
力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
(新改訳聖書2017)
北九州シオン教会
| マタイの福音書 9章1節~13節 9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。 9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。 9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒?している」と言った。 9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。 9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。 9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。 9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。 9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。 9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 |
2026年2月1日(日)リビングライフQT 再びカペナウムに帰ってこられた。 2節~7節の記録は、マルコの福音書2章1節~12節の記事と同じ記録ですね。マルコの福音書では、室内は人で入れないので、屋根の覆いを剥いで、天井からつり降ろした・・・と、リアルに記録されています。 何れにせよ、自分で求めても、自らの足では主の御許に行けない人を、こうして連れてきた・・・と言うことは、素晴らしい事態の展開の、きっかけと成ったのです。 《イエスは彼らの信仰を見て・・・》と、記録されています。 この言葉(記録)は、見過ごしにしてはならない、この物語の大きなポイントです。 《彼らの信仰‼️》 ☆それは、この病む人への「愛・友情」心悼めて、心がしっかりと結ばれていた。 ☆この切なる思いを、イエス様が解決(癒し)して下さる・・・‼️ この切なる思いが数人揃って、一つとなって、行動に結びついたのです。 考えとみると、この一致した愛と、心の悼みと、信仰の一体感は、正に《愛》そのものですね。 主イエス様は、その全ての姿《信仰》を観られたのです。 最初に主イエス様が語られたのは・・・・ 『子よ、しっかりしなさい・あなたの罪は赦された‼️』 ここには記されてはいませんが、このお言葉は・この病の人には、完全な解放=救い❗となって・魂から身体全体に、赦しと愛が駆け巡ったのではないでしょうか。 この部分の、文語訳聖書では『子よ。心やすかれ。汝の罪赦されたり‼️』です。 このお言葉は、正に私の中学三年の卒業式を終えた後、死よりも恐ろしい、神の裁きと・罪の重圧に打ちのめされた、私の心と体を駆け巡った・御言葉なのです。あの日、私は救いを確かな者と実感して、今日が在るのです。 律法学者達は、この言葉を聴いたとき、 神の他、罪を赦す権威を持つ方はいないと・心に怒りを持ったのです。 この言葉は、教条的には、正しい判断でしたでしょう。 しかし、彼らは最大の罪をここでおかしていたのです。 イエス様が神の御子(神)であることを否定したのです。 最大最強の罪は、イエス様を《神=神の御子》と信じないことなのです。当時の神学者を自負する・律法学者が・・・です。 恐らく主がその後でこの病む人を立たせられた時、彼らは驚ろいたことでしょう。しかし、この後の流れを観ると、イエス様を神と信じるのではなく、返って、否定し主の働きを妨げ・遂に十字架にまで・・・・・ ところが、群衆はイエス様を、神の権威によるお方だと信じたのです。 後半は、当時、[取税人・罪人]と、ランク付けされ汚れた人、とされたマタイが・罪赦されて・イエス様の弟子とされたことを喜んで、弟子達や・取税人仲間を集めて・感謝の宴を設けると・・・ あの・イエスが取税人や罪人と、食事の席を共にしている・・・と、軽蔑したのです。 しかし、その実・この宴席は・祝福に満ちた・赦された罪人の歓びに溢れていたことでしょう。 解説抜きに・聖書本文を再録しますので・繰り返し読んで・黙想し、祈りましょう。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。』とはどういう 意味か、行って学びなさい。わたしがが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 |
| マタイの福音書 9章14節~26節 9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。 9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。 9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」 9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。 9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。 9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。 9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。 9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。 9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26 この話はその地方全体に広まった。 |
2026年2月2日(月)リビングライフQT 次々繰り広げられる、癒やしの御業‼️ 14節の(ヨハネの弟子)・・・とは、バプテスマのヨハネ→(メシアを指し示すために立てられた最後の預言者)を、指しています。 パプテスマのヨハネも又、イエス様を偉大な方・・・だと、民衆に紹介しましたが、 彼自身は、未だイエス様が、メシヤだと、完全に知っていたわけではないことが、後のテキストに出て来ます。 (11章2節~6節) ですからその弟子達は、依然として、律法中心の働きに従っていたのです。 この問い掛けに、イエス様は、 暗黙のうちに、その理由をヨハネに伝えるように、喩えで語られたのです。間もなく、ヨハネは捕らえられて、殉教の死を遂げるので、明らかにはされなかったのです。伝統に捕らわれずに、神の時を読むように・・・と。 16節ー17節・・・・は、その事を人々にも明らかにされるために、今や新しい時が、拓かれたのだから、伝統や、しきたりに捕らわれずに、心を新しい恵みの時に切り替えて、今拓かれる福音・神の御業(奇跡)を、魂にしっかりと刻むよう に・・・。 私達は、聖書を学ぶ(読む)とき、気付かないうちに、学んできた知識や、身に付けてきた、常識、感覚で、聖書を読んでいると、中々受け容れられない感情を待ったことはないですか。 そんな事❓ 昔のことだから・・・❓ 2千年前の出来事・・・❓ 文脈を読み取れば良いのでは・・・❓ 聖書は、宗教書だったり、歴史的記録だったり、世界のベストセラーだから・・・・NO(no) 《聖書》は、神の言葉なのです。 神の創造の御計画の中で、全ての人類に語り掛けられた、《神の言葉》なのです。ですからあなたが読まれる時は・・・『主よ❗あなたからの御言葉を戴きます。私の魂に語り掛けてください。魂にあなたの御思いを教えて下さい。‼️』と、祈って読んでみましょう。その訓練を重ねましょう。 21節⇒何と、秘かな、しかし大胆な発想の信仰でしょう。これこそ、信仰‼️の独創性ですね。 ① 内なる切実な願い ② イエス様への独創的な求め(接近)・・・ 私達日々の営みの中で、あなたのイエス様は、何処に居られますか・・・‼️ この女性は、多くの群衆の中で、自らを、雑踏の中の一人とは考えていないのです。彼女の目は、イエス様と自分だけしか見えていないのです。これが信仰の極意なのです。 イエス様は彼女に『あなたの信仰があなたを救ったのです‼️』と仰ったのです。何と素晴らしいお言葉を戴いたことでしょうね。 18節・23節~26節 今や、この出来事は、確かに驚くべき奇跡です。 しかし、創造主でいまし、罪の贖いのために、命を与えるために来られたお方なのですから、この少女の上に起こった奇跡は、不思議な出来事ではなく、《福音》そのものなのではないでしょうか。ハレルヤ‼️ 主を賛美します。 |
| マタイの福音書 9章27節~38節 9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。 9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。 9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。 9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。 9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。 9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。 9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。 9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。 9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。 9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 |
2026年2月3日(火)リビングライフQT マタイの福音書を、こうして読み進んで行くと、イエス様に大きな声を掛けて近付いて来る、人々の言葉に、主は即座に❗向き直り、即座に❗御声を掛けておられる姿を、記録しています。そこには(その描写を通して)主に声を掛ける人の、ストレートな思い・主への呼び掛けが『ダビデ』の子よ‼️・・・この呼び掛けは《メシヤ=救い主》‼️・・・との呼びかけと、全く思いを一つにする、信仰の告白なのです。 ただ、見えるように成る・・・‼️・・・と、願う以上に、今や、彼等の内には、メシヤ❗神の御子❗に触れられる・・・・そんな途方もない願いに魂が昇華されて、主イエス様に向かっていたのではないでしょうか。 今まで観てきた・・・ ☆病・患いを癒やし、 ☆ツァラ-トを浄め‼️ ☆盲人を見えるようにし ☆中風の者の癒やし ☆良き音信(福音)を伝え・・・ ガリラヤ・ユダヤ全域に、その噂や影響は、瞬く間に広がって行きました。 その現場には、2000年前の状況下ではありますが、真っ暗な人生を生きる盲人、音も情報もない中で生きる聾者、 生ける屍とレッテル貼られたツァラートの人々・・・・ それらの人々(社会から隔絶された民)の中から、輝き出す信仰と神への光り輝く言葉の告白が飛び出したのです。《ダビテの子よ‼️》この告白こそ知恵や観察や理解からではなく、イエス様の中に《神の御子》を観た者だけが叫ぶ事が出来た告白だったのです。 あなたが、今、罪赦された主の弟子なら、同じ様に、《我が主❗我が神‼️》と、勝利の叫びを、主に向かって献げられるのです。 ハレルヤ‼️ 何故❓ くよくよするのですか 何故❓ 心つぶれる様な愚痴に沈むのですか 今一度、あなたを罪の汚れと腐敗の中から、命の日々に引き上げて下さったイエス様を、主と仰いで、光の中に飛び出しましょう! イエス様は更に・・・(36節~38節)に、刈り入れを待つ多くの傷ついた魂の待つ世界に、眼を注いで祈りなさい‼️と、語られています。 今や、終末の切迫した時代の、刈り入れの時なのです。 今日の教会(それはあなた‼️)に、迫られている、緊急事態なのです。 主よ❗今ここに私がいます。 遣わして用いてください‼️ |
| マタイの福音書 10章1節~15節 10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。 10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。 10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。 10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。 10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。 10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。 10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。 10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。 10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。 |
2026年2月4日(水)リビングライフQT ★福音宣教への派遣 12名の弟子が選ばれました。主は山に入られ夜を徹して祈られ、主に従ってきていた人々の中から、福音に仕える12名の《使徒》とよばれる弟子を選ばれました。 彼等が、これからの、神の国の福音を託す、土台となる人材です。 ペテロ・アンデレ・ゼベダイの子ヤコブ・ヨハネ・ピリポ・バルトロマイ・トマス・マタイ・アルパヨの子ヤコブ・タダイ・熱心党のシモン・イスカリオテのユダです。 主イエス様は、彼等を選ばれて言われた言葉の意味は何だったのでしょう。 『異邦人の道に行ってはいけません。又サマリヤ人の町に入ってはいけません。』 これは、先ず、福音は、二千年以上に亘るイスラエルの歴史の中で、人類の救いとなる《メシヤ》は、神の選びの民イスラエルから出る‼️・・・と、語り伝えられてきた、神の摂理と御計画が有るからです。 主は、彼等に、『天の御国(神の備えられた永遠の御国)が近付いた』と語り、病の癒し、死人の蘇り、ツァラートの癒し(きよめ)、悪霊の追い出し・・・等の権威を授けられました。 神からの権威と、力と真理の言葉の力強い結果が、委ねられたのです。その為に、この12人の使徒達は、全生活が、普通の日常の営みではなく、神の拓かれる導きのまま、食べることにも、着ることにも、休む(寝る)事にも、心と思いを使わずに、与えられるままに委ねること。 弟子達を受け容れる人々(家)には平安と祝福を祈り、語る福音を拒む者には、さばきの徴として、足の塵をはらいなさい。 この指示(足の塵を払う)は、そのまま今の私達の働きの中で再現してはなりません。 これは、主が強く、神の国の現れを顕し示すために、特別な御計画の中で、顕された指示ですから、日頃の宣教活動の中で、実行するものではありません。 1972年~1978年に亘って、毎年、沖縄の伝道の応援に行っていました。その中で、北部の金武シオン教会開拓の応援に行った時、故長澤忠雄先生の指導の下、今朝のテキストの弟子達のように、トラクトによる戸別配布伝道で、お弁当を持たずに、トラクトだけ持って、午前10時出発、午後三時終了して教会集合。昼食を招かれたら遠慮なくいただく。しかし、お招きがなければ、そのまま続行・・・その様な申し合わせで、祈りながら出発しました。沖縄の暑い夏です。私は東海岸沿いの集落を、幾つも幾つも配布したり縁側に座り込んで、福音をお話ししたり、愉しかったです。いつの間にか沖縄北部の辺野古から具志川まで来ていました。(その距離は20km近くなります)何と、2回もお食事に呼ばれていたのです。一緒に参加した他の方の中には、食事なしの方も居ました。でも皆輝いて、喜んで証しを携えて、帰ってきました。私は、20年前に大病を患って、その後、足が不自由になるまでは、教会牧会しながら、過疎地域での、訪問伝道を40年以上に亘って、戸別訪問配布伝道をしてきました。 私の使命は、牧会以上に、過疎地に住む人々に福音を届けることに、大きな喜びを感じてきました。 イエス様は、使徒達に、福音の働きは、全ての創られた者に、福音を届けることだ‼️と、教えたのです。 これが福音の働きで、教会堂や、教会という組織を築き上げることではないことを、教えられたのです。 この原点の訓練が、初代教会の爆発的拡大となったのです。 今、私達には教会が在ります。礼拝や祈祷会や、様々な催しが、開かれます。 しかし、私達の原点は、出て行って、福音を語り生活することです。 主に遣わされる日々でありましょう。 |
| マタイの福音書 10章16節~33節 10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。 10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。 10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。 10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。 10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。 10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。 10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。 10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。 10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。 10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 |
2026年2月5日(木)リビングライフQT 《只お一人怖れるべきお方》 更に、弟子達を遣わすために語られる、主のお言葉は続きます。 語られている対象は、選ばれた12人の弟子達(将来ば使徒゙と呼ばれた)への教えです。 しかし、今学ぶ私達にとっては、特別職のように理解している、《使徒職》に対する教えではなく、始めて福音を聴いて、主の僕(弟子)となった、最初のクリスチャンへの、教えなのです。 即ち、今までサタンの支配する暗闇の生活から、光の主、神の新しい創造世界に生きるための、基盤となる価値観と生き方への、教えなのです。 私達は、福音を信じて新しく生きるに当たって、そこは天国ではなく、今までと変わらない、悪の霊の支配する、この世・・・なのです。言い換えれば、私達は、この12弟子と同じように、狼の中に、羊を送り出すようにして、あなた方を遣わします❗(16節)と、言われたような状況なのです。 魂の内には、輝く光と、何者も破壊することの出来ない、新しい義の世界が拡がっているのです。そんなあなたが・私が、現実に生きる世界と日々は、暗闇に覆われた世界なのです。日々の報道に観るような・・・・ 何が善で、何が偽なのか、何処に光があるのか・・・・常に意識しながら祈りと、神のことばに心を傾けなければ、光の道を見失ってしまうような日々です。 そういった日々の中に生きるためのイエス様からの、手引き書なのです。一節・一節解説すると、膨大になりますので、大切な言葉だけを書き抜いてみましょう。今日のテキストは、繰り返し読んでみましょう。 16節~蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 19節~心配しなくても良いのです。話す(弁明する)ことは、その時与えられるからです。 20節~話すのはあなた方ではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなた方の父の御霊です。 22節~最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 26節~(迫害する者)彼等を恐れてはいけません。 27節~わたしが暗闇(祈りの黙想の中)であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。 28節~・・・たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。たましいもからだもゲヘナ(審判の地獄)で滅ぼすことが出来る方を恐れなさい。 29節〜31節 ・・・雀の一羽でさえ、あなた方の父の赦しなしには地に落ちることはありません。・・・・ 恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 32節〜33節・・・誰でも人々の前でわたしを認めるなら わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 ・・・・の前でわたしを知らないという者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 32節~33節は、最後の審判を彷彿とさせますね 今や、御子の到来と贖いにより、全く新しい創造世界の完成の、時が開かれ始めたのです。 今私達は、その新しく贖われた世界に、踏み出していることを、深く思いながら、今日も祈りつつ主の導きを仰ぎながら、歩みを進めて参りましょう。 |
| マタイの福音書 10章34節~42節 10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。 10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。 10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。 10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。 10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。 10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」 |
2026年2月6日(金)リビングライフQT 今日のテキストは、昔から、わたしの苦手とする箇所です。・・・・・と申しますのは、主イエス様を信じたことで、家族と敵対関係になったり、家族の中での親密(愛情)関係が、変わってくるような、イメージで語られているからです。リビングライフのテキストを、毎日読んでこられた方の中にも、「ウンウン」と頷かれる方も、今も居られるだろうと思います。 日本国は、来週の水曜日(2月11日=建国記念日)を前にして、しきりに、新聞紙上・スマホの情報欄に、また、TVの報道番組に、CMの画面に、《神国日本》の字が躍り、天照大神初め八百万の神々の物語が、話題に上ってきています。 まるで、これが『日本の国体‼️』とばかりに、改めて国民にアピールしています。その様な中で、教会は・クリスチャンは、外国の宗教・文化・習慣を持ち込んで、国土は侵略しなくても、日本人の心(精神)を、文化を、信仰心を・・・即精神文化を、侵略してきた・・・と、今でも激しい反目と敵対心を持って、暗黙の挑戦をしてくる傾向があります。 江戸時代の切支丹迫害時代から、どれ程多くのキリスト教徒が殉教し、主の弟子が家族から切り離されたり、解消を迫られたりしてきたことでしょう。400年に亘るイエス様を主と仰ぐ信仰に、鉄槌や刀や、火攻めや、社会からの追放や、仲間外れ・・・等々の迫害を受けながら、何十万何百万のクリスチャンの、築き挙げてきた、受難の塚により、今や、人口の1%超えの僅かなクリスチャンにも拘わらず、クリスチャンの、清さ、誠実さ、愛の深さ、社会貢献の堅実さ、文学・音楽・思想・教育・・・に、多大な貢献を果たしてきた、実績から、反対(闘い)は、確かに後退してきました。しかし、この闘いはなくならないのです。 否、社会的には見えなくなっても、実は・・・・ 37節~39節の、主のお言葉は、外からの挑戦ではなく、更にもっと激しく、主との愛の絆を危うくする、激しい闘いが揺さぶりを掛ける、敵に対する、警告が語られているのです。 主を、第一とする生き様・・・それは、家族・親・家系(家)・子供・夫・妻・etc. を、二次的な関係とすると、理解されて闘い・葛藤が生まれるのです。 しかし、そうでしょうか。 私達は、先ず創造主・罪からの購い主イエス様を第一とする信仰生活からブレない日々を、積み重ねた結果、家族が救われ、連れ合いが信仰に結ばれ、子供達と共に礼拝を献げるようになっています。未だ行き着いていなくても、必ずその様になるのです。わたしは数えられないほど、主の成された奇跡を観てきました。かつて、猛反対してきた家族が、悔い改めて、涙しながらパプテスマを受ける姿を目の当たりにしてきました。 恐れずに、主を第一にしながら、家族を愛し、愛する者のために祈り続けましょう。又、真実な愛をもって、仕えましょう。 そして御国へお連れしましょう。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 11章1節~19節 11:1 イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。 11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて 11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」 11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。 11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。 11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。 11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。 11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。 11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。 11:14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。 11:15 耳のある者は聞きなさい。 11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。 11:17 『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』 11:18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」 |
2026年2月7日(土)リビングライフQT 世の人々の関心事に 関する指摘と警告 1月17日の、マタイの福音書3章で、バプテスママのヨハネから洗礼を受けられた時の記事で、今日のところを引用しましたが、ヨハネは捕らえられて、その働きを終え、牢獄で心の中で迷いを持っていたのです。自分が洗礼を授けた方が・本当に・来るべきメシヤだったのか❓・・・と、彼の弟子を遣わして、主イエス様に、問い掛けたのです。 イエス様は、ヨハネの弟子に、答えを告げずに、『業を見て信じるように・・・‼️』と、伝えられました。 1+1=2・・・と言う答えは、誰もが迷わず信じます。・・・それは、「知っている・理解出来る」と言うもので、信仰ではないのです。知識の世界です。 しかし、主が成されている様々な徴と・教えと・業・・・これ等は、例え、観ていても、知識にはならないのです。見て・・・信じ受け容れる・・・信仰の世界なのです。イエスorノーかではなく、《アーメン》か《疑い》か・・・の、 世界になるのです。バプテスマのヨハネも又、メシヤの到来を自ら語っては来ましたが、今改めて、主イエスを《メシヤ》として信じ、受け容れ、逍遙として殉教の道へと、進まれたのです。 (マタイの福音書 14:1~12) 主は、ヨハネの弟子達が帰ると、集まった群衆に、ヨハネの偉大さを話されました。 しかし、その中で、ヨハネの偉大さにも勝る、更に大いなる事は、神の御国に上る者(神の遣わされたメシヤを信じた)は、更に大いなる者です。・・・この意味は、パプテスマのヨハネと、主を信じたクリスチャンとを比較しての、意味ではなく、預言者時代の[待ち望みの信仰]と、今預言の成就する時代の信仰の、神の御計画の中での、時代(時限)の相違を仰ったのです。 今、私達が主を信じて歩む日々が、如何に素晴らしい勝利の日々か、改めてこのお言葉で実感するのです。 12節~15節は、ヨハネへの賞賛と、彼の生涯の働きの栄光を、称えられたのです。ハレルヤ‼️ 預言者達の苦難と葛藤を、主は、深く理解し、その中での働きの尊さを、語られていますね。 私達の信仰生活における、闘い、人々の無関心、迫害にも優るような、無視と嘲笑と、排除は、平和な時代の迫害と言えますね。主は、それをも御存じです。 主から受け容れられていることこそ、勝利と喜びですね。 |
| マタイの福音書 11章20節~30節 11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。 11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。 11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。 11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 |
2026年2月8日(日)リビングライフQT イエス様の裁きのお言葉悲しいかな、主はどんなに心痛めながら、御語りに成られたのかなぁと、思いながら読みました。確かに、主は悲しまれたでしょうが、神なる御方のお言葉ですから、その重さは、計り知れない確実性があります。確かに2000年という、時代の隔たりがありますが、今は、コラジンも、ベッサイダも、存在はしていません。しかし、ツロもシドンもレバノンの港町として、栄えて交易の中心となって存在しています。何故、この様な違いが・・・それはイエス様が仰る通り、主イエス様の御存在を敵視して、受け入れず、心の中から・誇り高い町として、主を排除したからです。 《絶対者》なる御方を閉め出す(比較対照して)・・・何と言う、怖ろしく愚かな仕業でしょう。これが《罪》の現実なのです。 ツロやシドンでも、主の御業は顕されました。それによって町に主の御名が拡がったのです。異邦の町だから・・・選ばれた主の民の町だから・・・ではなく、信じ受け容れるか否か《信仰によって‼️》なのですね。ハレルヤ‼️ 25節 : 父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子達に現してくださいました。 ハレルヤ‼️ 主は、神の力ある業を、ユダヤ教の難しい律法遵守の学者達に・・・ではなく、何も知らない無知な、しかし何か(真実)を求める、異邦の民に現されたのです。 28節 : 『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。《わたし》があなたがたを休ませてあげます。』 何と慰めに満ちたお言葉でしょう。 このお言葉を信じて、主の愛と慰めに救いを頂いた方は、今日まで、どれ程おられたことでしょう。 これからも・・・・‼️ あなたも今日、このお言葉を聴いて(読んで)主の前にひれ伏しましょう。 あなたの重荷を主の前に下ろして・・・・ |
| マタイの福音書 12章1節~21節 12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。 12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。 12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。 12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」 12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。 12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」 12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。 12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。 12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。 12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」 |
2026年2月9日(月)リビングライフQT 安息日律法に関する、パリサイ派の学者との論争。 『安息日律法』 《安息日》とは、元々、主なる神が、天地創造された時、最初に「光よ。あれ‼️」と、仰せられた。すると光が出来た。・・・・第一日。創世記1章3節・・・から始められて、天地万物を御創造になる記録を、一日(これは24時間刻みの一日と言うのではなく、一つ一つの創造主の働きを区切る言葉のー表現ーとしての表記として、《日》とあらわしているのです)この様に記録して、六つ目の働きの積み重ねの後(即ち、6日を終えて)、そのお働きに一区切り付けられ、7日目はお休みになられた。・・・と言う記録から、古代の民は、日々の生活を7日刻みに区切り、生活リズムを確立してきたのです。 しかし、この《7日周期》の生活リズムが、人々の生活リズムとして、確立されるのは、 世界最古の文明・メソポタミヤ文明(アブラハムの時代)の頃からですが、それが、 イスラエルの民の、エジプト脱出(出エジプト)の中で、民がシナイの荒野で、神からの律法を頂いた中で、モーセを通して与えられた、《モーセの十戒》によって、イスラエルの民に確立されてから、宗教的意味を持って、全人類に拡がったのです。 現代の暦(グレゴリオ暦)は、1582年に、ローマ法王グレゴリオ13世の時代に、制定されたのが、日本では、明治6年に、太陰暦(中国暦)から、グレゴリオ暦に代えて、今日に至っています。 モーセの十戒には、土曜日が、7日目とされていたので、聖書で、《安息日》と言うのは土曜日なのです。 今私達が、日曜日を、安息日《聖日》としているのは、イエス様が墓から甦えられたことを記念して、日曜日を、安息日⇒聖日として、神様との交わりの休みとして、大切にしているのです。 ユダヤ教では、今日も、モーセの律法に従って、イエス様の時代と変わらず、この日の生活の規制を、厳格に守っているのです。 パリサイ人達の、テキストの中での追求は、真に微細な事なのですが、彼等にとって、律法はそれ程、彼等の心を支配していたのです。 この例のように、律法は、その規定を厳守することのためにあるのではなく、その規定の教える意味を知る(学ぶ)事により、豊かな祝福された人生を紡ぐためにあるのです。ユダヤ人達は、律法の規定を守ること自体が、人生そのものだ(永遠への道筋)・・・と、考えたため、愛も慈しみも慰めも育たない、ユダヤ世界を作り上げてしまったのです。 ユダヤ人であるイエス様は、厳格な天と地の融合し得ない世界を、神の子として天に留まることを為さらずに、御自身を低くされ、人の姿をとられて、地に降られたのです。 テキストを次に進むと、手の萎えた人の癒しを、敢えて、ユダヤ人に問い掛けて、彼等自身が、安息日に対する矛盾に気付くように、語り掛けたのですが、彼等の頑なな心は却って、怒りに燃え、愛と慈しみからは遠のいたのです。 何と寂しいことでしょう。魂の痛む心が解らない人にとっては、教え・規則・真面目な生き方・・は、しばしば、痛む心を理解できなくなり、捌いたり、排除したり、不正だとしたり、怒りで満ちて、期待する思いとは、異なる方向へと進むことになるのです。 気を付けましょう。主イエス様は、何を私達に求めておられるのでしょう。 《人の子は 安息日の主です》 主との交わり、礼拝、祈り、賛美・・・その中から、主の御思いを、私の・あなたの魂に培っていただきましょう。 アーメン‼️ |
| マタイの福音書 12章22節~37節 12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。 12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」 12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」 12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。 12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。 12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。 12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒?も赦していただけますが、御霊に対する冒?は赦されません。 12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。 12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。 12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。 12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。 12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。 12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」 |
2026年2月10日(火)リビングライフQT この時代、ここに登場するような、耳が聞こえない・眼が見えない・口がきけない・・・と言う人々は、他にも、登場しますが、ここでの様に、(悪霊につかれた)と言う、説明が付いた例はないのです。即ち、通常の生活が出来ない人を、悪霊の働き・・・とレッテルを貼ることは、古代社会では、得てしてあったことでしょう。 しかし・・・・・ 福音書の記述には、区別して記録されています。 ですから今日の記事は、悪霊につかれたと言うより、三重苦に閉ざされたこの人の魂は、自らでコントロール出来ないために、怒り・イライラ・絶望・等々の感情が、しばしば、この様な乱行に及んだのでしょう。 考えたら、この様な惨めな人生を生きる、この方の内なる思いは、涙が溢れるほど、胸が痛みます。 群衆の雰囲気で、何か大きな光が・愛が・命が・・・感じられたのでしょうか・・・ 否‼️イエス様が彼に近付かれたのでし ょう 。 思い巡らせながら、私のまぶたに、熱いものを感じました。 アァ❗イエス様の愛‼️ 主の癒しはたちどころに彼を覆いました。それは、最初の人アダムが命を吹き入れられて、生きるものと成った‼️という記述に匹敵する、神の創造の御業ではないでしょうか。 この厳粛な、御業に対してパリサイ人たちは、とんでもない愚問を投げかけて、神の御子イエス様を、悪霊のかしらと、罵ったのです。涙が滲み出ます。 この文章では遣り取りについて、詳細な解説は省きます。 一通りお読みください。どんなに、愚かな彼等の態度でしょう。 37節~『あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって、不義に定められるのです。』 深く心に留めて、愛と真実と正義に立った、《言葉》を、大切にしましょう。 主を賛美し、主を告白し、主に明け渡し、 主を求める・・・言葉は、人を癒し、救い、包み、導き、豊かにするでしょう‼️ ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 12章38節~50節 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。 12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、 12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。 12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。 12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。 12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。 12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 |
2026年2月11日(水)リビングライフQT ユダヤ教徒の指導者、即ち、律法学者・パリサイ人・・・彼等は、神から遣わされたメシヤである《神の御子イエス・キリスト》を、信じ受け容れようとはせずに、何処までも、モーセの教えの枠内にはまる存在か否かを確認し・・・それが彼等の、イエス様への関心事でした。ツァラートの浄めも、盲人の開眼も、聾者の癒しも、死人の蘇りでさえも、彼等の検証なしに、汚れた霊(悪しき霊)の仕業と、レッテルを貼り、民を、イエス様から遠ざけるように、画策したのです。 彼等は・神に忠実で、正しい選びの民の僕と、自認していたのです。福音の光を当てると、何とも滑稽極まりない姿ですね。 癒しも、奇跡も、栄光も・・・・福音の世界(神の国)では、『アーメン‼️』なのにですね。 彼等(パリサイ人・律法学者)は、モーセ・イザヤ・ヨナ・ソロモン・・・・に関しては、偉大な神の人と、認識(敢えて)していますが、これ等の歴史的偉大な指導者・・・神の人を、観てもないまま、受け容れ信じていながら、今、素晴らしい天の輝きに満ちた《しるし》を、目の当たりにしながらも、疑問視したり、言うに事欠いて、悪霊の仕業とまで酷評する・・・・とは、何と言う、怖ろしいまでの天に対する敵対行為でしょう。 しかし、今日も尚、私達も以前はそうであったのです。即ち、『信じられない・そんな事、昔の伝説・神が創造したなんて・自分の存在は・・・』等と、聖書を道徳倫理の最高のテキスト・・・としてしか、受け容れなかったのです。即ち、自分の理解と認識が最高の判断材料=神、だったのです。 イエス様はこの様な、人々の怖ろしい、神に対する敵対行為(意識)即ち、[罪]を、一つ一つ積み重ねるように担いながら、やがて、十字架の上で、『父よ彼等を御赦し下さい・・・彼等は何をしているのか、解らないのですから。・・・』と、祈られたのです。 何と言う執り成しの祈りでしょう。 主御自身が、全(総)ての・・父なる神(創造主)への反抗と、不信仰・汚れ・離反を代わりに担い・・・身代わりとなって、祭壇の子羊のように、贖い(身代わり)の死を遂げられたのです。 万民(過去・現在・未来)の(永遠=御国)の命の源と成られたイエス様は、今や、全ての民(あなた・私)の父で有り、母で有り、兄弟姉妹・・・神の家族なのです。そして、私達お互いの関係も、兄弟姉妹なのです、父母なのです。 アーメン‼️ |
| マタイの福音書 13章1節~17節 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。 13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。 13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。 13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。 13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。 13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。 13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。 |
2026年2月12日(木)リビングライフQT 有名な、種蒔きのたとえ話・・・❗ 今日はジックリ考え、御存じの方は、思い出しながら、黙想しましょう。 この喩え話は、明日に、解き明かしが成されていますから、お楽しみに。 今日のテキストの焦点を、10節からの記述に合わせて参りましょう。 「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか。」と言う弟子達の問い掛けに、主は、御国の奥義は、赦された者にしか知る(理解)事が赦されていないので、喩えで話して、《その真理を知りたい❗》と、心開いて聴こうとする者のために、敢えて、喩えで語るのだ‼️・・・と、主は御語りになられたのです。 人生の日々の中で、(創造主なる神)に、生かされている真理を求めてやまない、魂に対して、神は豊かに応えて真理の道を教え導かれます。 その様な魂を持つ者は、神の光の中に導かれて、豊かにされるのです。 しかし日常の煩い(問題)に、心削り果たしてしまい、魂の空洞を満たす、求道の道に、思いを向けない者には、神の切実な愛の迫りには無関心となり、魂の目も耳も、閉ざされて、御国の真理(永遠の命に至る道)からは、遠くなるのです。 旧約時代の最大の預言者イザヤが、彼の庇護者である、《ウジヤ王》が死んだ後、神がイザヤを、神のことばを託す預言者として召された時の、神のイザヤへの召命の言葉が、14節~15節の引用なのです。彼の預言はその後の、ユダ・イスラエル両国の歴史に大きな光となるのですが、民はその光を仰ぐことをせずに、偶像に走り、やがて滅亡していくのです。しかし、その預言の言葉が、今こうしてメシヤの到来となって、弟子達はその方のみ声を直に聴き、新しい時代への真理に導かれているのです。 こうして、今聖書を通して、私達も神の御言葉を読みながら、只、通読したら恵がある・・・まるで、アジアの仏教徒が、周る車(経車)を回したら、それで、お経を唱えたことになる・・・とならないように。聖書の御言葉を神からの、毎日の語り掛けだ‼️と、期待して、心開かれて今日の糧として、《聴く=学ぶ=黙想》する時、私達は魂の中に、神を迎え、豊かな知恵が与えられ、愛に富んだ日々が迎えられるのです。 16節~あなた方の目は見ているから幸いです。また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 13章18節~30節 13:18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 13:19 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。 13:20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 13:21 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 13:23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」 13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 13:25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。 13:26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。 13:27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』 13:28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』 13:29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。 13:30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」 |
2026年2月13日(金)リビングライフQT 昨日の種蒔きの喩え話の解き明かしが開かれます。 日本のお百姓さんは、畑を耕して、畝を造り、その盛り上げた畝に種を入れるくぼみを付けて、そこに丁寧に種を入れますね。種によっては、芽が出る方向を上にして、丁寧に植え付けますね。 しかしイエス様の時代のお話からすると、多分麦の種でしょうね。耕して、雑草を取り除いた畠一面に、種を握っては投げるようにまき拡げるのでしょう。日本以外では太古から、この様なやり方で種蒔きするのが描かれています。 ミレーの《種蒔き》も、その様な構図でしたね。 ですから、種の中には、道端まで投げやられたり、耕してない石地に飛び散ったり、茨や草の残った、耕されていない周辺にまで、飛び散った種があったのでしょう。 このお話は、蒔き方のお話ではなく、蒔かれた《種》の行く末のお話です。 ※種とは、神の御言葉です。 ☆ 道端に落ちた種は、人々が踏み固めた道なので、鳥(サタン)の眼について、直ぐに食べられてしまう。 ☆ 岩地とは、少しの窪みに土が在り雨上がりの湿り気が残っているから、直ぐ芽を出すが、岩だから根が張れない。日が昇る(試練の陽が当たる)と、たちまち焼け石となり枯れる。 ☆ 茨の中に落ちたとは、軟らかな土ですが鬱蒼とした草に覆われて、陽が当たらず、成長できない・・・✖ ◎道端⇒人に踏みつけられる(無関心にも踏み破壊される)・鳥がついばむ。(サタンが排除する) ◎岩地⇒直ぐに感激・感動するが、魂にまで取り込まないため、すばらしい感動・感銘は一度、困難や迫害が生じると、直ぐ醒めてしまう。(感動・感銘)は、感情の浮き沈みで、消えていく。 ◎ 藪(ヤプ)や茨(イバラ)の中に落ちた種 ⇒誘惑・心配事・困難や被害に遭うと、それに心奪われて、御言葉のタネは、埋没したまま、芽を出さなくなる。 何と、この世には、様々な誘惑や、危険や障害が満ちていることでしょう。 それはサタンが必死となって、人が《神のことば》に目覚めさせられることに、危機意識を持っているからなのです。私達は神の言葉に、必死で心を傾け、その御言葉を、耕してきた魂の畑に受け止めて、育んでいきましょう。畑を耕すのは、 《い ・の・り》・・・なのですね。 後半(24節~30節)の喩え話は、またまた、種蒔きの喩えですが、麦を蒔いた畑に妨げる者が来て、毒麦の種を蒔いて行った・・・と言うものです。何と怖ろしい。 御利益への道・一攫千金穂の誘惑・様々な誘惑(ご覧なさいTV・スマホ・噂・流行・時代の流れ・・etc.)⚡が、蒔かれた種の芽生えを妨げるのです 神の言葉・賛美・祈り・礼拝・聖徒の交わり・献身(福音に生きる)・・・ この様な畑には、神のことばは、力強く芽吹き成長して、30倍・60倍・100倍の実を結びます。・・・何故なら、《神の言葉》には命が宿っているからです。 (神)ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 13章31節~43節 13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。 13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」 13:33 イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」 13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。 13:35 それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」 13:36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 13:37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。 13:38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。 13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。 13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。 13:41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、 13:42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 13:43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。 |
2026年2月14日(土)リビングライフQT こうして、聴く心(魂)・観る心(魂)を持つ者は幸いです‼️ 何故なら、御国の主が「私は口を開いて、たとえ話で、世界の基を据えられたときから隠されていることを語ろう。」と言われたのですから、 語られる真理を待ち望み、しっかりと、魂に黙想を重ねましょう‼️ 『天の御国』・・・とは、何を指しているのでしょう。・・・それは、来るべき神の国即ち(永遠の御国)なのでしょうか❓・・ 間違いだ!とは言えませんが、ここではそうではありません。 それは、今私達が経験している、教会(キリストのからだ・イエス様を中心にした交わりの世界)を指しているのです。もし、教会が組織だとか、教派だとか、牧師を中心に組み合わされたグループだとしたら、それは神の国とは言い難いですね。それが(教会)神の国だとしたら、イエス様のお話は、成り立たないですね。 所が、主がお話になられた教会は、ごま粒よりも小さな《からし種》《小さな塊のイースト菌》が、一握りのこねた粉を、何倍にも脹らます様に、イエス様がもたらした《神の国=教会》は、ある意味で、一人の主の僕(クリスチャンから始まるのです)そして、ユダヤの一角から始まり、今や全地球を覆う拡がりとなって、人々の心の中に、 拡がっているのです、正に、主が語られたことが、今私達が経験しているのです。 かつて、アフリカが暗黒大陸だと言われていた時代18世紀~19世紀に、英国スコットランドの、リビングストン宣教師は、数名の協力者と、中央アフリカ(タンザニア・ルワンダ・ウガンタ)の 宣教に乗り出しました。しかし、途中からは余りに過酷な働き(言葉も通じず命の危険にさらされる日々)に、同行者は放棄して帰国し、信仰を持った裸の現地人を助手として、現地の言葉を習得するまで、言葉だけで字のない世界で身振り手振りで宣教し、アルファベットを教え、識字教育をなし、聖書の部分部分を教えて、多くのクリスチャンを生み出した。ビクトリア女王からの隠れた使命の《ナイル川の源流も突き止め》最後は、バナナの葉で造られた現地人の小屋で祈りながら、誰からも看取られずに、御國に帰られました。現地の原住民達はリビングストン師の生前の姿を残すため、ミイラ化して、その小屋で、日曜毎に礼拝していたのです。 リビングストン宣教師の行方が解らなくなったので、国を挙げて探索する探検家を募集すると、米国の新聞記者で探検家の《スタンレー氏》が名乗りを挙げ、探索に入りました。やがてコンゴ川から、ウガンダ奥地の支流を遡っていると、頭上の葉陰からギラギラ光る眼差しが数多く在るのに気付き、皆銃を構えて、ボートをこぐ手を止めると、頭上から『ハレルヤ ハレルヤ アーメン アーメン』『ジーザス・ジーザス・・・』と、声があちこちから降ってきた。 スタンレーは直ちに銃を置くように指示し、彼自らに大声で『ハレルヤ❗アーメン‼️と繰り返したのです。 すると忽ち、まわりから真っ黒な原住民が降りてきて、船を引っ張って、彼らの部落まで案内され、遂にスタンレーの一行は、ミイラとなって安置された、リビングストン師に逢えたのです。そのミイラのご遺体は更に大切に包まれて、現地のクリスチャン達に担がれて、港まで出て、数ヶ月後に英国に帰還したのです。(この文は私が小学校5年生の時読んだ本を、記憶を辿りながら、再現しました) この伝記に深い感動を持って成長した私を、伝道者の献身へと導いたのです。40年に亘って、台湾原住民伝道に従事したのも、その影響だったのです。 正に、天の御国は、パン種の様に、からし種の様に、小さな物ですが、 今や、躍動するアフリカに、近代的国家となったアフリカに、台湾のリバイバルに、シオン教会から、九州教区に・・・主の日まで更に、神の国は、拡がり続けるのです。あなた一人の熱い愛の福音が奉仕が、祈りが、福音の証しが・・・・ 余り沢山の記事を書いたので、後半の毒麦の喩え話の解き明かしについては、省略させて頂きます。 あなたの中に在る神の国が更に(家族に、職場に、学校に、ご近所に)拡がりますように。ハレルヤ❗ アーメン‼️ |
| マタイの福音書 13章44節~58節 13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。 13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。 13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。 13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。 13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。 13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、 13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。 13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」 13:53 イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、 13:54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 13:55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 13:56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」 13:57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」 13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。 |
2026年2月15日(日)リビングライフQT 三つの喩え話・・・・ ①と②は、何れも最高の価値ある物(真理を指しています)を見付けたら、何としても手に入れるために、全てを手放してでも、買い取るために、どんな努力も惜しまないでしょう。 しかし、この宝が霊的御国の価値である時、それを、ここで語られるほどに、魂を踊らせるほどまで、その心に価値を響かせるだろうか❓❓・・・と、思ってしまうのです。今の時代を見ていると、彼らが求めている物は何なのか?・・・余りに多様な時代の中で、求むべき物が何なのか❓ それを、人々に知らせねばならない急務を痛感しながら、先ず自らの中に、真理の確立を見たいのです。 第③の喩え話は、大漁の網から、売り物になる魚を選び分けるお話で、終末における、神の教会を通して、御国の収穫が、いよいよ最終審査(審判の時)の様子が、ストレートに語られました。 この喩え話を通して、終わりの時が始まったことを、主は、示唆されているのです。 この時から既に2000年も経過していますが、甘く見てはいけません。《時》は、時間経過ではなく、神の御計画の実現‼️を示しているのですから。その予告が何時なのか ・・・主なる神の主権の中に在るのですから、何時その時が顕わされるか、誰も知らないのです。 別な意味で言うなら、一人一人の人生の終末があるのです。その時すら私達は予測不能ですから、イエス様の御語りになられる、終わりの時に対して、私達は《今》を最高に、真理に心開かれていなければならないのです。 51節に⇒あなたがたは⇒と言われていますが、これは弟子達のことですから、これ等の喩えも又、心開いて聴く耳を持つ、使徒達へのメッセージですから、改めて魂に深く刻みましょう。あなたへのメッセージです。 さて、後半は、故郷(ナザレ)に帰られた時の記録です。 カナの町にもユダヤ会堂はあり、実はそこでイエス様は律法を学び、父なる神を礼拝し、ユダヤ教の教師から学ばれたのです。 今、そのイエス様が、ガリラヤ地方で大人気で、多くの人々がイエス様について、この山地のナザレにまで来ていたのでしょう。少なくとも、使徒達12名が居たのですから。 53節を見てみましょう。 「この人は大工の息子ではないか、母はマリヤといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。・・・・・」 彼らはイエスに躓いた。 何と言う、屈辱的態度でしょう。御国の御座から降られて、メシヤとして、大きな働きを始めて来られたイエス様を、この様な目で見たとは 彼らのイエス様への蔑視は、神の恵の業の証しを、打ち砕いたのです。 『彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。』悲しいばかりのコメントですね。 最後に、私達はこのイエス様に、愛の飢え渇きと、希望と、神の命と業(奇跡)とを、切に待ち望みましょう‼️ |
| マタイの福音書 14章1節~12節 14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 14:2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」 14:3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 14:4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。 14:5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。 14:6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。 14:7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。 14:8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。 14:9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、 14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。 |
2026年2月16日(月)リビングライフQT 今日のテキストは、真の主の弟子には、無関係・遠い異次元世界の出来事のように感じますが、実は、この様な営みこそ、罪の構造的姿なのです。 先ず、領主ヘロデとは、イエス様の御降誕時に、ベツレヘム周辺の、二歳以下の幼子を殺戮した、あのヘロデ王の、子息なのです。親の罪に汚れた魂を継承した、小心者で、 権力の上に権威に任せた、悪行を積み重ねた支配者でした。 この男の悪を暴露して責め、悔い改めを迫ったので、彼(バプテスマのヨハネ)に言いがかりを付けて捕らえ、幽閉していたのです。 しかし、ヨハネの背後に在る、神の権威と審判を恐れて、処刑も出来ずに、怯えていたのです。 その様な時に興った、出来事(自分の誕生の宴席での)に、権威ぶった言葉で「何でも褒美を獲らす‼️」と、並み居る参列者を前に豪語したのです。 その結果が、ヘロデが一番恐れていた結果を招いたのです。 ヘロデの噂は、民の周知のことでした、それを、パプテスマのヨハネが執拗なまでも、ヘロデの門前に立って、悔い改めを迫ったので、彼の口封じに投獄したのです。ヘロデは、ヨハネが《神の預言者》であり、自らの罪を自覚(ヘロデ自身もユダヤ教徒で在る)していた。 それ故に、このヘロデヤの娘(サロメ)の要求(母親のそそのかしによる)は、ヘロデの恐れの心をどん底に突き落としたのです。 しかし、権威を維持するために、それを実行させたのです。 最早悔い改めから逃れる統べもないまでに、滅びの道をまっしぐらに・・・・・・ この事は、ヨハネの弟子達によってイエス様に報告されました。 主の悲しみはどんなだったでしょう。怖ろしい汚れと罪の犠牲となって、死を受けたヨハネと、その弟子達の思いを、主はどの様に、お受けとめに成られたでしょう。 やがて、御自身に向かってくる、人類の罪と汚れの重圧が、新たに主の心に迫ったことを感じられた事でしょう。 この様に、主イエス様の、人としての日々の歩みは、正に、人(私達)の (罪の)茨の道を、辿る日々だったのです。 私は今日のテキストを通読する度に、高校時代から次第に、もう一つの、ゴルゴタの十字架‼️と感じてきました。 ここはあらゆる罪の泥沼、魂の醜さ、権力に生きる人間の壊れた姿を、見る思いです。 その様な罪の陰に覆われないように、光の中を歩みましょう。 |
| マタイの福音書 14章13節~21節 14:13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。 14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」 14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」 14:17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」 14:18 するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。 14:19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。 14:21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。 |
2026年2月17日(火)リビングライフQT 《有名なパンの奇跡》 福音書の同じ記事の箇所(参考まで) マルコ福音書6章 ルカ福音書9章 ヨハネ福音書6章 四つの福音書いずれにも、ほぼ同じ内容で記録されています、只、ヨハネ福音書にだけは、《このパンと魚がどうしてあったのか❓》についてのコメントが書かれています。常にイエス様の側についていたヨハネだから、記憶にしっかりと焼き付いていたのでしょう。 今回は、マタイ福音書なので、マタイの記事で学びます。 昨日のバプテスマのヨハネの出来事は、ヘロデの宮殿のあった、ガリラヤ湖西岸の中央より少し南の《ティベリヤ》で、 ガリラヤ地方の行政府となっていた所です。 主イエス様は、悲しい出来事に心悼めて、船で、10km程北のゲネサレの町へ移動されましたが、人々は、イエス様を追いかけて、船を見ながら岸辺を掛けて、同じケネサレにまで来たのです。 お休みになられた主は、大勢の群衆が、飢え渇いて(魂が)、こんなにまで慕う姿に、上陸して休む間もなく、彼らの中に足を向けられたのです。 ここを読みながら、今も主は、この様にして、乾き求める人々を訪ねておられる事を思うと、私達の教会の為すべき働きが、自ずと開かれてくる思いです。教会ごっこしている場合ではない(一寸失礼な言い方しましたが)、終末の時代に在る教会(イエス様の代理人・イエス様と伴に歩む私達‼️)の姿が、緊迫の度を加えて、いる思いに迫られます。 イエス様は、彼らの姿に心動かされ彼らを深く憐れんで病人達を癒されました。ゲネサレの町で、弟子達はイエス様に解散させるように指示を求めました。 そこは田舎の湖畔の小さな部落の点在するところです。弟子達が「こんな所で・・・」と・・・ ではあなた方でパンをあげなさい。 成人男子だけで5000人です。女性、子供達を入れると、総勢8000人は下らない群衆に・・・です。 テキストお読みでしょうから… ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五つのパンと二匹の魚で・・・・です。 主はこれを祝福して割って弟子達に手渡し、次々割っても、12人に渡し終わるまでパンも魚もなくならない。 あなたはどんな映像で想像しますか。 そのひとかけらを又、群衆一人一人に・・・最後の人に分けるまで、弟子の手に握られちぎられる間はなくならない。 この光景は、正に、厳粛な神の創造の業が、展開したのです。 私はこのような姿の中に、創世記の続きを見ているような、思いが致します。 イエス様のお話を聴いてきた人々は、目の前に展開する、この奇跡を見ながら、その奇跡から生まれたパンを食べながら、メシヤの到来を信じ、この御方に養われ、罪許され、心清められて行く自らを、どんなに喜びに溢れたことでしょう。 この御方が、私の主、私の救い主なのです。 私もまた、この群衆の中に紛れ込んで、溶けてしまうばかりの感動に、心震わせられています。‼️ |
| マタイの福音書 14章22節~36節 14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。 14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。 14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。 14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。 14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。 14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。 14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。 14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。 14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。 14:34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。 14:35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、 14:36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。 |
2026年2月18日(水)リビングライフQT イエス様が神の国の到来を伝えて、様々な奇跡を顕されていたのは、ガリラヤ湖の北岸の町(ベッサイダ)から、南のヨルダン川の河口(近くにベテシメショと言う町がある)までの35km(関門海峡のほぼ倍の長さと、幅は三倍ほどの広さの湖です。 イエス様の伝道範囲は、その岸辺の町々村々でした。しかし、西側の湖岸も又、中央部のティベリヤ(王宮のある行政府の町)以南は、急峻な絶壁が続き、ほぼ北西海岸が、主の活動地域でした。 その為、町々への移動はしばしば、湖上をペテロの漁船を利用されたのです。 急峻な崖の上の道を辿るよりも、ペテロ達の馴染んだ湖上を、航行する方が、良いのと、船がすでに皆の移動手段だったので・・・・ 《夕方になって・・・》と記してありますから、彼らの船は、熱せられた湖岸の岩から冷たい湖上に吹き下ろし始めたのです。岸に向かって逆風なので帆は張れず、ペテロ・アンデレ・ヨハネの三人の練達した漁師の力を持ってしても、一晩かかっても、岸に辿り着けないで居た明け方(船には11人も乗っているのですから、転覆から護るだけでも命懸けの操船だったのです) ・・・・何故、こんなに解説をしているかは、この様な状況の中で、人の心を襲う恐怖、不安、死との隣り合わせの状況・・・を、想像し、この試練が私たちの日常の試練と、恐怖や絶望と重なることの共通性を、理解し(知って)、学ぶためなのです。他人事・昔話として読まないで頂きたいのです・・・・・ この様なパニックに打ちのめされ、生きる望みすら失いかけた弟子達の目に・・・打ち寄せる波しぶきの中に、ボンヤリと・・・しかし、次第にクッキリと、主の御姿が浮かび上がったのです。しかし、絶望の中に沈んだ弟子達の目には、日本流に言えば《地獄からの死者=幽霊》にしか見えなかったのです。 ・・・・人の魂は何と惨めなのでしょう。信じるもの(お方)を失うと、魂は、(死)と(絶望)しか見えなくなるのです。 どん底の魂に、主イエス様の御声が雷⚡️の様に『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』 彼ら弟子達の中に、死と恐怖しかないとき・・・何と❗主は彼らの傍に居られたのです‼️・・・ 試練の時に・絶体絶命の時に・祈って主を仰いでご覧なさい⚡ ペテロのとっさの反応は・・・・「わたしに命じて・・・・あなたの所に行かせてください。」《水の上を歩いて》は、わたしは敢えて隠したのですが、その理由は、彼が求めたのは、奇跡(水の上を歩く)を求めたのではなく、《あなたの所に・・・》これがペテロの、一番の熱い願いだったのです。 主が甦られた後、常に弟子達と共に居たのでないときに、復活の主のいない朝、手持ち無沙汰なペテロが、「わたしは漁に行く」 と、他の弟子達も共に湖にこぎ出すと、 岸に立たれたお方がイエス様だとは知らずに、「船の右側に網を降ろしなさい。」網は魚が一杯で上げられないでいると、ペテロは、『主だ‼️』と、肌を出しての漁だったので、上着を羽織って、飛び込んで主の元に駆け込んだ(ヨハネ福音書 21章1節~14節) これがペテロの主を愛する姿なのです。 彼は真っ直ぐにイエス様を凝視して、水の上を歩いて・・・と言う感覚ではなく、《只、主の御傍に‼️》その熱い想い=信仰が、瞬時に、(風の吹き荒れる湖の波の上にいる・・・)と言う、常識に帰ってしまったのです。 私達の信仰・・・‼️ それは、緊急時に、奇跡が起こるのを信じることでは在りません。 危険を回避できる不思議でも在りません。 それらは、結果なのです。 《奇跡‼️》それは、この様な罪人を赦し救い出し、愛をもって何時も伴に居てくださる・・‼️・・・これが奇跡だし、救いなのです。 この御方を信じ続けて今日まで来ましたし、赦されて、赦されて、伝道者として、イエス様を伝える大使として今日まで・・これからも歩んでまいります。 あなたも同じです ハレルヤ‼️ アーメン‼️ |
| マタイの福音書 15章1節~20節 15:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。 15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」 15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。 15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。 15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、 15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。 15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。 15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」 15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」 15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」 15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」 15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」 15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。 15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」 |
2026年2月19日(木)リビングライフQT 宗教・・・と、 福音の違い。これが今日の課題です。 パリサイ人・律法学者・・・彼らは確かに宗教家です。厳格なまでに、ユダヤ教(モーセの十戒に始まる、その後の、ユダヤ教の確立に伴って、預言者・指導者達によって、整えられてきたあらゆる教え、生活上の神聖さを護るための、様々な規律や規則を、教え導く宗教の本山ー神殿ー)の、組織を護ることが、当時のパリサイ人や律法学者達の重要な働き・生活・存在だったのです。 ですから、彼らにとって、イエス・キリスト様の御存在は、新しい指導者なのか、異端分子の出現なのか??非常にシビアな課題となっていたのです。 主イエス様に問い掛けた、「なぜ、長老達の伝統的言い伝えを、破るのですか??」 この問いかけはあからさまな、天地創造・全能の神の権威と、御存在に、真っ向から敵対する問いかけだと言うことにすら気付かないで、質問してきたのです。 主は直ちに、5節~7節で、彼らの宗教生活の日常で、平気で神の御思いと真っ向から矛盾した、解釈しながら、神を冒涜している・・・と指摘し、当時のユダヤ教の形骸化を、叱責されたのです。 あなたがたの口から出る(愛と真実からかけ離れた)言葉が、人を汚す(神から切り離す)のだ・・・・と。 この様に、気付かないまま、自分の内に在る信仰心、キリスト教的思考(考え方)をそのまま、自らの価値観として、人や社会と接するとき、私達の心は波立ち始めるでしょう。 そして、批判したり、捌いたり、区別したり、排除したり・・・・もし私達の内にこの様な思考、行動、理解・・・が、住み着くと、神の国はその事によって閉ざされてしまいます(しくしく) 今朝、深い悼みをもって、反論された《イエス様》のお心を深く知る(聖書に聴く)ことにより、主イエス様に、内に住んで頂きましょう‼️ |
| マタイの福音書 15章21節~28節 15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。 15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。 15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」 15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」 15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」 15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。 |
2026年2月20日(金)リビングライフQT ゲネサレの町~ツロ(地中海の東海岸)古代から交易の港として、更に60km北のシドンと共に栄えた港町(勿論異邦人フェニキア人の町)です。ゲネサレからは、山地を幾つも越えて、60km~70km もある道程です。イエス様と弟子達の移動距離は、驚異的ですね。 この頃すでに、イエス様が御国の福音を語り初めてからさほど、経過していないにも拘わらず、今日登場するカナンの女は、《主よ、ダビデの子よ・・・❗》と、イエス様に呼びかけています。ユダヤの民の指導者達は、イエス様を猜疑心を持って見ていたのに それ程、神の国の福音は、庶民には救いと慰めとなって、広く伝わっていたのです。カナン人の間には、バアルと言う、人身御供を最高の礼拝とする、偶像信仰が根深く浸透していました。イスラエルの民の中にさえ、その影響は深く浸透していたのです。彼らの信仰は、しばしば怖ろしい心霊的現象を神聖視するために、精神異常をきたす患者が多くみられたのです。福音・神の国の闘いは、この様な悪しき霊との闘いが激しく、おこっていたのです。 このカナン人(異邦人)の女の娘が悪霊に憑(ツカレ=トリツ)かれて、癒し(解放)を求めてやまなかったのです。弟子達まで我慢できずに、主に[何とかして]と・・・ 主は、そんな騒ぎの中から、この女に『わたしはイスラエルの家の失われた羊以外の所には遣わされていません。』 待ち望む人々に遣わされたので、(あなたのような異邦人)には遣わされていない・・・何と、取り付く島のないお言葉でしょう。 ‼️所が‼️彼女の主への反論は更に更に、執拗に平伏して懇願するのです。 この行(くだり)の両者の間には、深い淵のような隔たりが見え隠れしますね。弟子達はどんな思いで観ていたのでしょう。 主は更に彼女の執拗な叫びに水を注ぐようなお言葉を26節~『こどもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。』何と言う屈辱的言葉でしょう。 しかし、彼女は即座に『主よ、その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。』何度読んでも、胸が裂けるような感動を覚えますね。 この遣り取りは、日本の禅問答(知恵のぶつかり合い)とは、全く違った《信頼と信仰の太い絆》なのです。奇跡は、この様な絆を通して、顕されるのです。『女の方、あなたの信仰は立派です‼️』このお言葉の陰には、この女性とイエス様の間の太い絆を感じます‼️ その時、彼女の娘は、解放された(癒された)のです。イエス様はその事を、宣言されたのです。 主は、福音書の中で、多くの奇跡を顕されましたが、実は、その奇跡の事実の陰には、この様な関係の絆が、結ばれているのです。 ☆何か特別なこと・・・ ☆自然界を超絶したこと・・・ ☆想像を超えたこと・・・ ☆有り得ないことが起こったこと ☆願望が叶ったこと・・・ それが奇跡❗ではなく、主イエス様と結ばれたこと‼️ それが奇跡‼️・・・だと ここを読む度に新たに思うのです。 今日、新たに主に結ばれましょう‼️ ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 15章29節~39節 15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。 15:30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。 15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。 15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」 15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」 15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」 15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。 15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。 15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。 15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。 |
2026年2月21日(土)リビングライフQT イエス様の一行は、シドンーツロを後にして、再びガリラヤにやって来られました。 地図上の計測で昨日も書きましたが、帰路シドン→ツロは実際には60kmで、徒歩で一日行程です。 更に、ツロから三つの山並みを越えてガリラヤまでは、約100kmの距離です。併せて帰路の距離は160kmですから、丸4日の行程です。13人一行の食べ物、飲み物(これは自然の湧き水か小川の水)を考えると、大変な行程ですね。 私もかって台湾原住民(先住民・通称山地民族ー12部族ー)を尋ねて、部落から部落へと、巡回伝道しました。(現在の丸山陽子先生の御主人[顔金龍イェン・チンロン牧師)のお父さんの顔牧師と同僚の林牧師の案内で、台湾北部から南部まで、更に離島まで、8部族(各部族は全く違う言語で、彼らの共通語は日本語でした。理由は日本統治時代に、完全に日本語教育がなされた)を巡回しましたが、急峻な山々を幾つも超えて朝から夕方までの山歩きの、食べ物は、木の実が中心で蝉・昆虫を捕って、火に炙って食べたこともありました。 私は終戦後の疎開先や食糧難時代に昆虫は大切なタンパク源として食べていましたから、山の原住民であるお二人の知恵に支えられて楽しみました。 主と弟子達の行程は、2000年前の時代ですから、それもありでしょうね。(そんな風に想像しながら福音書をお読みになったことがありますか??) 元に返りますが、この4日の行程は、弟子達にとって、大切な学び(信じる事)の時だった事でしょう。そしてイエス様との絆が更に、強くなった事でしょう。 ガリラヤ湖畔に着くと、休んでいる所に瞬く間に、人々が集まってきたばかりか、病、障害を負った人々をも連れて来たのです。イエス様は、次々と皆を癒され、空腹を覚えた群衆に、パンを与えなさい。・・・と、指示されました。 未だ、先の、男の数5000人へのパンの奇跡の記憶に新しい時です。 しかし、弟子達には、奇跡の記憶よりも、群衆の全体に目を留めると、困惑しか出てこなかったのでした。イエス様は、彼らに思い出させるように『パンは幾つあるのか?』と、問われたのです。主がパンを割って弟子達に渡し、弟子達は一人一人に又割って渡し、更に遠くの人に人々は、更に割って分かち合う・・・一人が手にしたパンのかけらは、決して大きくは無かったでしょう。それを又小さく割って、口に運び暫くそのパンは、なくならず、満腹になって、余った。それを集めると・・・・ 何て言うこと・・・‼️ この様なことあり得ましょうか❓ 昔、物理学的な理論を展開したり、心理学的接点を論じたりで、この奇跡を解説した文を読んだことありましたが、全く陳腐で、怒りさえ感じました。 奇跡は説明するものではなく、神のなせる業‼️と、信じる事なのです。 主はその後、人々が満足して散会する中を、寂しい村マガダン (マグダラ)村へと移動された。マグダラ(テベリアとゲネサレの間の村) あなたの人生の中で経験した、様々な奇跡・不思議な出来事・・・を、思い出し、新たに主の御手に触れた《あの》出来事を感謝しましょう。 ア~メン‼️ |
| マタイの福音書 16章1節~12節 16:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。 16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、 16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。 16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。 16:5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。 16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」 16:7 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。 16:8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。 16:9 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。 16:10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。 16:11 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」 16:12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。 |
2026年2月22日(日)リビングライフQT パリサイ人・サドカイ人とは、何れもユダヤ教の会派で、パリサイ派は厳格主義、サドカイ派は世俗主義で、互いに対立関係に在りましたが、イエス様の登場に関しては、しばしば協調して、神の福音に対して、対立的議論や妨害をしてきたのです。 イエス様が、ここまで人心を掴むには、それなりに権威があるのですから、その権威の徴として、天(神に起因する)からの徴しを、求めたのです。あたかも正当な求め・・・であるように感じますが、彼らの霊的暗闇を暴露した、真に愚かな問いかけでした。 霊的乾きのにある魂ですと、彼らも又群衆のように、主イエス様のお言葉に耳を傾けてきていたでしょうに・・・・ 彼等の内(魂)には、自分達の知性と、既成の概念(ユダヤ宗教的理念)が全てで、完全なまでに、外からの教え、神からの啓示、創造者なる御方の、刻々と進められる御業への、求道心が皆無だったのです。 イエス様の彼らへの、言葉は、彼等の霊的無知さを強く指摘されましたが、それ以上の対応は為されませんでした。 私達の信仰生活でも、嘲笑的、又、挑発的に攻めてくる対話には、対応しないことです。真理を求め、救い・慰め・癒しを求める問いかけには、愛と知性を持って、応えてさし上げましょう。 次のイエス様と弟子達の遣り取りは面白いですね。イエス様の意識の中には、今までのユダヤ人達との言葉の遣り取りの続きを語られたことが、弟子達には、空腹のことしかなかったみたいで・・・・ 彼等がやっと気付いた・・・《パン種》の、意味の重さが、ズッシリと、魂に刻まれたことでしょう。 私達の信仰生活で、日々の小さなパン種(欲・自我・世俗の価値観・財産・名声・自己義・・・)が、大切な永遠の存在を危うくするのです。 只!御言葉の種を、しっかり受け容れ育てましょう。主よ‼️ |
| マタイの福音書 16章13節~28節 16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。 16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」 16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。 16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。 16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 |
2026年2月23日(月)リビングライフQT 今日のテキストは、余りにも内容が重厚すぎて、短い黙想メッセージでは、書き表せない思いが致します。 ☆ペテロの告白『あなたは生ける神の子キリストです。』 ☆完全なまでの《人間》として群衆の前に顕れられて、崇められ … ☆驚異的徴(シルシ)を顕され ☆神の教えに敵対する者として迫害され ☆サタンの化身・・だと罵られ ☆モーセ以来1500年に亘って積み上げられてきた、律法を蔑(ナイガシロ)にしたと、罵られ・・・ この様な混乱した見解が飛び交う(彼らの行動・言葉は殆どは、神の御計画を破壊するものでした)中で、このペテロの告白は、今の時代の教会の一貫した信仰告白です‼️ ここに教会の始まりを観るのです。 主イエス様はこの告白に対して・・・・・ 18節『わたしはこの岩《ペテロの告白⇒あなたは生ける神の子キリストです。》の上に、わたしの教会を建てます。黄泉の門(サタンの総力を挙げる敵対陣営)もそれに打ち勝つことは出来ません。』 今、私達はこの教会の中に生かされているのです。誰が・何が、あなたに敵対出来ましょうか。 イエス・キリストの元で安住しましょう❗この御方の元で安心しましょう。 なぜ主イエス様は、・・・まだ、この事は誰にも言ってはならない‼️と、強く言われたのでしょう。 端的に言えば、その理由は・・・・ 『《十字架》とそれによる《死》と《復活》更に《ペンテコステ=聖霊降臨》』が未だ明らかにされていないからです。 21節に、その始まりとなる、神のこれからの御計画(21節⇒御受難・十字架・復活)を、語られたのです。 所が弟子達は、神の御子なる御方が、そんな敗北のような道を歩むはずがない❌・・・と、反論すると・・・ 「下がれサタンあなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神ことを思わないで、人のことを思っている。」と、激しい言葉で叱責されました。 このお言葉は、わたしは魂に強く響きました。・・・・ともすると、わたしは、教会は、クリスチャンは・・・わたしもクリスチャンの端くれとして、勝利出来ないと・・・思い、道が開けないと、解決の糸口が見つからないと、病や困難が中々解消しないと、[証が立たない涙]と、敗北意識を持ちやすいものです。 しかし、サタンは、イエス様を、完全な敗北の中に埋め込んで勝利したかに見えました。 弟子達も、全てが終わったと、失望のどん底を味わったのです。 しかし、神の御計画は、サタンの100%の勝利に見えた…を、完全に覆されたのです。それが復活です。正に、サタンのあらゆる手立ては100%敗北したのです。 最早、教会は、勝利者イエスの完全な足台となったのです。あなたはその中に包まれているのです。 《信じてますか‼️》 あなたはイエス様についていきますか・・❗ 十字架を負って・・・‼️ かっこ良く、十字軍のような十字の旗印を担いでではないのです。あなたの十字架を負って・・・それは、正に敗北(病・試練・迷い・躊躇・・・)等、心地良いもので無い、困難の中を、勝利の主イエス・復活のイエス様を見上げての、闘い・前進なのかも知れません。 しかし、その向こうには、異次元(想像を超えた)の勝利が待っているのです。 28節~このお言葉は何を意味しているのでしょう。・・・・⁉️ 明日コメントしましょう。黙想して考えてみましょう。 |
| マタイの福音書 17章1節~13節 17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。 17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。 17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。 17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。 17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。 17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」 17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」 17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。 17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」 17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。 |
2026年2月24日(火)リビングライフQT 先ず、昨日のテキストの最後の節・・・28節『ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに 来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。』についてですが、二つの意味に取ることが出来ます。 ① 先ず、《人の子が御国とともに来るのを見るまで》これは何を意味するか・・・❓ 何よりも先ず思い浮かぶのは、イエス様の復活と、ペンテコステの御霊の注ぎです。 これは正に、神の国が《教会》として、この世界に始まり、そこが正に、神の臨在する新しい世界として、歴史に展開したのです。ですから、それを見る‼️と言うのは、弟子達でした。 ② この出来事は、終末に預言されている。イエス・キリストの再臨と、その出来事に始まる救いの完成と、神の創造のみ業の完了を意味してます。 《死を味わわない人たちが》と言うのは、終末(キリストの再臨)の時に、生きている人達は(艱難時代・終末の大混乱)を、護られ生きぬいて、キリストの再臨と神の創造のみ業の完成を観る・・・‼️ と言うお言葉です。 さて、改めて今日のテキストをお読みください。 ガリラヤから100km以上も北のピリポカイザリヤに行かれたのは、弟子達への訓練と、学びの為でした。そこでイエス様は、栄光の神の御姿として、御自身を顕されました。 主を挟んでモーセとエリヤが顕れ、更に、神の栄光の✨が包んで、天からの声(父なる神の御声)✨✨ 弟子達はこれ以上無い、神聖さと、権威と、厳かさに触れて、主イエス様が、神の御子権威あるお方・・・だ‼️と全身で見・聞き・経験したのです。もはや疑う余地のない立場に立ったのです。 実は、これが《教会》であり《主の弟子=クリスチャン》なのです。それが信じているあなたなのです‼️ 旧約の時代に、終わりの時にエリヤが再び顕れ・・・と言われてきたが、そのエリヤは、パプテスマのヨハネだ‼️と、主は語られ、今や、神の終末の御計画が、始まった・・・と、語られました。 2000年前の主のお言葉は、永遠の時空を超えて、今の、これからの教会にも語られているのです。 身を引き締めて、イエス様の御言葉、又聖書の福音(神の言葉)に、魂を注ぎましょう。 |
| マタイの福音書 17章14節~27節 17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、 17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。 17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」 17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。 17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」 17:21 ☆ 17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。 17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。 17:24 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」 17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」 17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。 17:27 しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」 |
2026年2月25日(水)リビングライフQT 今日のテキストで、気を付けねばならないのが、てんかんの病と、悪霊の働きです。 総合的には、神に愛されている民(人類)が、その平安を妨げられるすべてのことは、神に敵対するサタンの業ではあります。 古代世界では、病は全て、悪の霊の働きだと解釈されていましたから、この様に記録されているのです。 今の時代ならば、あらゆる医学の進歩で、《病=人の健康が妨げられる状態》は、肉体のメカニズムが、バランスを崩した状態を、総称した言葉ですね。細菌・ウイルス・外傷・過労による肉体の破壊・・・と しかし、元々、創造主(神)により祝福を受けて、生きる者となった人は、健康だったはずです。 しかし、肉体より先に、魂が神に背き罪を犯した(神から離れた)ところから、命のバランスが崩れ初め、病が人生を蝕むようになったのです。 その様なこ とを念頭にすると、イエス様の病との遭遇は、正に、悪の霊との対決なのです。 弟子達はこの現実を目の当たりにしながら、永遠の神の力と世界を、驚嘆しながらも、神の国が到来したことを、魂に刻まれたことでしょう。 この姿が神の国の到来した現実なのです。 即ち、教会は、創造者なる神が、御子イエス・キリスト様を通して、永遠の神の国を顕されたのです。 教会(クリスチャン)は、この神の国を人々に示し、証し、拡げるために召し出されたのです。ですから、サタンを排除する力を与えられているのです。 《からし種一粒の信仰》があれば‼️それが、20節に言われた・・・ この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。・・・と 、言われた主のお言葉通りなのです。 でも、未だはっきりと見えてこない主イエス様の御思いが分からず、弟子達は、御受難の話しをされても、敗北的感覚で悲しんだのです。 ここで、ユダヤ教の本山、エルサレムの神殿は、イスラエルの民の信仰の原点で、全ての民は神への感謝を捧げ、神の民であることを告白する証として、神への捧げ物をする義務を負っていました。それによって、神殿の維持や祭司制度が、護られていました。 イエス様は、御自身が神から来られた方だから、そして、弟子達は、神が選ばれた、神の国の僕(スタッフ)だから、神殿税を納める必要はない・・・と、おっしゃりながら、27節の奇跡の予告を語られて、人々をつまずかせないように、・・と、税を納める様に指導されました。 福音が妨げられないために・・・ 今日のテキストを通して、神の国の民がこの世に生き、福音に仕える時の、具体的対応の知恵を学ばせられますね。 その中にも、クッキリと、キッパリと御自身の神としての主権を、明らかにされています。私達も、高慢にならず、権威的にならず、敬虔に、神の主権の元に仕えて参りましょう。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 18章1節~9節 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」 18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。 18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。 18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。 18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。 18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。 18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。 18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。 |
2026年2月26日(木)リビングライフQT 今日のテキストの、1節~4節の教えは、読みながら・・・魂がチクリチクリと、針で刺される思いが致します。 年齢を重ねることは、それだけ、沢山の出来事に遭遇し、多くの経験を重ねることになります。あの、81年前の大戦に敗れ、焼夷弾で家財を全てを焼かれて、家族8人命からがら親戚知古を頼って、転々流浪の身から、教会を生み出し、その中で育ち・・・ この様に書き出すと、際限なく様々な経験や記憶が湧き出し、ついつい、自慢話やトピックで、周りを飲み込んでしまう、思い《驕り=おごり》が再燃する自らを、忌まわしく思うのです。 いつの間にか、自分がたいそうな事績を積み上げて来たような、錯覚にのめり込んで、言葉の上では、『神様の憐れみ・恩寵』と、説明しながら、心の奥深くでは、自慢げな思いが頭をもたげるのです。正に、弟子達が主に問うた「誰が一番偉い・・・?」と、その答えを期待して待つような、全く愚かな心が、内に潜んでいることを、あらたにチクリと刺される思いなのです。 改めて、《幼子》の様でなければ・・ この世の家族・仲間・学校・会社・地域・組織・・・では、競うか否かは他にして、周りより優れていることが、認められ、受け容れられ、評価されるでしょう。 宮沢賢治は、その辺りの心の醜さを、[ドングリと、山猫]の中で、どんぐりの背比べで、言い表していますね。 (作者宮沢先生のお話の結論は、ドングリの背比べで、終わるのではなく、結局一つ一つが価値ある独自の唯一無二の存在だ‼️・・・と言う教えなのです。) イエス様は、天の御国で受け容れられるのは・・・子ども(親⇒創造主なる神に全く信頼して)のように、自分を低くするもの・・・が、一番偉い‼️ ですから、この様な幼子を迎え、受け入れる者を、イエス様はお受けくださる‼️・・・と。 2026年度の北九州シオン教会の、総会議案書の新年度の方針・・・の中に、全国の教会の半数が教会学校(日曜学校)をしなくなった・・・と、記してありました。ハッとさせられ、教会はイエス様の懐です。神の霊のリバイバルは、ここから・・・と、チャレンジを受ける思いです。これからの時代の子供達を、迷わない光の道に導く事を、祈る教会にならねば・・・と、深く思いました。 7節~9節は、クリスチャン(私・あなた)として歩む、一日一日が、神の国の民(の指標=模範?)として、魂の乾く人々の目標となるだろうか・・・❗と、 一番大きな《罪》は、神に創られた《人》を、つまずかせる者なのです。私達、主の僕とされた私達は朝毎にイエス様の血潮に洗われたことをしっかり確認し、主の霊に導かれて、家庭に学校に社会に地域に、送り出されたいですね。 主よ‼️今日も新たに御心に包んでください。 アーメン‼️ |
| マタイの福音書 18章10節~20節 18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 18:11 ☆ 18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。 18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。 18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。 18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。 18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。 18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。 18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」 |
2026年2月27日(金)リビングライフQT 今日のテキストには、三つメッセージが語られています。順次見て参りましょう。 ① 10節~14節 現在、世界の総人口は、82億3200万人ですが、イエス様の時代には、推定ですが、2億人程度だったとされています。 何れにしても、今朝のテキストの《小さい者達》と言うのは、子供を指しているのではなく、・・・億人・・・とも言われる人類の一人一人を指して、《小さい者》と仰ってるのです。 その小さな人々の中の一人を、主なる神は、かけがえのない‼️と言う言葉では言い表せない思いを込めて・・・ ☆軽んじてはならない ☆迷った一人のために ☆滅びることを望まれない‼️ 何と愛に満ちたお言葉でしょう。 人類の歴史は、戦争の歴史でした。世の終わりだと言われる今の時代でさえ、更に激しい闘いと殺戮がアジアでヨーロッパで、アフリカで・・・毎日何百何千という市民が、戦争と紛争で命を落としているのです。主なる神が、《小さい者達の一人》と、言われたその一人一人が、利権のために、一人の人の主張のために、いとも簡単に命が潰されている・・・書きながら胸の潰れる思いです。 主御自身が、戦場の中を巡りながら、傷つき血を流す人の側に、膝をついて涙するお姿を想像しています。 戦争はダメ 勿論そうですが、今日私達が魂に刻まねばならないのは、毎日の生活の中で、家族・隣人・周りの人々・友人・知人・・・・あらゆる身近な人々を、私達はどの様に心に留めているだろうか❓ あなたと同じように、イエス様の愛と救いの恵を、分かち合えているだろうか。 あなたは御国の特権を得ていて、友は、家族は・・・・・❓ イエス様が、一匹の迷い出た羊を探す・・・・この喩え話こそ、神の愛の御本質なのです。 御子が御位を捨てて、人として罪の世に顕れた・・・これが、迷える一匹の羊を探される、イエス様の御姿なのです。 主よ、ここに私が居ます。私を御遣わし下さい ② 15節~17節 もし、あなたの兄弟(同じ恵みに与っている)が、罪を犯しているなら、その事をはっきりと示し、神の恵と赦しに立ち返るように、説得する・・・力及ばなければ二人更に三人で、導きなさい。それでも、心頑なにするなら、教会(神の家族の交わり)に持ち込んで、祈り皆で悼みを分かち合い、それでも心頑(カタク)なに するなら、神の家族としての 交わりから、出しなさい この厳しい忠告は、神の国(教会)の中にサタンの座を残さないためです。 イエス様は、教会(地上の神の国)を、こよなく愛し、教会を通して御自身の愛を、全ての民に与えるために、選ばれたのですから、非常に厳しく、主の御国を護られるのです。 ③ 18節~20節 この様に、こよなく愛される《教会》に、神の国の強い権限を与え、委ねられているのです。 心一つにして、祈り計画し、世に告げ知らせる福音は、そのまま天の御国の権威の下で、受け入れられる‼️ハレルヤ‼️ 今や、教会(組織や会堂等ではない~それを超えた主を愛する人の集まり)の中に・・・それが多くの人でなくても、二人・三人でも・・・イエス様の御名によって集まるところに、臨在される‼️ 何と言うお約束 ともに祈りましょう。 証し合いましょう。 そして主を喜びましょう。 ハレルヤ‼️ |
| マタイの福音書 18章21節~35節 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」 18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。 18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。 18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。 18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。 18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。 18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。 18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。 18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。 18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。 18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。 18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』 18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。 18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」 |
2026年2月28日(土)リビングライフQT 《赦し》 に関する主イエス様の教え‼️ 人と出会い、人との関係で、最も対応に困難なのは《・・赦す・・》と言うことです。これは、人間関係の中で、最も困難な課題ではないでしょうか。 《赦す》と言う言葉に類似した言葉がいくつかありますね。 ☆見逃してやる ☆許容する ☆大目に見る ☆諦める ☆飲み込む・・・・ 何れも、内容は類似(似た)したもので、感性・感情を刺激して、負の(マイナス感情)感情に入るギリギリの感情の域内に留まることの出来る、制御範囲の感情を指しています。 ペテロがイエス様に問い掛けたのは、正にこの様な感情を指しているのでしょうか・・?。 即ち我慢が軽かろうが重かろうが、[許容範囲]だと言うことです。 ペテロの問い掛けは、《赦す》と言う、感情行動が、何処まで許容される範囲か・・・❓お答えを、主に求めたのでしょう。 イエス様のお答えは、赦しに範囲があるものではない❗完全な赦しとは、7回を70倍⇒《限度無し・・・》即ち、《7》は完全数です。ある意味で・・・無限を意味します。 イエス様の福音は、《赦し》は、一度で無限・・・を意味しているのです。 《福音》⇒は、正にこの事実を指しているのです。それはやがて、イエス様によって十字架上で明らかにされる、《永遠の罪の赦し》を指し示しているのです。 弟子達は未だ未だこの事に気付かないままでしたが・・・。イスカリオテのユダも、赦されていたのです。(時を超え-永遠-)・・・しかし、彼はその時、自らの魂の汚れに嫌悪して、絶望して、自ら命を絶ったのです。 一方、ペテロもイエス様を知らないと、否定しました、ヨハネは、掴まれた上着を脱ぎ捨てて、逃げて行きました。他の弟子達も散り散りに逃げ去ったのです。7回を70倍‼️の、意味がお分かりですか。 私達の、その悪しき思い、悪しき行状、隠れた罪、争い、戦争・・・はその醜さを実感して、自虐的(自分が赦せない)になって、自らを責めたり、又他人の感情・敵害行為を赦せないで、その想いが復讐へと、踏み出してしまう 人間世界には、この様な醜い報復感情が、世界を破壊(破滅)へと、押し流していることに、気付かねば成りません。 それを止めるのは、ただ十字架の贖い(私達の身代わり)の死‼️あるのみです。 イエス様が《7回を70倍するまで》と仰ったのは、正にやがて、御自身が顕される、十字架の贖いを、意味していたのではないでしょうか‼️ それに比べて、イエス様が喩えでお話しになった内容は、極端な例なのではなく、この様な事例がありがち、として、語られたのです。 真に愚かしい話しではありますが、巷には、現代にも現実化するものだと言えましょう。 主の最後のお言葉(35節)の前に、どの様に申し開きが出来るでしょう。 わたしは・あなたは、(愛と聖と義に満ちた)神の御子が、十字架の上で私達の罪を身代わりに受けて、裁きの死を受けられて、《赦された》者です。 主よ‼️ 有り難うございます。赦せないことが何処にありましょう。あなたの中に何時までも、居らせてください。 アーメン‼️ |