り、この事実を、自分達の最大の《アイデンティティ》として、守り続けてきたのです。
パウロ自身、復活のキリストに出逢う前までは、正に、その様に主張する、旧ユダヤ人だったのです。
しその最も急先鋒であっだサウロ゙が、どうして急転直下、イエス・キリストの足下に平伏す僕となったのでしょう。
それは、サウロ自身が自らの〈義〉をもって裁いて来た、゙イエズが、神の義を汚したものとして裁かれて、十字架上で死を受けたのだと信じて、[甦った]等と偽って宣伝する、クリスチャン達に、鉄槌を下し、その行動を、(義)の証しとしてきたのです。
所が、クリスチャンへの迫害途上で、死から甦られたイエス様と、その御声を聴いた時、自らがしがみ付いてきた(義)が、如何に愚かな(自己義)であったか・・・と気付き、神の御子イエス・キリストの前に平伏したのです。
その時から《義》は、アブラハムの子孫に与えられたのではなく、神の御子イエス・キリストを信じる信仰が《義》と認められるのだ・・・この信仰・教えこそが、唯一無二の《福音》であり、救いの真理だ‼️と、語り始めたのです。
そして、この福音が、その後今日まで、全地球世界(人類)に、歴史を超えて、語り伝えられてきたのです。
多くの宗教が、良い行いをしたら天国に行ける❗・・・と、教えますが・・・何が良い行いなのでしょう。
☆自分の思いが・・・
☆社会の求めが・・・
☆道徳が・・・
☆国の利益が・・・
喧嘩・衝突・反目・そして・・・戦争は、この様な相対的《義・良識・正義・正しいとする認識・・・》から生まれる対立が、人類の悲惨を産んできたのです。
ユダヤ人の歴史も、キリスト教国の、ヨーロッパの数百年に亘る戦争も、間違った《義》の基準から生じてきたのです。
真の《義》は、イエス・キリストの十字架の身代わり《贖い》の死によって顕された、あの祈りに導かれることなのです。
『父よ❗彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』
ルカ福音書23章34節・・・・・この、神の御子イエス・キリスト様の、死を持って、私達の贖い(身代わり)となられた事実を、《私のためだ❗》と、信じるとき、信じた者が《義》とされるのです。
そこから、《愛》と《聖》と《義》に適った、輝く生活が、愛と赦し、聖さ、正しい業・・・が、溢れてくるのです。
この姿こそ、《義》とされた証しなのです。
常にイエス様の元に身を置き、礼拝し主の御言葉に従う日々に、神の義に覆われたあなたの日々が築かれるのです。
クリスチャンの捧げる礼拝は、御自身のいのちを代わりに注ぎだして、身代わりとなられた、神なるイエス・キリスト様への感謝と、信仰の告白を、常に新たに感謝し告白し続ける、証しなのです。
少し、ロマ書本文から離れた記述となりましたが、御赦し下さい。
 ローマ人への手紙 4章18〜25節

4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
 2025年9月11日(木)リビングライフQT

改めて、『信じる』と言う事は、何を教えているのでしょうか。
『信じる=信仰』という行為を、別な言葉で表すと➡・・・
☆信頼する    
    ☆期待する   
        ☆待ち望む
            ☆選択しない
                ☆価値ある道
少し強引な列挙になりましたが、他の言い回しにすると、
      《ただ一つの道》
これが、(信じる道)なのです。この様に考えると、その道は、絶対の《唯一の価値ある道》即ち、絶対者である、創造主なる神の、与えられた《道》に、他なりません。
今日のテキストには、その事を次のような言葉で、語り掛けています。即ち、アブラハムの信仰を通して、彼の信仰を明らかにし、信仰の“何たるか❓”を、
示しているのです。
書き出してみましょう。
18節~望み得ない時に
   望みを抱いて信じ・・・
19節~彼は、およそ百   歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいる(子を産めない体になっている)ことを認めても、その《信仰は弱りません》でした。
20節~神の約束を疑う様なことはなく、かえって《信仰が強めらて》《神に栄光を帰し》
21節~神には約束したことを実行する力があると、《確信》していました。
※だからこそ、『彼には、それが義と認められた』のです。
主なる神 [創造者である《神》] から、・・・・《義》と認められた‼️のです。
24節~主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、《義》と認められるのです。
何と言う、驚嘆させられる、《福音》なのでしょう。
今一度、テキストの最後の節を記載して、今日のメッセ~ジの締めくくりと致しましょう。
25節~主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに(十字架の)死に渡され、私たちが《義》と認められるために、よみがえられました。
ただ、ただ、魂が恐れおののきながら、平伏して、感謝するばかりです。  ハレルヤ‼️
 ローマ人への手紙 5章1〜11節

5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。
 2025年9月12日(金)リビングライフQT

《神と罪人との和解》
今日の聖書テキストは、古今東西、全人類への、神の和解のメッセージなのです。
人類(神の創造の最後の傑作)こそ、神の愛と聖と義とを、一つに集約して、『人』としてこの創造世界に、お創りくださったのです。所が、“人”は、神との信頼関係『愛・聖・義』をいとも簡単に破棄して、神の栄光の世界から、暗闇(死)の世界へと転落したのです。
神に背く・・・それは、神の栄光の外の世界〈闇〉への転落を意味しています。
人(人類)の営みは、全てこの闇の中での営み へと、包み込まれたのです。
勿論、人類は、神の像(カタチ)に似せて創られたのですから、愛と善と命を内に留めています。しかし、それらは、相対的、限定的で、御互い(人と人との関係)の中での、バランスを取るための基準を超えず、互いの中!に・・・赦せない・・・自己義・・・敵対・・・隠れた内なる汚れ・・・これ等とバランスを取りつつ、社会生活(衝突回避の)を、維持するのです。
それが一旦、持ち堪えられなくなると、対立関係・抗争・分裂・戦争・・・へと、雪崩れ込むのです。今、私たちは正に、この抗争(戦争)を、目の当たりにしているのです。
今年は終戦(敗北)から80年を迎えた我が国の、新しい時代への岐路に立った年です。
もう、あの様な戦争は二度としてはならない・・・と、肝に命じる年ですね。
しかし、私の、あなたの、魂(心)の中には、他に対する、濁った心はないのでしょうか。
大量殺戮や、残酷な敵対心だけが戦争ではなく、心の中で・・・・
あの人は居なければ良い
あれだけは、あの人だけは赦せない
自分などいなくても良い
消えてしまいたい・・・
こんな思いが渦巻いた人生を、歩むのでしたら何と悲しいことでしょう。
創造主なる神が、人を御創りになられたのは、神御自身が、人と交わり、喜びと、感動とを、永遠に共有したいと願われたからなのです。
神の歓びは、一人一人に共有される慶びと、感動と命となって、永遠を生かされる恵みに与るはずだったのです。
今の、あなたの私の魂(心)は、この輝く宝を持っていますか❓
憎しみ・自虐的思い・反省・赦されない悲しみ(恐怖)・死への恐れ・・・・
この様な濁りに苛まれながら、人生を生き、やがて、濁ったまま、咎(トガ=罪)を負ったまま、死の世界(人は俗に地獄と言う)へと、行くのです。
あぁ、何と悲しく心痛む人生なのでしょう。
良い行いをを積んだら・・・と、自らを慰めても、『何が良い事(え?)  誰が判定するの(何)』
唯々不安と、不確かさに恐れを拭えない人生・・・ですね。
この様なあなたの、私の人生に、福音(良い知らせ)が語られたのが、今日のテキストなのです。
ローマ人への手紙
               5章1節~11節
聖書本文を開いて、何度も何度も読み返してみてください。
テキスト本文は、今日は解説いたしません。あなたが読んで、主なる神に更に理解と知恵を頂くために、祈りながら繰り返し、繰り返し読み、座右の銘として下さい。
イエス・キリストの十字架上の『祈り』と『死』は、歴史の流れの中の出来事ではなく、神の人類への《和解》のメッセージなのです
     《十字架上の祈り》
『父よ❗彼等を御赦し下さい。彼等は、を何をしているのか自分で解らないのです。』
   ルカ福音書23章34節
 ローマ人への手紙 5章12〜21節

5:12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
5:13 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
5:14 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。
5:15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。
5:16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
5:18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。
 2025年9月13日(土)リビングライフQT

✴罪の源となったアダム(イブ)
☆命の源と成られたイエス・キリスト

最初の人アダムとイブ、彼等が罪の始まりを拓いたのです。善悪の知識の木の実を取って食べた・・・それが罪の始まりではないのです。
アダムとイブの創造者である神の《ことば》・・・・➡️・・・・
『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった 』 ヨハネ1:1
 即ち、最初の人が神の言葉に背いた。(禁断の木の実を取って食べた・・・)この行為が《罪》となったのではない。
罪は・・・神のことば(神御自身)に背いた(違反・無視・反逆)したことなのです。単なる、欲に惹かれた、出来心ではないのです。
人は、モーセの時代まで、この罪のDNAに引きずられて、ずっと(神に背く)罪の中を歩む歴史を重ねてきていたのです。
時至って、神はモーセを通して、(全人類に)律法を与えて、義の道を明らかにされたのです。
ですから、律法によって、今までは各自の魂の中で、判断されていた義と罪が、律法により明快な客観的判断となって、自覚し神の前に違反(責められる事実)と成ったのです。
しかし、主なる神は、御自身が創造され、愛を注がれてきた人に対して、断罪をするために、律法を与えたのではないのです。
律法を与えられた時から、主なる神は、明らかにされた《罪=罪人》に対する、救済の道を、同時に明らかにされたのです。
これから先に出てくる聖句ですが・・・
『罪の報酬(報い)は死です。しかし神の賜物は私達の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです』ローマ人への手紙
       6章23節
と印されている様に、神は断罪とともに、救いの道も明らかにされたのです。
18節~一人の人の違反によって全ての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によって全ての人が義と認められ、命を与えられます。
20節~・・・しかし罪のまし加わるところに、恵みも満ちあふれました。
21節~それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。 
     ア~メン
 ローマ人への手紙 6章1〜7節

6:1 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
6:2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
6:5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
6:7 死んだ者は、罪から解放されているのです。
 2025年9月14日(日)リビングライフQT

      ☆死から命へ☆
罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(5章20節)
この一文だけを見ると、正に、今日のテキスト冒頭の(恵が増し加わるために私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか・・・?)
全くの、詭弁(ごまかしの論理)ですね。
何故なら、[罪] と (恵) とは、無縁・異次元のもの、言い換えるなら、[罪]はサタンの世界[暗闇] であり、(めぐみ=光)は、神の国 なのですから。
イエス・キリスト《十字架の死の贖い》により罪赦された者には、最早、《死》の世界は、異次元の世界となったのです。以前の世界に戻るなど、全く愚かなことです。
イエス・キリストにある、新しい(命の)日々は、同じ人生ではありながら、新しい命の道を、歩み始めたのです。その道は、神の御国へと続く、永遠への道に繫がっているのです。
どうして後戻りできましょう。一度しかない日々です、悔い改め以外には、転換点のなかった道です。
イエス・キリストの十字架の贖い(身代わりの死)を信じることは、キリストの死と同じように罪の故に死んだのです。
そして、同時に、キリストと共に、復活に与り、イエス・キリストと共に、新しい命に生きる者となったのです。
この御方を見上げつつ、今日も、進んで参りましょう。ハレルヤ‼️

※『悔い改め』
と言うと、私はそんな、悪いことしてきたのだろうか❓❓・・・・と、多くの人が、反省と、振り返りの思いで立ち止まるでしょう。
そして、多くの方が、『私はそれ程、悔い改めなければならない程、悪いことはしてないがなぁ❓』
悔い改めとは、相対的に、自覚するほどの罪に対する懺悔・・・を指しているのではないのです。
ただ一つ、全ての《罪・悪・邪・穢れ・妨げ・・・》の根源となっている・・・・
創造者なる《神》を信じない・魂に迎えていないと言う、現実です。
これこそが、諸悪の根源・・・と、なるのです。個々の罪に対してではなく、神が人となられて、愛と救いの道を拓かれた、イエス・キリストを、神の御子・救い主‼️と信じる時、神の命の中に包まれて、救われるのです。罪の悔い改めとは、イエス・キリスト様に繫がれることです。 
 ローマ人への手紙 6章8〜14節

6:8 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
6:9 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
6:14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
 2025年9月15日(月)リビングライフQT

使徒 パウロ 先生は《死》と《生》について、大変珍しい論理を展開しています。実はこの論理(説明)は、福音そのものなのです。一般的・生命学的・生物学的・・・死生観ではなく、創造論と福音的視点から論じられるのです。
即ち、《生と死》は、有限な時間の狭間の中で理解したり、論じられたりするものではなく、信仰の世界観・・・即ち、神と神が創造された人との関係の中で、《死》とは、罪により人が、神との関係を分断されることなのです。即ち、神との関係の全てを断たれることを意味し、人類一人一人に、神との断絶を明らかにすることなのです。
そこでパウロは、
今日のテキストで・・・・
神に創造された《人 》が、神から離れて(自分勝手な罪の中)生きて来たために、《死》の世界に踏み込んだのです。身体(命)は生きていても、最早、人は死に定められた時を、身体の寿命が尽きるまで、地上での生活を生きているだけで、永遠は、死に定められているのです。
そこでパウロは・・・
罪の中に生きてきた、私たち罪人が、・・・私たちの罪のために死んでくださったお方《イエス・キリスト》を信じる時、私たち罪人は、イエス様の十字架の死を通して、イエス様の栄光に包まれて、主イエス様の甦りと共に、永遠のいのちに、包まれるのです。その様に信じる私たちは、最早、暗闇と死に呑まれることなく、復活の日を待つ、希望に生きる者とされるのです。
この様な約束が、イエス・キリストを救い主として信じ仰ぐ人生に、与えられているのです。死も裁き(審判)も恐れるものではなく、永遠の朝の甦りの希望に生きる者とされたのです。
ですから、私たちの日々の生活と、与えれた身体とを、義の道具として、神に捧げる日々を、大切に致しましょう。
来るべき日(永遠の御国に入る)のために‼️
 ローマ人への手紙 6章15〜23節

6:15 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。
6:16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。
6:19 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
6:21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
 2025年9月16日(火)リビングライフQT

人間は、・・・神に創られた・神の命の中に生きる者とされた・・・永遠のめぐみに包まれた、存在なのです。
この様な栄光に満ちた[存在]とされた私達を、創造してくださったお方《創造主=神》の愛に包まれて、義と聖に満ちた栄光の営み・交わりの只中に、置かれた存在になるはずでした。それなのに今の私(達)は、何と言う汚れた世界に生きているのでしょう
惨めさと、申し訳なさで、魂が千々に砕けそうです。
しかし、創造主なる神は、私達神から離反した罪人を、こよなく愛し惜しんで、私達の、神への反抗(離反=罪)を、徹底的に亡ぼす(消去)ために、御子をこの世に送りました。イエス様は私の・あなたの罪を負い、身代わりとなられて神からの罪の刑罰(裁き)を、お受けになられたのです。
十字架のみ苦しみを自ら負われて、罪の刑罰を代わりに負ってくださった、この神の愛を、私の罪のため‼️・・・と信じる時、私達は神の内に迎えられ、永遠のいのちを、創造時の状態に、回復してくださるのです。その様な意味で、信じる者は、再創造に与ったと言えるのです。
ハレルヤ‼️
この様な栄光に与った者が、どうして、再び罪のくびきに繫がれるはずがありましょう。
この事を信じる者は、罪の奴隷から解放されて、《義の奴隷》と なったのです。どうして、又後戻りして、罪の道へと行くことが出来ましょうか。
(自動的に、義の道に歩めるようになる・・・というのではありませんが…)
《義の奴隷》となるために、私達は、主イエス・キリストを信じ・信頼し、この御方の前に、喜びと感謝に満たされて、歩むことが出来るのです。
22節~罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に到る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
23節~罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
《奴隷》と言うと、何だか陰惨で、険悪なニュアンスに聞こえますが、主人次第ですね。アンクルトム物語で、トムが仕えていた主人は、素晴らしいクリスチャンで、トムを、友として遇していました。物語は、奴隷制度時代のアメリカを描いた作品です。奴隷制度への強い批判的物語で、非人道的人間の暗黒を描いたものです。
パウロが、罪の奴隷として描く、この箇所は、まさに人があるべき姿から、自らの意思で奴隷と死の道へと歩んできた姿を、えぐり出しているのです。
23節の締めくくりをもう一度読んで、祈りましょう。
23節~罪の報酬は死です。
しかし、神の賜物は、私達の主イエス・キリストにある永遠のいのちです。
 ローマ人への手紙 7章1〜6節

7:1 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。
7:2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。
7:3 したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。
7:4 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。
7:5 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。
7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 2025年9月17日(水)リビングライフQT

律法(ユダヤ教の信仰戒律➡モーセの十戒に端を発する)は、人の魂に食い込み、神の聖さと愛と正しさを侵犯する、悪《罪》を、明らかにし、そこから身を守るための、魂の善悪の境界線なのです。

この律法を護ることがユダヤ教徒の人生でありました。
それを侵犯したときには、懺悔(告白)と悔い改め、犠牲の捧げ物(燔祭)をもって祈り、魂を立て直す‼️これが神の前に歩む、民の信仰でした。
このユダヤ教のしきたり・教えをベースにして、今日のテキストは語られています。
総じて言えば、律法の下に在れば、律法の奴隷(支配されている)となり、しかし・・・・
律法の元(下)にあるはずの私達(ユダヤの民)が、律法から解放されると、最早、律法の元に支配されない自由人として、人生を生きて行けるのです。 それを現実にして下さったのが、神の御子イエス・キリスト、救い主なのです。
何故なら、私達(ユダヤ人も含めて、すべての罪人の罪を一身に受けられ)  私達の身代わりとして、全ての罪の支配から、私達を解放してくださったのです。この事実を信じ受け容れ、『イエス・キリストは、私の救い主』と、信じる時、あなたは・私は、キリストのもの(神の子の奴隷=義の奴隷=愛と聖と義に生きる者)と、されるのです。
その事を、パウロ先生は、次のように語っています。
☆6節~しかし、今は、私達は自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれ(解放され)ました。その結果、古い文字(律法の教えの箇条)にはよらず、新しい御霊(聖霊によって与えられた福音=神の言葉=聖書)によって、仕えているのです。
、仕える➡➡深く従順な意識を持って従う・・・今日も明日も、この神の愛の中の、自由に従う喜びに充たされて、歩み続けて参りましょう。
 ローマ人への手紙 7章〜25節

7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、
7:10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
7:12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、
7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 2025年9月18日(木)リビングライフQT

➡律法と罪の相互関係⬅
今日のテキストは、罪と律法の関係について、パウロ先生は、丁寧に解説しているのですが、分かり難い面もあるので、別な角度から解説を試みてみました。
神は創造された人に、神の御性質=御本質《愛・聖・義=永遠の命》を、お与えになりました。この時点で人は、神の善なる御性質の中に生きる 者とされました。しかし、人は、その限りない自由を逸脱して、サタンの声に心傾け、神の御言葉(神の愛の警告)に叛いたのです。
その時以来、人は神の御心に叛くことにより、裁きを受けることを知りながら、内なる欲望(自立・自己中心)との戦いに明け暮れる歴史を重ねました。その結果は、罪に打ち勝てないばかりか、敗北と、神の裁きの《死》  の 宣告の中に生きることになったのです。
しかし、人の中には《神の像》が残っているので、その[良心]から、主なる神に向かう善の心で闘いながら生きてきたのです。その人の営みの中に、神は時至って《律法》を与えられたのです。
この律法により、人は明確に[罪]を知ることになったのです。人は、この律法により、内なる欲望が罪の温床だと知るのですが、それに打ち勝つことが出来ずに、かえって、罪が深く侵入し、魂を死へと、追いやったのです。
律法は、神からの賜物で、人を神に近付かせる、ステップとなるものでした。しかし、律法だけでは、人の魂の戦いの勝利の道を拓くものではなかったのです。律法の警告を受けた人が、罪に定められ、ただ、死を待つばかりの悔いと、絶望の縁に立つばかりなのです。神は、人の魂の叫びに応えて、イエス・キリストによる、勝利の道を拓かれたのです。
この良き知らせを、パウロはこの様に、語っています。
25節~私達の主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

即ち、肉に属する身体は、罪を明らかに(警告・断罪)する律法に仕え(支配され)てはいるが、この私の心は、神の律法・・・イエス・キリストにある永遠のいのち・・・に仕えているのです。
    (ローマ書6:23)

最後に、律法は、その律法の元に歩む人を、神の光の下に照らし出し、更に永遠の義の道(神の命の道)へと導きだし、イエス・キリストの 十字架の贖いの道へと、導かれたのです。それ故、律法は永遠の命の道への、最も大切な道標(みちしるべ)となったのです。
 ローマ人への手紙 8章1〜11節

8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
8:8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
8:9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
8:10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
8:11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
 2025年9月19日(金)リビングライフQT

一大宣言 : 『キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』
ハレルヤ‼️
この1節の宣言は、福音の中心であり、頂点なのです。
ただ、日本語の弱みですが、「キリスト・イエスにある者が」・・・と言う言葉は、日本人の信仰(宗教)観から、誤解されやすい言葉です。
日本人の宗教観は、゙信仰゙と言うと、信じ仰ぐ➡自分の決断(自らが゙よじと決めて・・・)そちらに心を向ける・・・⬅   ゙主人公゙は本人であり、自分で決めた方向(お方)と、成るのです。
キリスト・イエスにある・・・と言う意味は、キリストの内に在る(住む)‼️と言う意味なのです。即ち、イエス様の只中に包まれている‼️と言う状態(関係)を、指しているのです。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が(別訳では・・いのちの御霊の゙法則゙)が、罪と死の律法(法則)からあなたを解放したからです。
これは、イエス・キリスト様が、十字架上で、身代わりとなって全ての罪人の罪を、負って下さった‼️と言うことなのです。
4節の《律法の要求》とは、律法の求める《義》のことです。イエス・キリスト様の、身代わりの死が、信じるわたしたちに《義 》を、もたらした・・・・と言うことです。
そこで、私達がイエス・キリスト様に従って生きるとき、御霊なる神(聖霊)が、私達のうちに住んで(宿って)私達を、義の道へと導き続けてくださるのです。
即ち、御霊(聖霊なる神)によって、私達のやがては死ぬべき体を、生かして下さるのです。(11節)
御霊が内に住んで下さる・・・と言う経験は、特別な神秘的、経験ではないのです。御霊により私達に賜った、『聖書』の御言葉を信じ、従う事なのです。御霊なる神が私達の中に住まわれるとは、聖書の御言葉を(に)信じ従うことなのです。
8章11節・・・を、もう一度、聖書を開いて読み、祈りましょう。‼️
 ローマ人への手紙 8章12〜17節

8:12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
 2025年9月20日(土)リビングライフQT

私達人間は、肉なる(罪に蝕まれた)身体・・と・・神の像(カタチ)に似せて造られた霊の身体(魂)の、相矛盾する存在の中で、闘いながら生きています。
しかし、どちらを主にするか・・・? その選択権は、私達自身にあります。その選択は(生)か (死)か、
二者択一なのです。
(生)➡は、罪赦されて、神の子とされたことを信じて、神の恵に生きる人生‼️
(死)➡は、肉なる感覚を喜び・宝・生き甲斐・・・として生きる人生
私達は、この二つの人生の土台(生)か(死)かの狭間に生きているのです。当然死を望む人はいないでしょう。
肉に従って生きるその結果は(死)なのですから、考えねばなりませんね。
しかし、私達を愛し、御子の死による愛と赦し、を顕してくださる、《御霊》に導かれて生きる時、私達はいのちの道《永遠》の恵みの中に導かれるのです。
14節~神の御霊に導かれる人は皆、神の子供です。
あなたの人生は、この世にあるいのちの日の限りが、全て(終わり)では無いのです。復活と永遠が用意されているのです。
16節~御霊御自身が、私達の霊(罪贖われた霊=魂)と共に、私たちが神の子供であることを証して下さいます。

私たち神の僕=クリスチャンの人生は、(良い人生を送る)と言うためのものでは無く、神のいのち(永遠)に生かされるという、神の目的に適った、神の永遠の御国の完成のために、この命は相続されたのです。
   ハレルヤ‼️
 ローマ人への手紙 8章18〜30節

8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
8:30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
 2025年9月21日(日)リビングライフQT

18節~今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
今の時の苦難は・・・・
今祝福の絶頂の中に在る人にはこの呼び掛けはどの様に聞こえるでしょうか。
今、私たちが、ローマ人への手紙を通しての学びは、《今=現在》と言う、限定された時間を指しているのではないのです。
創造主なる神が、最高の存在として、《人》を神の創造世界の万全な栄光の中に置かれたのです。しかし、現実には、罪を犯して、死・病・苦難・憎悪・悲哀・孤独・・・と言うような、神が意図されていない、悪しき世界に呑み込まれてしまったのです。
その様な中で、神はなおも、被造物世界(人類と彼らを取り巻く、自然界の美しさ、季節毎に巡ってくる、神の被造物の醸し出す、美の極み)を、人類の悔い改めと聖めによる、新たな関係を通して、創造本来の、調和と美の極みを、回復しようと、完成の御計画を、進めようとしておられるのです。
被造物世界(自然界の輝く栄光)を、罪許された人の世界と調和しようと、御業を進めて居られるのです。
罪が赦されて、神の子とされた私たちは、現実には、人類の罪の歴史の中で、破壊と不調和と、バランスの崩れた自然界に、新たな調和と栄光を回復するために、罪に崩れた人の魂に、新たな赦しと回復を、御計画されたのです。
被造物のうめき、壊された秩序・・・は、人の罪故なのです。
そればかりか、罪赦されて、御霊の豊かな聖めと慰めとを受けた私たちも、神の創造の完成を待ち望む者とされたのです。今に至るもなお、昨今の世界情勢、私たちの国の、混乱、ニュースを賑わす、残虐な出来事と、人の心から失われた、愛と慈しみ・・・TVも、新聞も、スマホニュースも、目を覆うばかりですね。神の恵で新らしくされた私たちは、正に、完全に贖われること(完成されること)を、切にうめきながら、祈り求めていますね。2000年前のパウロ先生の時代さえ
今の時代はかくも乱れた苦悩に満ちた世界ですが、26節~30節を読むと、やがてあがなわれる事の約束への確信の故に、未完成の時代の流れの中で、栄光と、喜びが溢れるほど満たされているのです。
今の[時=時間]にとらわれていると、一喜一憂し、最早信仰ではなく、利害で成り立つ関係に堕ちてしまいますね。
信仰は、今の状態にではなく、やがて完成される時の素晴らしい約束を信頼して、待ち望むのが信仰です。
そうすると、今の状況には、何も影響されずに、常に感謝と、期待と、完成への待ち望みで、心の内が満たされるのです。
それが30節の、宣言です。ア~メン‼️
 ローマ人への手紙 8章31〜39節

8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
8:37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 2025年9月22日(月)リビングライフQT

今朝のテキストを読み黙想し、もう一度読み直して、一言一言かみしめながら読んでいると、不安や恐れや、不確かさから来る、心の揺らぎが、いつの間にか消え去っているのです。十字架のイエス様の深い深い眼差しが、降るように、そのみ顔から注がれているのを、感じられたのです。

普通、私達は、自分の弱さや、失敗や、罪の深みにはまってしまったことに、心痛めたり、反省したり、後悔する事が、赦された方への対応だ・・‼️ とさえ、思ってきたかも知れません。その様に自分のふがいなさを、意識することが、赦された者の在るべき姿・・・だと思いやすいのです。
今日のテキストの何処に、反省と懺悔と心の自粛とを、良しとしているでしょうか。今日のテキストは、イエス様の十字架の、み苦しみと、《完全な》贖いの業の持つ意味とを、重ね重ね示しているのです。
もう一度、心注いで読んでみてください。その中から、光り輝く言葉を書き出してみましょう。
☆31節~神が私たちの味方であるなら・・・
☆32節~私たち全てのためにご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が・・・
☆33節・・・神が‼️《義》と認めてくださるのです。
☆・・・キリスト・イエスが、・・・私たちのために、とりなしていてくださるのです。
☆35節~だれが私たちをキリストの 愛から引き離すのですか?…
☆37節~私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的勝利者です。
☆39節~・・・・・どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。
何と言う宣言でしょう。
どうして私たち土塊のような罪に汚れた、魂(存在)を、この様にまで過剰に思われるほど、赦し・護り・保護し・覆われるのでしょうか。
それは、
創世記2章7節
『神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。そこで人は、生きものとなった。
この行(くだり)は、神の人間創造で一番大切な、メッセージなのです。
《鼻から命の息を吹き入れた》
      ➡《命の息》➡
この息・・・とは❓
神の命《永遠》なのです。
この《いのち》が罪故に、(死)に堕ちたのです。それを復興するために、主なる神が今、連記した、想像もつかない、御業をもって、復興してくださったのです。
これが救いです。
主の僕は、主が拓いて下さった《救いと完成の道》を信じて力強く生きて参りましょう。
              ハレルヤ‼️
 ローマ人への手紙 9章1〜13節

9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、
9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
9:5 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。
9:6 しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。
9:7 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。
9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。
9:9 約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」
9:10 それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。
9:11 その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、
9:12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。
 2025年9月23日(火)リビングライフQT

パウロは、同胞に福音を語るとき、彼らの神の民としての自負心や魂の頑なさに深い悲しみを感じるというのです。

ユダヤ人達は・・・・
☆アブラハの子孫だ!
☆神から律法を与えられた。
☆神との永遠の契約の民である・・・と言う自負心。
☆厳格な律法の厳守と、厳かな儀式・・・
これがユダヤ人の誇りでした。
パウロはこの様な誇りや権威に対して、憤りを感じるほど、嫌悪しているのです。
☆イサクは、奇跡の子(百歳で生まれた)ですが、奇跡の子だから、素晴らしい・・・のではなく、アブラハムが神からの約束を信じたから、祝福の子なのです。

イサクとリベカの間に生まれた、双子の兄弟(エサウとヤコブ)のことも、家系を継ぐ・・・と言う流れからだと、エサウが継承者になるはずでしたが、エサウは早くから、世俗の道へと離れていきました。古代社会の慣習からすれば、有り得ないことですが、予め神から告げられていた、二人への神の御計画を、イサクとリベカは、しっかりと信じ、ヤコブを育てたのです。常識・慣習・ではなく、信仰と神様の導きに、心注ぐことが、如何に大切か、それが福音の歴史を築いて行くのです。

私達の信仰生活は
、立派な行いの積み重ねによる、証しが、実となるのではなく、神への信頼を貫く信仰こそ、祝福の実となるのです。
             ハレルヤ‼️
 ローマ人への手紙 9章14〜24節

9:14 それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。
9:15 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
9:16 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
9:17 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」
9:18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。
9:19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」
9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。
9:24 このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
 2025年9月24日(水)リビングライフQT

ローマの信徒達は、インテリが多かったのでしょうか? 
ユダヤ教改宗者が、沢山いたのでしょうか???
いろいろ理屈をこねて、パウロに質問・反論を切り返したのでしょう。
彼らは、福音の主導権を、パウロに奪われ、支配されたくなかったのでしょうか・・・・?
所が、パウロは、反論では無く、神の御思いの事実のみを、伝えています❗
15節~モーセは、神の御言葉を伝えていますね。
『わたし(神)はあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。』
16節~ですから、これは、人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
この様に答えながら、出エジプトの前の、モーセ・アロンとファラオ(エジプト王)との交渉で、10回にも亘る国家的災いが、エジプトの民に下ったのは、神の裁きなのではなく、ファラオの身勝手(自己中心的)な行動によるもので、神よりも自分を高めるための、愚かな行動だったのです。
(ローマ人への手紙
     1章24節)
私たち罪人は、しばしば、自分の生活・人生に、様々な不利(貧しさ・病・突然の災害・・・・)が、襲ってくると、不安で魂が一杯になり、神に不平と不満を、ぶつけたりしてきました。
その最も愚かな、不平は「どうして(神は)私をこの様に造ったのか…」
造られた者が造ったお方に、このようなことが言えるのでしょうか。
21節に、「陶器師は同じ土のかたまりからあるものは尊いことに用いる器に別のものは普通の器に作る権威を持っていないでしょうか」・・・
22節~23節・・・・を読み直すと全く言葉を失います。ただ平伏して
     ア~メン‼️と、
叫ぶばかりです。
神の寛容が、まぶしいばかりに私達を包んで下さっていることが、分かってきます。
ただただ、神の主権の前に、平伏すばかりです。
  主に栄光あれ‼️
 ローマ人への手紙 9章25〜33節

9:25 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。
9:26 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。
9:28 主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」
9:29 また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」
9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。
 2025年9月25日(木)リビングライフQT

『救い』って、何でしょう。今、聖書(ローマ人への手紙)が語っている《救い》とは、何からの救いなのでしょう。また、今私が求めている《救》とは、何なのでしょう。
今まで学んできた私達ですから、それが、病、貧しさ、孤独・・・と言ったものからの解放が方法や努力や学びを持って、克服できることではないことは、お分かりでしょう。勿論、人生の行程で、幾度も行き詰まり、挫折してきた私達は、常に《救い》を願ったり、意識したりはしてきたでしょう。
しかし、今学んでいる聖書の学びで新たに目覚めさせられる《救い》とは、私の存在、即ち《永遠への救い》なのです。
これこそ、神に創造された神の《御思い》即ち、永遠の命への回帰なのです。言い換えるなら、神の像(カタチ)に似せて創られた、存在としての(私)への回復《救い》なのです。
25節に、ホセア書を引用して・・・神が『わたしの民でない者を[わたしの民]と呼び・・・』即ちこれこそ《救い》なのです。創造主なるお方が、[わたしの民]と呼んで下さる‼️・・・
罪深い私達をです。これこそ《救い》の宣言なのです。
26節~わたしの民ではないと言われた場所で
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。
27節~・・・・たとえ、イスラエルの子らが海の砂のようであっても
残りの者だけが救われる。
30節~義を追い求めなかった異邦人(私達)が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

31節~イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その義の領域に到達しませんでした。
32節~なぜでしょうか。信仰によってではなく。行いによるかのように追い求めたからです。
《救い=創造者なる神への復帰》
それは、人の最大の努力、義の行いにより、神の認証を得ようと・・・どれほど多くの人が、努力を重ねてきたことでしょう。
神から直接与えられた律法でさえ、祝福と完成には繋げられなかったのです。
それは、人が自らの行い(その行いは確かに正しく、愛に満ち、人の理想を目指した、義ではあった)は、罪人同士の営みの中で高水準ではあったでしょう。
しかし神の示されたものとは、異次元のものだったのです。
神が求められたのは、ただ一つ、神が語られた約束を『信じる』事でした。
ユダヤ人にとっては、やがて来たるべき御方(メシヤ)・・・この御方によらなければ、律法のいかなる定めにも、達し得ない自らを思い、罪の赦しのために来られる、メシヤを待ち望む《信仰》が、求められたのです。
イスラエルの民は、律法を守る(実行する)ことで、神に帰る道が開けると思ったのです。
救い・御国への帰還・創造者なる神の御許に繫がる・・・その道は・・・
この方(メシヤ=約束の救い主イエス・キリスト)に信頼する者は失望させられることはない。
この御方に信頼して、信じ讃美し、この御方の福音を常に読み黙想しながら、来るべき日を待ち望みましょう。
 ローマ人への手紙 10章1〜13節

10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
10:4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
10:5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10:8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

 2025年9月26日(金)リビングライフQT

来た!来た❗来た‼️
遂に、パウロ先生の福音神学の、中心が一気に開かれました‼️
その結論的御言葉(宣言)は、13節の
『主の名を呼び求める者はみな救われる』
主の名➡️メシヤ・救い主イエス・キリスト
名を呼ぶ‼️とは、イエス・キリスト様を、救い主(罪の贖い主)として、告白する‼️と言うことなのです。
神は、他のなにものをも、私達罪人にお求めにはならないのです。
これが、福音神学の全てなのです。
初めに戻って、みましょう。
1節~パウロの神への切なる祈りは・・・あれだけ反論され、迫害を受け、伝道の妨害を受けながらも、パウロ先生の心から消えないのは、彼らの《救われる》ことへの祈りなのです。何と言う愛でしょう。
4節~律法が目指すものばキリスドです‼️
何と言う宣言でしょう。
パウロ先生が祈ってやまない❗と言ったイスラエルの民(ユダヤ人)が、この御方を十字架につけて殺したのです。
この御方が彼らの救い主だ‼️と・・・・。
この御方を信じる者が、《義》と認められるのです。
9節~・・・もしあなたの口でイエスを《主》と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる・・・

これが福音の真髄であり全てでもあります。
今日のテキストは、何度も読んでみて下さい。特に、9節~11節は心の内にしっかりと刻んでください。
10節
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11節
この方に信頼する者は失望させられることがない。
この御言葉だけが、永遠の救い(創造者なる神の命への回帰)なのです。
   ア~メン‼️
 ローマ人への手紙 10章14〜21節

10:14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
10:15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
10:18 では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。
10:19 では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者たちであなたがたのねたみを引き起こし、愚かな国民であなたがたの怒りを燃えさせる。」
10:20 また、イザヤは大胆にもこう言っています。「わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」
10:21 そして、イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」
 2025年9月27日(土)リビングライフQT

永遠の命への福音(良い知らせ)は、どの様にして、伝えられ、届けられたのでしょう・・・❓❓

『福音』を、パウロは次のように表現をしています。
☆信じたことのない『方』・・・・
☆聴いたことのない『方』・・・・
と、「人」として歩まれた、《ある方》と示唆して言葉を続けていますね。もう、お分かりですね。この御方がどなたであるか❓
そうです。神の御子、《イエス・キリスト様》なのです。この世に、
☆アブラハムの末として
☆ダビデの血筋の王として
☆メシヤ・救い主として、多くの預言者によって語り告げられてきた、約束の《メシヤ》として・・・来られ、語られた素晴らしい音信を、良い知らせを伝える人達の足の運びによって、ユダヤ人を始め、全ての民に、届け(伝え)られた・・・あなたの所にまで、福音を届けてこられた(福音を運ばれた)足‼️
パウロ先生は、絶賛していますね‼️
あなたもその足になってきたのです。
又これからも、その力強い足になれるのです。あなたの運ぶ福音が一人の方の人生を滅びから、永遠の命へと、引き上げられると言う神の御計画の尊い一翼を担わせて頂けるのです。
この様に考えると、福音を届ける(伝道)・・・という働きが、どんなに尊い働きかが解ります。殉教・迫害・反対・無視・仲間外れ・・・どの様な反対に遭遇しようとも、哀しく辛い思いをしても、一人の友が・家族が・滅びから命へと引き揚げられたら、全ては喜び一色に変えられます。
今これを読みながら・その様な経験をされたことを、あなたも思い出された事でしょう‼️ハレルヤ‼️
更に、福音(良き訪れ)は、伝え聞いた❗と言うことは、伝わった・・・で完了ではなく、聞く(聴く)と言うことは、キリストの言葉に出会い、キリストに《聴く》ことなのです。・・・こうして・・・
20節~「わたしを探さなかった者たちに
わたしは見出され、
わたしを尋ねなかった者たちに
自分を現した。
・・・ユダヤ人は、熱心に尋ね求め、熱く心燃やして探し求めたのです。
しかし、結果、キリストを十字架に付けて、自らのために開かれた・永遠の命の道を、自ら断ったのです。
それは遣わされた預言者の声を聴かなかったからでした。
憐れみ深い神は・・・
21節~「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」
今の時代、教会は、神の選ばれ、いつくしまれる民に、伝える足となったのです。
イスラエルの救いのために、祈りましょう‼️
 ローマ人への手紙 11章1〜節

【11:1 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。
11:2 神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」
11:4 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」
11:5 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。
11:6 恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。
11:7 では、どうなのでしょうか。イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは頑なにされたのです。
11:8 「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。
11:9 ダビデもこう言っています。「彼らの食卓が、彼らにとって罠となり、落とし穴となり、つまずきとなり、報いとなりますように。
11:10 彼らの目が暗くなり、見えなくなりますように。その腰をいつも曲げておいてください。」
 2025年9月28(日)リビングライフQT

非常に厳しい言葉で、パウロ先生は、心悼みながら、イスラエルの民の神への不従順と不信仰を、糾弾しています。

ローマにある教会のユダヤ人クリスチャン(ビリーバー)に対してではなく、一般論として語っているのです。ですから、この手紙が読まれるる時、教会のメンバーとなっている、ユダヤ人達は、改めて自分達が、赦されて、愛されて、選ばれて今在る・・・と言う事実に、ある意味、異邦人クリスチャン達以上に、深い感動を味わっていたのではないでしょうか。
エリヤの時代に、不従順なイスラエルは、バアル信仰に流れた殆どのイスラエルの離反の中で、神はエリヤに
『わたしは、わたし自身の為に、男子7000人を残している。これらの者はバアルに膝をかがめなかった者たちである。』…と語られました。
イスラエルにしても、異邦の民にしても、神は私達を選ばれたように、深い御計画を持って選ばれたのです。唯々、愛の神・主の選びに心傾け、ひたすらに、主の御名を呼び求め、主に全存在を向けて参りましょう。
 ローマ人への手紙 11章〜24節

11:11 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
11:12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。
11:14 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。
11:17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。
11:21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
11:22 ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。
11:23 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。
 2025年9月29(月)リビングライフQT

今日のテキストは、ヨハネ福音書15章の『わたしはまことのぶどう の木であり・・・』以下の様に、ぶどうの木と枝、そして・実を結ぶ枝・実を結ばない枝・・・の、喩えを思い出させます。
ここでは、ローマ教会の異邦人クリスチャンと、現在ではビリ-バーと呼ばれる・ユダヤ人クリスチャンについて、語られています。
それは昨日も学びましたように、神に選ばれたイスラエル即ち、ユダヤ人が、選ばれた民❗と言う優越性から、
神からの真実(福音)を、求めようとせず、いたずらに、異邦人クリスチャンに、律法の遵守を説いたり、自分達の優位制を誇ったりしていたのです。
そこでパウロ先生は、オリーブの木とその枝の喩えを通して、自分の民に迫るのです。即ち、異邦人は、選ばれていない・野生のオリーブで、喜ばれることのない、取るに足りない者・・と、しているが、
その野生種のオリーブの枝が、神の栽培種の幹に接ぎ木されて、豊かな実を結んできたのです。
それを観て、あなた(選びの民=イスラエル)が接がれた異邦人の枝が・豊かな実を結んだからと言って、イスラエルが誇れるものではないのです。豊かな実を結ばせたのは神の御計画の幹に繫がれたからなのです。・・・・と。
ですから誇るのはよしなさい。イスラエルが、更に頑なになるならば、その枝は刈り取られて、棄てられます。イスラエルがもっと、素直に求めたなら、もともと、命の元木に連なってきたのだから、もっと豊かな実を結ぶはずです。
即ち、信仰・・・そして豊かな実を結ぶ生涯があるのです。本来の民なのですから。
パウロ先生は、選ばれたイスラエルの民(クリスチャン)に対して、神の選びはこうして・全ての民に行き亘ったのだから、感謝を持って、同胞への神の御計画に目覚めて、御子の前に帰るように‼️と、語っているのです。
この迫りは・他でも無い、私達の豊かな信仰生活への、原則でもあるのです。元木(神の命と愛)に、今新たに・しっかりと繋がり結ばれて、いのちの恵を、豊かに頂きつつ、友を・家族を主に結ぶ働きに更に用いられますように。
 ローマ人への手紙 11章25〜36節

11:25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
11:28 彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。
11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
11:31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
11:32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
11:33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
11:34 「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。
11:35 だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」
11:36 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 2025年9月30(火)リビングライフQT


2025年度 
4 5 6 7 8 9 10 11 12 1 2 3

力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
          (新改訳聖書2017)
    

北九州シオン教会

 2022年度 2023年度  2024年度   2026年度