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力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
          (新改訳聖書2017)
    

北九州シオン教会

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マタイの福音書19章1節~12節

【新改訳2017】
マタ
19:1 イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。
19:2 すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。
19:3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
19:4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
19:5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
19:6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
19:7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
19:9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
19:12 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」
 2026年3月1日(日)リビングライフQT

ガリラヤ地方での伝道にひと区切りつけられ、ガリラヤ湖南岸まで下り、ヨルダン川を渡られて、南へと移動されました。この地方は、イエス様がバプテスマのヨハネから、洗礼を受けられた所でしょう。
ヨルダン川を何度も渡河しなければならないのに、なぜ主はヨルダンの東側をエルサレムに向けて、旅されたのでしょう。
その理由は、ヨルダン川の西岸は、サマリヤ地方で、イスラエルがソロモンの死後、分裂国家になったとき、このサマリヤは、北イスラエル王朝の中心となり、異教徒(異邦人)の強い影響下で、北王朝はまことの神に背き、偶像を礼拝し、南ユダ王国では、異邦人以上に汚れの民と見られていたのです。
しかし、イエス様は、良きサマリヤ人の喩え話をされたり、別な時には、サマリヤを通られてエルサレムへと下られる途中、サマリヤの女性を導かれ、サマリヤにリバイバルが拡がったこともありました。
しかし、得てして、サマリヤ通過は、問題が起こりやすいので、ユダヤ人はサマリヤ通過を、避けていたのです。
ヨルダン川東岸の道は、ベレヤ地方から、かつて、イスラエルの民がヨシュアに導かれて、川が堰止められ、渡った辺りから川を渡り、エリコを経てユダヤの都エルサレムに入る道程です。
今日のテキストでは、エルサレムには入られないで、町々を巡られ、病人を癒し、神の御国の福音を語られていると、またまた、ユダヤ人(パリサイ人でしょう)がやって来て、質問を投げかけてきたのです。
ユダヤ人達が、問い掛けたことは、《離婚》に関する善し悪しでした。彼等の質問の裏側には、律法の解釈で、離婚の『善し悪し』の項があるのか否か❓…と、探るような問い掛けに聞こえますね。
イエス様のお答えは、父なる神の創造の定め(原点)は、男と女がそれぞれ出会って結ばれたなら、二人は一つ家を創造する一つの身体(家=家庭)一体となる。…と
5節で言われました。
これが、結婚の大前提なのです。即ち、結婚は神の創造の業に参与する、人の最大の恵が与えられているのです。
そしてその《家》こそ、神の創造の業を継承する、大いなる恵みの業なのです。
この主とユダヤ人の対話は、男性優位の社会状況の中での、遣り取りなので、女性の立場からのコメントは記録されていませんが、、同じ定めでしょう。
『家=家庭=家族』は、個々への神の創造の業により、命の営みを委ねられていますが、この与えられた業を整えて、継承するために与えられたのが・・・家庭・家族・親族・・・と言う、新しい社会が産み出されるのです。
その社会は人と人との関係で生み出される、新しい創造社会なのです。
その為、社会が守られるための〈定め・約束事・契約〉などが破壊されると、大きな傷となるので、律法で〈離婚〉についての、定めが設けられたので、この定めが優先されるものでは無いのです。
更に、モーセの時代から3~4千年の人類の歴史の営みは、罪の蔓延による、社会の歪みや、病、経済の歪み、人の心・魂のひずみ等により、社会の原型(最小単位である家庭=夫婦関係)に、多くの要因が降りかかり、神の祝福された家庭が壊れるのは、悲しい姿です。
しかし、イエス様は、その中にも愛と赦しと癒しを持って、御手を差し伸べ、一人一人を御国の民として、導かれ回復されます。
イエス様は、個々の人生(男性・女性)を、深い愛と憐れみを持って導いておられます。
主の深い愛をもって、周りの方々と慈しみの心でお交わりして参りましょう。
 マタイの福音書19章13節~22節

19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。
19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
 2026年3月2日(月)リビングライフQT

 イエス様と子供達‼️
子供の祝福を願うのは全ての親の姿ですね。
障がいを持ちながら、成長された方の親御さんが、この子より10分でも、長生きしたいと、言われていた姿を思い出しました。
テキストの、人々が子供を連れて来て、イエス様から祝福を受けたいと願ったその姿に、ほのぼのとした情景を感じますね。
しかし、弟子達はそれを叱った
何と言う愚かしい行動・思考・感性なのでしょう。イエス様を取り巻く、《親・幼子・主イエス様‼️》の構図は、正に、平和・祝福・・・そのものではないでしょうか。
《天の御国はこの様な者たちのものなのです》
この様な者⇒子供・・・自分の意思では何も望まない・求めない・・・ただ主イエス様の御手に抱かれて、主のお顔をニコニコして見上げる、あの清らかな姿‼️最高の絵にも成る、愛と平和の神の世界です。 
幼子を抱いたり、側に観たりしたとき、《神は愛なり=新聖歌89番》を歌ってあげましょう。賛美歌なら何でも良いですよ‼️
同時に、自らの中に失われているかも知れない、純粋な光を探して見出しましょう。
さて、次の項を観てみましょう。
「主よ❗永遠のいのちを得るためには・・・どんな良いことをすれば良いのでしょうか。」
この質問は、信仰心から出た質問ではないですね。
死んだ後、天国に行くためには・・・❓・・・
誰もが思い潜在的、死による終わりへの回避です。それが宗教を生み、倫理となり、律法となり、信心となってきたのです。
テキストの世界は、聖書の環境は、1500年も前の、旧約聖書を土台とした、神の国・聖書の世界です。
その上、この人は、モーセの律法を忠実に守り、神の民としての誠実な人生を歩んできた人のようです。
この人が気付いてない、大切なものをイエス様は気付かせてあげたのです。それは、財産を沢山持っていた(裕福)‼️事ではありません。
彼は自分がなにを求めているのかが、分からないのです。結局、彼は神の国(永遠のいのちを=復活のいのち)を、望みながら、永遠の優先順位が分からなかったのです。
神に創られた者(人=あなた・私・・・)は、神(永遠)に帰るのが、神の御計画の人生なのです。しかし、人は《生》を受けた後、多くの物・知恵・友・立場・夢・理想・・・を、手放せなくなり(死を恐れ)・・・神の与えて下さる、永遠の神の国を、望みながらも、最優先順位に挙げられなくなったのです。あなたは如何ですか?
※ペテロ・ヨハネ・アンデレ・ヤコブは、網も船も直ちに捨てて、従ってきました。
マタイは収税所から、そのまま主に従いました。
他の弟子達も又、それぞれの事情を超えて、直ちに・・・
今、私たちの日常で、礼拝に参加し・毎日の祈りの時を主の前に、聖書を通して主を想い、家族に友に、人々に・・・主の愛を届けることに躊躇無く歩めているでしょうか・・・
主よ❗御国の民として、今日も共に歩ませてください。
 マタイの福音書19章23節~30節

19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
 2026年3月3日(火)リビングライフQT

 昨日のテキストに登場した、資産家の青年が、天国(永遠の御国)に入るのが難しい(即ち、全財産を貧しい人たちに施してしまわなければ、御国には入れない❓)と言われた、イエス様のお言葉に失望して、悲しみながら去って行った姿を観て、弟子達は戸惑っていた時に、更に主が言われた
『金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。』
えっ(;゜O゜)
あの巨大ならくだが・・・・❓
[針の穴]⇒これは、縫い糸を通す針の、直径0.5mmにも満たないあの穴???
勿論その様に考えても良いのですが、実は《針の穴》とは、強固な城壁に囲まれた、エルサレムに入るためには、幾つかの門を通らなければならないのです。夕刻から夜になると、城門は閉じられ、緊急のくぐり扉があるのですが、それは、人一人が頭を低くしてくぐる、通用門・・・それを、通称《針の穴》と言っていたのです。縫い針の穴でも、この様な通用門でも、らくだは絶対に通れません
ですから極端に困難な題に対して、この様な喩えが使われたのです。
弟子達の驚きはいかばかりだったことでしょう。弟子達にとって、神の国に誰が入れるのでしょう❓絶望の極みでしょうね。
イエス様は、戸惑い、で目が泳いでいる弟子達の眼を、その奥の魂の暗黒に、閉ざされた中で手探りする弟子達に・・・・・
『それは人にはできないことですが、神にはどんなこともできます。』・・・・と。
ペテロは、主のお言葉の意味が、未だ、十分理解できない中から、自分の従ってきた実績をアピールして、主からの反応を探っていますね。
すると、イエス様は、ペテロの言葉とは関連なく、・・・《私に従ってきたあなた方も・・》・・・と、祝福の約束を語られたのです。
主は、この時点で、完成ではなく、最後の日(召天-死-)まで、私利私欲なく主に従った献身を全うした時(実績)、御国の門がひらかれる・・・と、仰ってるのです。(29節)
恐らく、このお言葉の前に、ペテロの語った27節~の言葉は、むなしく響いたことでしょう。
即ち、天国(永遠の御国=神の御国)は、人の実績によって得られる(勝ち取れる)ものでは無く、神の愛と赦しと、主権によって、個々に与えられる恵みなのです。
   ハレルヤ‼️
           アーメン‼️
 マタイの福音書20章1節~16節

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

 2026年3月4日(水)リビングライフQT

 この喩え話は、 どの様な説明されても、納得に到る理由が見つかりません。
この箇所を説明するのに、夕方雇われた者、
午後から雇われた者・・・彼等は僅かな時間しか残されていないから、一生懸命働いた❗夕方の人はましてや、息つく間もなく働いたでしょう。
朝から仕事に就いた者とは、比較にならない熱心さ・・・それが同じ賃金となる理由だ・・・・と、説明を聞いたことを思い出しました。
その様な説明や合理的解釈だと、イエス様の喩え話の意味が崩れてしまうのです。
このお話の最大のポイントは・・・・
主人(雇った雇い主)と、雇われ人との関係が、焦点なのです。
それを両者の関係を、象徴的に読み込んだお話しなのです。
雇われた働き人と、雇い主の関係が・・・
雇い主の言葉に表されています。
14節・・・『わたしはこの最後の人(夕方5時頃に雇われた人)にも、あなたと同じだけ与えたいのです。』
《与えたい‼️》これが主人の深い愛です。
これは働きに応じた報いとしてではないのです。《同じだけ・・・与えたいのです‼️》それは主人(父なる神)の思い‼️なのです。
あなたにも・・私にも・・
そうしたいと、仰るのです。改めて今在ると思うと、唯々平伏して、主を賛美し感謝して、この御方に命を捧げて仕えたいと、新たな感動を覚えるのです。
主イエス様は、あなたを御国に迎えたいと、あなたを選ばれたのです。
私は今は、長年主に仕えた伝道者ですが、元は、滅びの淵にあった、一人の罪人だったのです。振り返って思う度に、憐れみの主の愛に生かされている今が、何と幸いな者だろうか・・・‼️と、
心震えるばかりです。ハレルヤ‼️
 マタイの福音書20章17節~28節

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

 2026年3月5日(木)リビングライフQT

 主イエス様は、今までにも、御自身がユダヤ指導者達から、迫害され、捕らえられ、十字架刑により死刑にされるしかし、その中から甦る‼️・・・・と、語られた事がありましたが、今再び、この事を彼等に告げられたのです。
このお言葉は、彼等にはこれ以上ない、大切な備えの警告だったのです。
所が、この出来事が割り込むように、記録されていますね。
弟子のヤコブとヨハネの母親が、異次元とも言える、願い事を、主イエス様に申し出たのです。
19節と20節とは、この間に何か他の文章があったのに、飛ばされてしまったのか・・❓と思うほど、主の厳粛なメッセージと母親の言葉(申し出)は、余りにも人の欲からにじみ出た、醜い(欲望湧き出るような不快さを覚える、言葉に聞こえます。しかし、これがこの世に生きる、生き方なのでしょうか❓❓
イエス様が、全ての人(罪に沈んだ人類)の、その罪の刑罰を身代わりとなって(十字架の苦しみを)受ける・・・そして、(罪の裁きとしての-死-)を、受けられる・・・と。余りにも厳粛な御受難の意味を語られている中で、母親のこの願い事は・・・何と言う無粋な、願いなのでしょう。
イエス様は彼女の言葉に対して、母親に対してではなく、弟子達に対して、質問されました。・・・『あなたがたは、この苦しみの杯を呑むことが出来ますか❓』何と弟子達はオウム返しに「出来ます。」と応えているのです。
わたしはこの箇所のやりとりを何十年も、読んできましたが、・・・木に竹を接いだ・・・即ち、チグハグ・・・さを、拭いきれません。
他の弟子達は、苛立ちと怒りを表した。
この怒りは一体なんでしょう❓
イエス様は、彼等に、御国の奥義は・・・支配(権威・権力)の座に着くのではなく、《仕える》事が、わたしの道なのです。・・・と、語られ、このわたしについてきなさい‼️と、語られました。
あなたはクリスチャン生活に、なにを求めておられますか。
主の歩まれた路を辿りましょう。
   ハレルヤ‼️
 マタイの福音書20章29節~34節

20:29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
20:30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
20:33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
 2026年3月6日(金)リビングライフQT

 ヨルダン川東岸を南下して、ギルガルの渡しを渡り、間もなく古代都市(ヨシュアが攻め落とした要塞都市)エリコで御国の福音を語り、更にエルサレムに向けて東へと進んだとき、二人の盲人が・・・・
『ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください。』離ればなれにならないように手を握り合って、盲人二人が、群衆に飛び込むよむうに、叫んで分け入ってきたのです。周りの人々は、はた迷惑と、押し黙らせようとするが、一層激しく・・・・
千載一遇❗この時のために生きてきた‼️・・・とばかりに叫んで止まない二人。
イエスは立ち止まり・・・『わたしに何をしてほしいのか。』
直ぐに答えが・・・『主よ。目を開いていただきたいのです。』
彼等の人生の一番の、不幸の原因は《目が見えない》事なのです。
すると、イエスは深くあわれんで、彼等の目に触れられた。
その御手は、創造の御手です‼️
彼等の目は、たちどころに見えるようになった。創造の業は、天地創造の時で終わったのではないのです。あの偉大な創造の御手は、今も、主なる神の主権の中で、動いておられるのです。その御手に触れられたとき、人は、この創造主の御跡を辿る人生へと、歩み始めるのです。私もそうでしたし、今もそうです。それは、わたしの場合は、伝道者としての道だったと言うことで、それぞれの道に主はあなたを導かれます。しかし、どの道にも、主が前を歩んで居られます・・・
今、あなたに、主が側に来られて『何をして欲しいのか❓』と、問われたら、あなたは何と答えられますか・・❓
あなたの人生(今を)一番困難にさせているのは何でしょう?
経済?  健康?  人間関係?  家庭?  ・・・
この盲人にも、様々な問題が彼等の生きることの、困難を産んでいました。食べること・差別されて人として扱われないこと、家もないこと、物乞いの屈辱の中で生きること・・・等々
私達には想像もつかない困難の泥沼にあったのです。
しかし、それらの諸問題からの救済を求めることは、御利益願望で、その個々の解決・解消では、何も人生変わらないのです。
彼等は知っていました。
自分達の《1番の不幸の原因》は:::目が見えない:::事だと❗
『主よ。目を開けていただきたいのです。』
《主よ‼️》この呼び掛けこそ、信頼と信仰のほとばしる言葉でした。最初の《ダビデの子よ‼️》も、同じ魂の底からほとばしった叫びだったのです。
あなたにとって主イエス様はどの様に呼ばれるお方ですか。
今一番求める(最大の妨げとなる-問題-)ことは・・・・❓
創造主なるイエス様の前に心を開いて訴えましょう。‼️
 マタイの福音書21章1節~11節

21:1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
21:2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
21:4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
21:5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
21:6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
21:8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
21:9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」
21:10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
21:11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
 2026年3月7日(土)リビングライフQT

 イエス様は、洗礼をお受けになられてから、ガリラヤを中心に、神の国の到来(預言の成就を遙か彼方に待つ、或いは、死後に迎えられる所ではなく・・・)を、今ここに成就(今ここに在る)した・・・と、語り続けられたのです。そして、年一度の、過越しの大祭の度に、ユダヤ・サマリヤ・ガリラヤ・シリヤ・エジプト・クレネ・メディア・メソポタミヤ・アジア・・・の散らされたユダヤの民の大祭❗のために、エルサレム詣でに来る、イスラエルの民に、神の国の福音を語るために、エルサレムに行かれたのです。
このテキストのエルサレム入城は、三度目のエルサレム宣教の旅なのです。
しかし、前の二度のエルサレムへの旅は、ごく普通に群衆にまぎれて、エルサレムに入られ、様々なあつれきはありましたが、際だった反対や妨害は記録されていません。
ところが、今日から始まるエルサレム入城は、何かしら、緊迫した中での始まりなのです。
即ち、主イエス・キリスト様の、御受難の始まりなのです。
既にイエス様の働きとその御業は、ユダヤ・イスラエルのみならず、地中海世界・エジプト・メソポタミヤ地方に広く知れ渡り、この過越しの祭は、今までになく、世界中の多くのユダヤの民、更に改宗した異邦の民が、一目メシヤにお逢いしたいと願って、エルサレム目指していたのです。エルサレムに近付くと、多くの民がケデロンの谷に開いた麗しの門から、入られる主イエスと弟子達、更に癒された盲人と、その奇跡に感動した人々が、イエス様を埋め尽くしたのです。
その様な事態になるのでイエス様は予め、ロバを連れてくるように指示されたのです。
しかも、馬ではなく、ロバ[権威とはほど遠い]に乗られて、群衆にまぎれて、弟子達とバラバラにならないためにも・・・
何と、その必然性から来る状況まで、旧約聖書に預言されたとおりに、成就したのです
(ゼカリヤ書9:9)
ゼカリヤは、紀元前6世紀前半の預言者で、メシアがロバの子に乗ってくる‼️と言うイメージをエルサレムの回復の預言として語っているのです。
今、私達は、終末の先の見えない時代に、生を受けていますが、イエス様の語られる終わりの日、使徒の働きの中で語られる、終わりの日への警告、弟子達・パウロ先生の書き送られた、教会信徒への手紙、又聖書巻末の黙示録の、終末への予言と警告も又、この様にして、確実に開かれ実現していくのです。
終末は、背く者には恐るべき審判ですが、信じる者には、永遠の栄光を賜る、希望と喜びの訪れです‼️救いの成就と、救いの完成に心向けて、感謝と希望に輝きましょう。
 マタイの福音書21章12節~22節

21:12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
21:14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
21:15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
21:16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
21:17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
21:18 さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。
21:21 イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
21:22 あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
 2026年3月8日(日)リビングライフQT

 二つのメッセージが、記録されていますね。
①有名な《宮清め》とそれに関連したメッセージ
②《信仰=信じると言うこと》へのメッセージ

①  イエス様は何故この様な激しい嫌悪を持って、この様な行動をなさったのでしょう。
(理由)  祭司・律法学者・律法に厳格なパリサイ人たちが、この(神聖)な聖所を、商売の市にしてしまっていたことに対する、怒りなのです。
神殿には、昨日も書きましたように、全世界から詣でに来るので、遠方の国々の人は、燔祭の動物を連れての旅は出来ないので、神殿に来て燔祭の動物を入手する為の市です。また、捧げる献金は、神殿に献げる為には、他国のお金(当時は紙幣はない)は、神殿に捧げるための、純度の高い、神殿硬貨に両替しなければなりませんでした。一年一度の神聖な捧げ物ですから・・・
しかし、この作業(取引)は、神殿の中(中庭)で行われていた・・・
恐らく、人垣が出来るような、大混雑から、場所を拡げた商売人達により、じりじりと拡がり、神聖な領域にまで侵入していたのでしょう。
しかし、そんな場所や物理的状況以上に、神聖な祷りの場が、形式的な宗教行事化した姿に成り下がっていたのです。
《愛と聖と義》に満ちた、厳粛な神の臨在は、最早何処にも見出せない、欲望と競争の醜い世界が拡がっていたのです。
《神》の前に[罪人]が、平伏す、厳粛な場ではなくなった、宗教慣習の場に汚されていたのです。
どんなに主は悲しまれたことでしょう。その悲しみを怒りに代えて、この様にされたのがお分かりになりましたでしょうか。
これを書きながら、私達の毎週の《礼拝》の在り方を思い描いていました。
礼拝の形式化は、世俗化と堕落の始まりとなりやすいのです。
私達の、神様に感謝し全存在を捧げる献身と、主を褒め讃える賛美と、御言葉(聖書)・主なる神の声に聴く心、その声に従う献身・・・毎週礼拝の中(通して)で、新しくされる‼️
この様なことを、このテキストの中から、考えさせられます。
15節の 子供達が『ダビデの子にホザナ‼️』と叫んでいるのを聞いて、祭司長・律法学者達は、ナザレの田舎のラビ(教師)に、神聖な呼び掛けをするとは…
不敬虔だと怒ったのです。
その声と、賛美を祭司長らに、『この幼子の方が真に神のみ栄えを知っている‼️』と、詩篇8編の2節を引用して、
肯定されたのです。

②  信じる‼️・・・と言うこと。19節~22節
無花果の実を求められたイエス様は、恐らくは実を結ぶ季節でないことを御存じで、このメッセージの題材となさったのでしょう。マルコの福音書では、季節ではなかったので・・・と、書いてあります。

21節と22節の 《信じる》と言う、素晴らしさを、印象付けられたのです。
ある熱心な?方が、22節の イエス様のお言葉を実証しようと、
友人の牧師に、この御言葉を実践してみると、直ぐ裏手に在る山を、あちらにある湾の中に沈めるように祈る‼️と、宣言して、熱く熱心に祈り始めて夜になった。「信じます!信じます❗信じます‼️・・・」そのまま疲れ果てて寝てしまった。朝眼が醒めて、直ぐに湾内を見、次に裏の山を見て曰く「やっぱり山は動いてない」するとその友は「やっぱりだって❓じゃあ信じてないじゃあないか」と言って、怒ったのです。
笑い話のような話しですね。
私は、今日まで、どれ程多くの、祈りの応えを見てきたことでしょう。
主なる神は祈りに応えてくださる唯一の神様です。
   アーメン‼️
 マタイの福音書21章23節~32節

21:23 それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」
21:24 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
21:26 だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」
21:27 そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。
21:28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
21:29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
21:30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
21:31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
21:32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
 2026年3月9日(月)リビングライフQT

 祭司長や民の長老達は、何とかして、イエス様の言葉じりを取ろうと、質問を放った。
しかし、イエス様は、御国の福音の働きを陥れようとする、一方的な彼等の言動に、隙を与えられません。
教会(私達)も、福音に生きる生活を送っていると、しばしば無理難題や、社会的宗教論で、私達の信仰の確信を揺さぶろうと試みて参ります。
その様な時、ここぞ❗とばかりに、真理の言葉で撃破しようと、試みては成りません。
福音の真理は、論破して伝わる(受け入れられる)ものではありません。かえって、彼等の偽りの鎧を頑丈にするばかりです。
福音は、愛をもって仕え・魂に触れ寄り添うものなのです。
祭司長・民の長老達は、ユダヤ教会挙げて、バプテスマのヨハネを迫害し、遂にヘロデ王の手によって、殉教へと追いやったのです。
ユダヤ教会の指導者達がこぞってヨハネを迫害したのは、彼等の教えや指導、生活態度に表れた欺瞞ギマン=ごまかし・・・を、ヨハネが責め・悔い改めを迫ったからです。
ヘロデ王もまた自らの罪をヨハネから責められたからです。
このテキストで 、ヨハネに対する彼等の欺瞞を、気付かせる為に質問されましたが、誰一人として、明らかにしなかった(わかりませんとごまかした。)のです。
即ち、心の暗闇に閉じ込めたのです。
イエス様は、心閉ざした彼等には、主も又、沈黙でやり過ごされたのです。
心閉ざした者が、悔い改めるのは、何と難しいことでしょう。

続いて、イエス様の方から、彼等に、問い掛けられました。
内容は、聖書本文をお読みください。ここに再録しませんから。
二人の兄弟が・・・・
☆一人は、父の要求に拒否を表したが、思い直して、その言葉に従った。
☆もう一人は、父親の言葉に、応諾しましたが、しかし、結局は無視しました。
この様な姿は、ユダヤ教指導者達を指摘し、(父なる神を肯定してはいるが、実際の生活の生き様を通しては、むしろ神の《ことば》には生きず、自らを利する自己中心的な生き方を歩んでいたのです。
主は、その欺瞞(ぎまん・ごまかし)の生き方を、ハッキリと指摘されたのです。
改めて、私達の《福音に生きる》と言う日々に目を向けて、進んで参りましょう。
どんなに教えと、奉仕と、信仰生活を重ねても、神の《義の道》に《従う》歩みでなければ、神の国は開かれないのです。
人(世)の賞賛・評価・・・は、神の国では、何も役に立たないのです。
主よ❗今日も、あなたのみ足の跡を辿って参ります。
 お導き下さい。
 マタイの福音書21章33節~46節

21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。
21:35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。
21:36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。
21:37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。
21:38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。
21:39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。
21:40 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」
21:41 彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」
21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』
21:43 ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
21:44 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。
21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。
 2026年3月10日(火)リビングライフQT

 喩え話(33節~41節)
この喩え話は、イエス様の働き、即ち、創造主なる父なる神が、ご自身の愛を世に顕すために選ばれた、イスラエルの民に、全ての民に与える、永遠の救いの道(神の永遠の御国に到る道)を開くために、その使命を委ねられた・・・その働きの成果を求めて、人を遣わした・・・
①  それが、モーセであり、ダビデ王であり、又、初期の預言者サムエルでした。また、その後も、多くの預言者や、教師を遣わしましたが、イスラエルの民は、彼等を排除したり、殺害したりしましたね。
その数々の歴史記録は、旧約聖書の中に、記録されてあり、この事実を、祭司長・パリサイ人達は知っていたのです。
②  37節の ・・・主人は「私の息子なら・・・」と、送られたのが、御自身なのだ・・・‼️と・・・
主イエス様は、深い悲しみと、神の憤りを持って、彼等の立ち返りのステップとなることを願って、このたとえ話を語られたのではないでしょうか。
お話の締めくくりには、怖ろしい結末を、神の怒りの思いを重ねて、語られたのです。
42節の ・・・『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった・・・』
(詩篇118:22~23)  の引用は、イスラエルの民の歴史の愚かさへの気付きと、《要の石》が、イエス様ご自身を示唆していることを、語られたのです。
③  43節~44節・・・は、ユダヤ指導者層への啓発と、警告だったのです。
しかし、何と悲しいことでしょう。この喩え話を聴いた人々は更に確信的に、イエス様への怒りと反抗をあらわにしたのです。
43節の 『神の国の実を結ぶ民に与えられます』の一文は、主イエス様を信じ、救いの路を辿る私達(教会)を指しています。私達は新たに、《ぶどう園=神の国=教会・福音宣教》の働きに、呼び出されている民なのです。心して、感謝に溢れ、福音に生きることから、多くの実を結ばせ頂きましょう。
 マタイの福音書22章1節~14節

22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
 2026年3月11日(水)リビングライフQT

 結婚式に招かれた、招待客に関する喩え話。
内容は、ここに再録しませんので、聖書本文をお読みになり、ご一緒に考えましょう。
《王》と言えば、絶対権力と、部下・支配の民・との間の、絶対服従の関係で繫がっているのが、普通ですね。所がこのイエス様の喩え話は、そのような関係ではなく、王に仕えるしもべ達の傲慢さに、驚きを感じますね。
実は、この不思議な喩え話は、何を意図するのでしょうか。
これは、昨日の喩え話に類似した、神の恵み深い愛の摂理に対して、心開こうとせず、歴史の中で築き挙げてきた、イスラエルの民の慣習と信条とに(最高の立場)固執する、愚かさを警告する為のものでした。
イスラエルの歴史では、神のことばを託された預言者や教師達が、民の指導者や、王達から、迫害されたり殺されたり、神の声に従わなかったりしたために、国を失う(滅ぼす=離散の民となる道を重ねてきていました)
その様な歴史を踏まえて、彼等の魂を目覚めさせようとされているのです。
さて、招いた者たちは誰も、祝いの席に来ないので、一般市民に声をかけ、宴席は満たされました。
しかし、その席の中に、礼服を着てこなかった人のいたのを観た王は、怒って追放した。
この席を満たした人々は、手当たり次第かき集めた、庶民でした。
とは言え、王の宴席に呼ばれたのですから、式服だとか礼服だとか、現代的な儀礼は問われないまでも、少なくとも、王の前に招かれたら・・と考えませんか・・・?
多分、用意もされたことでしょう。
ここでは、その様な様式のことが問われたのではなく、王の前に出る・・・・と言う、心の備えを示しておられたのです。
古代社会での王の権威は、私達が想像する以上の、厳しいものだったのでしょう。
イエス様のお話の核心は、 ・・・・
王の祝宴⇒神の国の祝宴⇒救いの恵(永遠の神の国)⇒教会の神の臨在⇒そこには、イエス様の十字架の贖いにより与えられた、救いの衣を着る・・・と言うことに繋がるのです。
善事善行・評判・捧げ物・・・が、神の恵の宴席の衣とはならない(通用しない)・・・と言うことです。
そこに身に付けていく唯一の、服装は・・・・❓
それは主の十字架の血潮で、浄められた、救いの衣だけなのです。
ハレルヤ‼️アーメン‼️
 マタイの福音書22章15節~22節

22:15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。
22:16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。
22:17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。
22:19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。
22:20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」
22:21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
 2026年3月12日(木)リビングライフQT

 イエス様の反論(答え・対応)には、驚嘆しますね。
イエス様を陥れようとする、パリサイ派の人々は、ヘロデ党の人々と一緒に、イエス様の所に・・・
※ヘロデ党
ローマから任命され、ローマ支配下にある政権でした。当時の新宗教と見なされた、イエス様の福音に、警戒と弾圧をもって厳しく制裁する政治を敷いていた、王党派です。その上、独立志向のユダヤ教(パリサイ派・サドカイ派・エッセネ派)に対しては、嫌悪感を持つ政治結社です。その様な犬猿の中に在るヘロデ党の人々と共同して、イエス様を陥れに来たのです。ヘロデ王は、ローマ皇帝(カエサル=シーザー)に評価されて長く王の地位を守りたいために、租税の徴収を徹底していました。
その流れに挑戦をしたのが今日のテキストです。
ユダヤ・イスラエルは、神の支配する神の国・都ですから…
世俗の王に税を納めるのは・・・?
「主よ、如何でしょうか・・・?」・・・と。
イエス様のお答えは、美事なものでした。
どちらに税を納めるべきですか❓
イスラエルの民は、ローマと神の宮とに、二重に納めていたのです。
その事を、逸脱せずに、カエサルのものはカエサルに⇒政治的受益分(地域の安定の為に国を護ってくれるローマの支配に)は、ローマに・・・
神の愛の御支配に感謝する、捧げ物は、神(神殿)に‼️
彼等は言葉を失って、その場を去った。
真に、人の知恵の浅はかさが、群衆の前に晒されたのです。
恐らく、群衆は、このやりとりを目の当たりにして、改めて、神の前に生きる事の大切さに、気付かされたでしょう。
今日、私達も《神のものは神に‼️》の主のお言葉の前に、新たに平伏すものです。
 マタイの福音書22章23節~33節

22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
22:27 そして最後に、その妻も死にました。
22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。
 2026年3月13日(金)リビングライフQT

 何と、驚くべき主の回答でしょう‼️

私たちクリスチャンも、心の何処かで、主のご再臨の時、死者の中から甦った、大群衆の中から、身内を探したり、連れ合いを探したり、友を探したり・・・・そして、再びその友や身内や愛する者と、再び顔と顔とを合わせて、逢いまみえることを、望んでいませんか。
日本の諺に『子は三界の首枷(かせ)』と言われてますが、三界・・・とは・・・①前世  ②生まれて死ぬまで(現世)  ③死後の世界(未来・永遠)を意味しますね。結婚もあの世(来世)までの縁・・・日本人はこの様な考えを根底に生きてきましたし、これからも変わらないでしょう。
しかし、創造主の御計画は、そうではないのです、日本の人間関係の根底には、仏教の世界観・・・もっと辿れば、中央アジアで栄えた、古バビロニア帝国を築いた、バビロン人の後続の民として、中央アジアからイラン、インド西部に 拡がり、インダス文明を築いた民(アーリアン人)。薄い黒人系から、アジア系の有色人種へと拡がる彼等の思想が、バラモン教となり、古代仏教の思想のベースとなったのです。所謂《輪廻思想》です。そういう拡がりの中で、家族(夫婦・親子・家族)の縁に対する、密な繋がりを、心に持つようになったのです。
一方、古バビロニア帝国の民は様々な民の混血で、白人系の人種の源流です。
その中から創造主なる神は、アブラハム一家を選ばれ、聖書の歴史・・・即ち、天地創造の神の存在信仰と、聖書を通して、創造の全民族に、届ける福音を、旧新約聖書を通して、ご自身を啓示するために、イスラエル(アブラハム・モーセ)を選ばれたのです。
解説が古代史にまで遡りましたが・・・・
イエス様は、今日のテキストでまたまた、主を陥れようと計る、今度は世俗派ユダヤ会派、サドカイ派の学者達が、いかにも神に与えられた家族を大切にしているかを、誇示するように、この様な質問を投げたのです。
イエス様に、
彼等は『私達は神から頂いた(合わせられた)家族を、大切にしていますよ‼️』とばかりに迫りましたが、主は一蹴されました。
29節『あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、御使い達のようです。』・・・・
このお言葉は、どの様なことを示唆しているのでしょう。
この箇所が、今日の大切なポイントなのです。
《アブラハム・イサク・ヤコブ》
彼等は、最早数千年前に、召された(死んだ)聖徒達です。
私達はその様に歴史を理解しますね。所が、主イエス様は、今も神の国の民として、アブラハム・イサク・ヤコブ・・・の神として、ご自身の中に交わり続けている‼️・・・と言われたのです。神の御子イエス様と、主を信じて召された友は、夫だった・妻だった・親だった・我が子だった…は、主イエスの御傍に寄り添って(これは想像的表現ですが・・・)喜び溢れる平安と賛美に満たされている‼️・・・と、言うことです。
別れを悲しむことはない、短い生涯を終えた者が可哀想なのではない、彼等は解放されている‼️
(別れは悲しいのですから涙しても良いのです。
しかし、彼等はやっと解放された完成の永遠に招かれたのですから・・・)
私達は、その様な輝く御国・永遠へと、愛する者を、送り出しましょう‼️
 マタイの福音書22章34節~46節

22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。
22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。
22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。
 2026年3月14日(土)リビングライフQT

 パリサイ派も  サドカイ派も、イエス様に論破されたので、元々同じ道を歩む仲ではなかった彼らが、団結して、この二派が共通としている、律法の心は何か・・・❓律法には、九百以上の、箇条が詰まっています。そして、彼等は、その一点一画でも疎かにするなら、神の国に入れない・・・と、教えてきたのです。
《律法で何が一番大切か》
主イエス様の答え:
『あなたは心をつくし、いのちを尽くし知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
最早、彼等は反論する統べもないまま、黙り込んだのでしょう。
今朝は、私達自身、この二つの教えをユダヤ律法だから、イエス様が語られたから・・と言う理由からではなく、創り主を慕い(愛し)、大きな愛を注いで、御創り下さった(創造された)お互いを、神の栄光の友として、迎え入れ、祝福の交わりに結ばれるのは、主なる神の創造原理の摂理なのですから。
何故人は争うようになったのでしょう。今の《イスラエルとガザ》《ロシアとウクライナ》《アメリカとイラン》今に始まった摩擦ではなく、長い人類の歴史は、常にこの様な摩擦に明け暮れて、その度に、幾千幾万の市民を失い、更に、御互いの中に憎しみを増幅させてきました。
イエス様のお答えが、二千年前も、今日も変わらず、どれだけ魂に響かせなければならないかを、肝に命じたいですね。
実は、この戒めは、国家間の問題に拡がる前に、各個人の間に根を張らねばならない、律法ですね。
☆今日、あなたの心の中に、受け入れたくない方は居ませんか❓
☆あの方には会いたくないと、心閉ざす方は居ませんか❓
☆あの方が居なければ、もっと平静に過ごせるんだが・・・・
私達はかつて、神の御子イエス様に敵対して(背を向けて)自らの道を歩いていた罪人でした。
それが今は赦されて、神の国の民とされ、平安の内に生かされているはずなのに、一人の受け入れられない人がいるため、平安と、勝利を、持てないとしたら、それは正に、最も大切な律法を守れてないからではないでしょうか・・・・・
今朝、私自身、魂の深みを探られる思いで、これを書いています。
これを読んで祈りましょう。
十字架の主を仰ぎつつ・・・

後半の42節~46節
ユダヤ教徒達には、民衆が《ダビデの子‼️》と、呼ばわり、(イエス様)を(キリスト)と、呼ぶ姿が、狂気の沙汰としか映らなかったのです。この様な謎かけのような、問いかけで、福音の妨げを排除された、主のお知恵なのです。
何時か、この謎かけが彼等の中で、開かれるときが来るでしょう。

明日(15日)のテキスト
マタイの福音書
       23章1節~12節 
 マタイの福音書23章1節~12節

23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。
23:2 「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
23:4 また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
23:5 彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
23:6 宴会では上座を、会堂では上席を好み、
23:7 広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
23:11 あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
 2026年3月15日(日)リビングライフQT

 当時のイスラエル(ユダヤ)の民は、旧約聖書(律法の書=創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記 )即ち、モーセの五書(トーラ)と呼ばれる、旧約聖書の五番目までの書巻、
これがユダヤ人の生涯必須の学びだったのです。
イスラエル(ユダヤ)の民は、このモーセの五書に包まれて、長い歴史を築いてきたのです。それだけに、宗教(ユダヤ教)の指導者階級・・・祭司・律法学者パリサイ人・サドカイ人の存在は、信仰だけではなく、生活の細部に亘って、干渉と指導する事が常だったのです。
日本人もどこか、似た姿がありますね。・・・
8節~先生    9節~父    10節~師・・・・と、これ等の指導者達を、呼んでいたのです。
日本人もまた、《先生》《・・・の父》《師匠》・・・という呼称、呼び方が為されますね。尊敬と模範を感じながら、踏み込めない、世界を感じたりします。その事が、様々な混乱を生み出したり、腐敗の温床になったり、愛と寛容と赦しによって結ばれる関係が、冷たい・厳しい・愛の欠けた人間関係を生み出してしまうのです。
律法(聖書)の命じるところは、最も大切に守らねばなりません。
その下で、11節・12節に、主イエス様が言われたように・・・・・
☆仕えるもの    
☆自分を低くする者
となることで、心と心が愛によって結ばれるのです。
そこに平安と慰めと歓びが湧いてくるのです。ハレルヤ‼️
 マタイの福音書23章13節~24節

23:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
23:14 ☆
23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。
23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。
23:21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。
23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。
 2026年3月16日(月)リビングライフQT

 イエス様の、パリサイ人・律法学者への、痛烈な批判と叱責は続きます。
当時の一般の善良な市民は、彼等(律法学者・パリサイ人)の教えと指導は、市民(信仰の民)が・・・・・神の前に正しく・赦されて・歓びを感じながら・力強く歩む様になるのとは裏腹に・・・・・
民の心の内には、むしろ・・・不安と、怖れと、疑心暗鬼と、失望が蔓延していました。御国に行けなかったらどうしよう(どうしよう) と言う不安が充満していたのです。指導者達は、その不安につけ込んでは、様々な償いを教えては、上納金(献金)をするように導くことで、エルサレムの宮(神殿)の財を増やしては、実入りとしたのです。又、今一つのことは、神の御名を借りては、指導・要求・行動へと促すことで、彼等(律法学者・パリサイ人)の、立場の権威と、力を誇示していたのです。言い換えると、彼等の宗教的指導は、御国への道を辿るための道案内ではなく、指導者達の立場と生活の保障のため、尊敬を求める心と威圧を強くして、自分達の世界を堅固にしていたのです。
《勿論、イエス様と交わりを持ち、懸命に求道の道を探す指導者達も、数少ないのですが、登場しています。》
その様な例を、これからも、福音書の中に見付けて行きましょう。

当時の人(ユダヤ教徒達)は、悔い新ため・決心・将来への決意・・・等々《誓い》と言う形で、告白してきましたが、それは、神聖な神殿・浄められた祭壇・犠牲となった燔祭の動物 等々を、『聖なる者』として神聖化し、形骸化した儀式として、繰り返されていたのです。
主イエス様は、祈りや誓いは、天に居られる(永遠なる 御方として私達の中に居ます) 御方に誓いを為しているのです、と語られました。
しかし指導者達は、これを忘れ、形を踏襲したら、もうそれで終えたものとして、そこを去っていたのです。
今、私達は、同じ間違いを犯しやすいのです。祈ったから・・・と、祈りの座から離れると、もう忘れている・・・その様な事、無いですか❓❓❓
私達は祈ったことを、生活し、未来に繫ぐ道標とするのでなければなりません。
主は祈るあなたの刻々を観ておられます。周りの人々は、クリスチャンであるあなたの、一挙手一投足を観ておられます。失敗があることを恐れる必要はありません。
ただ神の前に清く、人々の間に愛に生きる日々であることだけが、大切ですね。
主よ、何時も伴ってください。
  ア~メン‼️
 マタイの福音書23章25節~39節

23:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
23:26 目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
23:27 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
23:28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。
23:29 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、
23:30 こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』
23:31 こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。
23:32 おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。
23:33 蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。
23:34 だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。
23:35 それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。
23:36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
23:38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
23:39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
 2026年3月17日(火)リビングライフQT

 あの❗柔和で、幼子を抱き上げ、罪深い道を歩んだ罪人達を、「あなたの罪は赦された‼️」・・・と、包み込むように覆われたイエス様が、・・・・これ以上ない言葉を持って・・・・激しく・たたみ掛ける様に、律法学者・パリサイ人達を責め、裁かれるお言葉の陰に・・・彼等(律法学者・パリサイ人⇒即ち、宗教-ユダヤ教-指導者達)の代々積み重なった、悪行の数々が、如何に、腐敗の極みだったかが、うかがい知れます。
神の前に生きる《敬虔・清さ》は、評価されたり、賞賛を得たりするものでは無く、静かに、気付かずに、周りを変えていく浸透力と、力のあるものなのです。
ふと、イエス様の歩まれた記録の福音書を、思い返してみると、静かに歩んで行かれる、主のお姿の中には、特別目立たれるものは無く、なにが、当時の人々をあの様に引きつける力となられたのだろう❓‼️と、考えさせられました。
当然、神の御子・メシヤ・救い主・預言の成就の御方・・・だから・・と、仰るでしょう。
それは否めません。しかし、イエス様の歩みは私達が歩む道を、示しているのです。・・・・
と、申しますのは、福音書を繰り返し繰り返し読み重ねていくと、そこに、あなたをわたしを変える力があることに気が付き始めるのです。
それは読む度に、読む人の魂の中に、イエス様の御人格の命が、魂の中に浸透してくるからです。
所が、今日のテキストに顕れたイエス様のお言葉は、正に、最後の審判の座に座られた御方の中から注ぎ出されるような、徹底的な、裁きなのです。

しかし同じお方が
『子よ。安心しなさい、あなたの罪は赦されました。』
『わたしもあなたを罰しない。』
『行きなさい。もう再び罪を犯さないように。』…と
この様なお言葉を、傍に居る人々に語られているのです。
わたしも、このお言葉で人生を変えられました。ですから、イエス様のようになりたい‼️これが、今迄の、今の、これからの、わたしの唯一の心からの願いなのです。
その様な想い一つで、今日まで歩んできたわたしなのです。けれども、未だ未だ自分の弱さ不甲斐なさに悩み、未だに求道の道を辿っているのです。
ただ主に近付きたい‼️
 マタイの福音書24章1節~14節

24:1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
24:2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
24:4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
24:6 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
24:9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
 2026年3月18日(水)リビングライフQT

 今日のテキスト、マタイによる福音書は、何時どの様にして書かれたのでしょう。
勿論2000年前の記録ですから、定かなことは、分かりませんが、使徒のマタイはマルコの書いた(マルコの福音書)をベースにして、マタイ自身が主イエス様と伴に歩んだ道の、出来事・主が語られた教え・メッセージ等々を、忠実に記録したものです。
マルコの福音書の著者マルコは、12使徒ではないのですが、イエス様と弟子達がエルサレムに行かれた時の、滞在された家の若者だったのです。
後にパウロの弟子として、パウロの伝道に、同伴し、主の12使徒達とも深く交流があったのです。
主の御召天後救われた、パウロに同伴しながら、イエス様の福音と、その御生涯の物語を、聖霊に迫られて、未来世界の福音のために、主の御生涯を書き残したのです。特に主の公生涯を、順序立てて、記録したのです。

そしてマタイは、この時間の流れの記録となった、マルコの記録を元にして、自身の体験した日々を追憶し、主が語られたお言葉を、聖霊の御助けにより、克明に書き記したのです。羊皮紙(羊の皮をなめしたもの)に鵞鳥の太い羽ペンで書いたのです、現代の私達が読むのにも、大変な時間を要するのですから、膨大な量の資料になった事でしょう。
ですから私達は、走り読みするばかりではなく、その様な記録であることを心に留めて、弟子達の深い思いと、主のお言葉の重みを、心に刻みながら、学んで参りましょう。

前置きが長くなりましたが・・・・今日のテキストは、終末に関する、警告的預言ですね。
その一つ一つは、この二千年の歴史の中で、幾度も繰り返されて、人々(教会)に繰り返し、信仰の覚醒を促してきました。
ヨーロッパの百年戦争・宗教改革・イスラム国家との闘い・米国の独立戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦・その後の80年にあった戦争(朝鮮動乱・ベトナム戦争・中東戦争・イラン-イラク戦争・・・・)枚挙にいとまがないほど。
その度、教会は終末の予感で糺(タダ)されてきました。他に、飢饉・地震等々の災害・・・迫害・偽預言者(異端の教え)・愛が冷える(家庭の崩壊・犯罪の激増・関係の破綻・・・・)
でもそれが終わりではないのです。
私達はそれらの現象に惑わされずに、最後まで耐え忍び、主イエス様のお言葉をしっかりと魂に刻み、忍耐を持って、歩み続けましょう。
14節のお言葉が大切ですね。
☆御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

ウィクリフ聖書翻訳事業は、現在、部分訳も含めて、4400言語以上に訳されています。
でも、未だ未だ、文字のない小部族も含めると、数百以上・・・見つかっていない部族(特にアマゾン川流域の密林地帯)も、いると言われています。ウィクリフの宣教師達は、今も命懸けで、彼等にも福音を届けるために、働き続けておられます。
祈りましょう。

明日(19日)のテキスト
マタイの福音書
     24章15節~28節 
 マタイの福音書24章15節~28節

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
24:16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。
24:19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
24:20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
24:22 もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
24:24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
24:25 いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
24:26 ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。
24:27 人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
24:28 死体のあるところには、禿鷹が集まります。
 2026年3月19日(木)リビングライフQT

 昨日に引き続き、終末への予言(警告)です。
昨日の預言は、文字通りの、人類の終わりに繋がるものでしたが、
今日の主のお言葉のは、もっと現実味を帯びた、終わりの足音が聞こえてくるような、緊迫感に溢れた内容なのです。
イスラエルにとって、エルサレムは、彼等のアイデンティティの地ですから、この日のイエス様のお言葉は、尋常でない、危機感を持たせられるものでした。
☆ここで、エルサレムの
興亡の歴史を簡略に記して、主のお話しされたことの重みを、共に感じてみましょう。

☆BC・586年・・・パビロンの ネブカドネザル王の侵略により、ユダヤ・サマリヤの全土は侵略され、BC・1027年に壮大に建立した、ソロモン神殿は、焼き尽くされました、そして民は皆、二千キロも離れた、バビロンの地に捕囚として連れ去られました。
その後、ペルシャのキュロス王のユダヤ人解放令により、大挙して帰還した民は、空白のエルサレムに住み着いた異邦人を追いやりながら、まず神殿再建に取りかかり、BC.516年に、第二神殿が再建されました。その後、ヘロデ王により、更に豪華に飾られたものとなりました。弟子達が宮の建て物を指差して・・・・と、誇らしげに語った記事(24章1節)に対して、主は神殿の石が、他の石の上に残ることがないほど破壊されると、語られていますが、その時が間近に起こる・・・と、ここで語られているのです。
この出来事は、弟子達の存命中に、起こったのです。
AD,70年~ローマの大軍を率いた、ティトス(タイタス)将軍の下で、徹底した破壊工作と、住民の虐殺が行われて、エルサレムに居住する民のほとんど(10万人)が、殺されました。こうして、エルサレムを初め、イスラエルの民は、この日以来、亡国の民として、大戦後、ナチから解放されたユダヤ人がドイツから、全ヨーロッパから、ソ連から大挙して、パレスチナに帰還し、1948年5月14日国連の承認の元、パレスティナ解放が決議されて、2000年の時を経て、イスラエルは建国したのです。
広い範囲まで歴史を書きましたが、イエス様は、このティトスによる、エルサレムの崩壊を予告しながら、暗に、重ねて世の終わりを、預言されているのです。
これは今の私達への、直接的な、そして又、非常に現実味を帯びた警告と言えますね。
この様に緊迫した時代の中で・・・・
☆惑わす者  
☆偽キリスト(再臨のキリスト)と名乗る者
時々刻々、世界の不安定さと、天変地異・・・今や枚挙に暇がないほど、総てのことが現実味を帯びてきています。
噂や、呼び掛けには気を引かれず、心奪われず、聖書と祈りによって、主との関係にしっかりと結ばれて、主イエス・キリスト様を、しっかりと仰ぎ見て参りましょう。
毎週正しく礼拝を護り、信仰の友と、しっかりと繫がっていましょう。
 マタイの福音書24章29節~35節

24:29 そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
24:32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
24:33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
24:35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
 2026年3月20日(金)リビングライフQT

 更に、主の終末へのお言葉は、熱く、警告的響を持って、語られます。
その内容は、想像もつかない、私達の日頃の生活や人生の中で経験する概念(体験・思考・想像)を、遙かに超えるものです。
昨日には、人心の混乱、社会の乱れ・・・などが語られましが、今日のテキストでは、天体の異変が語られています。
そして、30節には『人の子が天の雲の内に、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。』
この事態が、耳にされておられる、イエス様の《空中再臨=携挙》として、私達の福音信仰の、最も重要な教えであり、希望なのです。即ち、31節に更に展開されているように、『人の子が選んだ者たちを集めます。』⇒即ち、《携挙》なのです。
《携挙》・・・主に在って(十字架の血により罪赦された)者は、墓から甦って、携え挙げられ、生きて信仰の道に歩む人々は、そのまま天に携え挙げられる‼️・・・これ等について書かれている、新約聖書の書簡を記録しておきましょう。
①第1テサロニケ  
 4章13節~18節
②第1コリント
  15章50節~58節

これ等の出来事(世の終末に起こる)は、神の天地創造から始まった、悠久の創造の歴史の終わりですから、私達教会は、その中に立ち続けて、この様に恐るべき時代の始まることを、知らせねばならないのです。
勿論 : 突然この様なお話を始めたら、人々は狂気の沙汰だ・・・と、教会=あなたを離れるかもしれません。
しかし私達の福音は十字架の福音です。
それを信じ受け容れ、共にこの永遠の救いの福音の更なる希望の、ニュースを共に学びながら歩みましょう。
この様な驚愕の出来事(再臨・携挙)は、突然やってくるのではない・・・と、主は語られます。
32節の無花果(イチジク)の木を喩えに挙げて、時の徴は、目を挙げて観ていると確実に知ることが出来る❗と仰っているのです。
今、春の兆しで、あちこちで桜の開花の便りを見聞きします。
桜並木を観て車で走ると、枯れ木のようだった木々が、命の芽吹きで、色付いているのが、感動的に見えてきますね。
毎日のニュースを観ていると、殺人・詐欺・放火…議員・市長・大臣・社長・教師にいたるまで、犯罪に染まっており・・・家庭の崩壊・自己利益のための争い、国境紛争・・・・
この様なことに、ついつい、私達は心奪われて、 大切な、創造主の世界計画の《時の徴》を見落としてはなりません。
今日も、戦火に命を落とす、幾百幾千の、主の愛する魂(人々)のことを覚えて、主の血潮に洗われて御国へと帰ることが出来るようにと祈り、終末の徴候の濃い中で、教会の、信仰仲間のために、祈り待ち望みましょう。
35節《天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。》
   アーメン‼️
 マタイの福音書24章36節~51節

24:36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
24:38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
24:39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
24:40 そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
24:41 女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
24:42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
24:43 次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
24:44 ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
24:45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
24:49 仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
24:50 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 2026年3月21日(土)リビングライフQT

   ☆目を覚まし
その日に備える人生

主が再臨される「時」は誰にもわかりません。
☆36節
その日、その時がいつなのかは、誰にもわかりません。天の御使い達も子も知りません。ただ父だけが知っております。
☆37節
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。

世の人々は神の警告に鈍感です。
同じように生活している中から選ばれる者と捨てられる者がいます。
両者を分ける基準は、「終わりの日への備え」です。
それは「その日を知る」事ではなく
「目を覚ましている態度で生きる」事です。
これは花婿なるイエス様が来られる事に備える花嫁の心で生きて行くという事です。
☆42節〜
目を覚ましていなさい。あなた方の主が来られるのがいつなのか、あなた方は知らないからです。

私達も日ごとに主との出会いを期待し、御言葉によって自分を飾る人生を歩まねばなりません。
イエス様は「終わりの日の備え」に関する3つの例えを語られました。
「忠実で知恵あるしもべと悪いしもべ」区別の基準は
「主人がいない時の態度」です。

忠実で賢いしもべは、主人がいない間も忠実に使命を全うしました。
神に与えられた今日1日の過ごし方に、主に忠実であるかが現れるのです。
あなたに与えられた使命をあなたはどの様な態度で担っていますか。

私達も再臨の日に備えられるように…
与えられた1日を最後の日であるかのように忠実に生きる事が出来ますように
お守り下さい。
(リビングライフエッセイより抜粋)

※  今朝のリビングライフQT.メッセージは、シオン教会の、忠実な主の僕(信徒)が召されたので、その対応で、メッセージ整える時間が無く、この様な形で、お送りさせて頂きました。
正に、主の御許に帰られた、《甲野順二兄》は、今日のテキストの範となられました。別れは寂しいけれど、栄光への召天ですから・・・・遺された奥様に、主からのお慰めをお祈りします。
 マタイの福音書25章1節~13節

25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
25:4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
25:6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
25:10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
25:11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
25:13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
 2026年3月22日(日)リビングライフQT

 花婿を迎える賢い備え

イエス様は天の御国を、ともしびを持って花婿を迎えに出る10人の娘にたとえています。
3節〜愚かな5人の娘たちはともしびは持っていたが、油は持って来ていなかった。
4節〜残りの賢い5人の娘達はともしびと一緒に入れ物に油を入れて持っていた。
10人の娘たちの主な役割りはともしびを照らす事だったのです。
愚かな娘達は
「ご主人様ご主人様」…
と叫んだのです。
しかし主は「私はあなたがたを知りません」と
答えられたのです。
「油を用意する事」は
「御言葉を聞いて行う事」です。
最も確かな備えは、御言葉を聞いて行う真実な信仰なのです。
12節〜
しかし主人は答えた。「まことに、あなた方に言います。私はあなたがたを知りません。」
13節〜
ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

私達は主の婚礼の祝宴に入る者となるために、今からどんな人生を歩むべきでしょうか。
イエス様の再臨に備える
賢い者となるために
いつも目を覚まして祈り、御言葉に従って歩む事が出来ますよう
祈り求めて参りましょう。
(リビングライフエッセイより抜粋)
 マタイの福音書25章14節~30節

25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
 2026年3月23日(月)リビングライフQT

 ☆委ねられた使命に
忠実な人生

今日の「終わりの日への備え」に関するたとえは
しもべ達に財産を預けて旅に出た主人のたとえです。
5タラント預かったしもべ、2タラント預かったしもべは共に『ご主人様は私に5タラント、2タラント預けてくださいました。』…と感謝を表しています。
そして商売をして財を増やしたのです。
☆21〜23節
主人は彼に言った。
『良くやった。忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。
主人の喜びを共に喜んでくれ。』
この様な言葉をかけられたしもべの喜びはいかばかりだった事でしょう。

それに対して1タラン預かったしもべの対応は違いました。
24節〜
『ご主人様。あなた様は蒔かなかった所から刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しいお方だと分かっていました。
それで私は怖くなり、出て行ってあなた様の1タランを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなた様の物です。』
26節〜
『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかった所から刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたと言うのか』

神様を誤解するなら、深刻な結果を招きます。
1タラン預かったしもべは、「主人は蒔かなかった所から刈り取る方だ」と誤解していました。
自分の行動を主人のせいにする言い訳もしました。
神は私達が刈り取れるよう、先に蒔かれる方であり、集める力も与えてくださいます。
今一度、私達も主が委ねて下さった働きをする時、自分の態度と心の状態を省みて主の喜びにあずかれるように祈り求めて参りましょう。
人生の主人である神を正しく知り、与えられた使命に信仰で従う者に、神は実を結ばせてくださいます。

いつか神様が精算される事を覚えて、使命に最善を尽くして神様の喜びにあずかる事が出来ますように… アーメン

(リビングライフエッセイより抜粋)
 マタイの福音書25章31節~46節

25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
25:42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
25:44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
 2026年3月24日(火)リビングライフQT

 最後の審判を、一つの物語(喩え話)として、語られた、終末への厳しい御警告のお話です。
先ず、人類創世(創世記)からゴグ・マゴグの闘い(神に逆らうサタンを将とする、生き残った全人類が、神の陣営と対峙して闘う戦闘⇒ヨハネの黙示録20章7節~10節)は、人類最後の神への敵対として、完全に神の審判により壊滅する。
その後の、何時か耳にしたことのある《最後の審判》と言われる、審判<裁きの座>が開かれ、創造時以来の、全人類(死者は総て命を与えられて蘇る)は、神の御座の前に出て、《審判》を受けるのです。
その時の様子を、物語のように、黙示録は描写しているのです。
先ず・・・・すべての甦った人類(数千年・或いは、数万年にも亘る、人類の営みを思うとどれ程の数になるのでしょう)・・・現在の世界人口は83億人と言われています。
一人一人を裁くとなると、時間の世界で考えると、何千年掛かるでしょう。しかし、この時は既に、時間はなくなり、
《永遠=存在そのもの》の中なので、時間的に顕せば、《瞬時》に、決まり、永遠のゲヘナ=業火に、投げ込まれ、悔い・悲しみ・痛み・絶望・闇・怖れ・・・・闇という闇、苦しみという苦しみ、絶望という絶望と・・・の極(キワミ)の中に、永遠の生き地獄として、存在するのです。
その恐怖と苦痛は、説明できるものではありません。あなたは永遠を、どちらで存在することを望みますか。
裁き主なる神との対話がありますね。・・・
単なる親切、憐れみ・・・は、時と場合によっては変遷します。
しかし、イエス様の購いの血により、神の恵に生かされる者には、常時変わることはないのです。
それが《愛》なのです。何をした・・・しなかった・・・ではなく、《イエス様と何時も共に一緒に居ましたか・・・❓》と言う事実に生きる毎日でありたいですね。
それが、罪から購われた(救われた)者の道です‼️ハレルヤ‼️

《ご報告》
私、力丸は
今日から、小倉の医療センターに入院して、26日に心臓カテーテル手術を受けます。
これから(今日・明日と様々な科目の検査を受けます)
その為、時間とゆとりがとれませんし、26日に治療を受けてからは、、片方の手が動かせませんし、体中に管や検査機器が付き、
ライン操作が難しくなりますので、退院まで(約1週間)、リビングライフQT.はお休みさせて頂きます。
お祈り下さい。
このメッセージの働きを始めて12年間、一日も休んだことがなかったのですが、
申し訳ありません。病床から皆様の祝福と平安をお祈り致しております。
次回まで・・・・・
 マタイの福音書26章1節~節

26:1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、
26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。
26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。
26:17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
26:19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
26:20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。
26:21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
26:22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
26:23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。
26:24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。
26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
26:30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
26:32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
26:33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
 2026年3月25日(水)リビングライフQT

無事終わりました。少し長かったので不安に駆られもしましたが、皆さんが祈ってくださっていると思うと、心落ち着いてきました。
先生曰く、バッチリ成功です‼️(バッチリ)と。
有難う御座いました。
これで安心です。
何事もなければ、金曜の退院です。
取り敢えず感謝のお知らせまで。
此れから安静に入りますので。返信はしないで下さい。」
 マタイの福音書26章14節~節

 2026年3月26日(木)リビングライフQT

 マタイの福音書26章14節~節

 2026年3月27日(金)リビングライフQT

 マタイの福音書26章14節~46節

 2026年3月28日(土)リビングライフQT

 ゲッセマネの祈りの箇所を読む度に、私の自らの罪故に、苦しみの祈りをなさるイエス様の、お心の悲しみ・悼み・苦しみ・・・を思い、胸の締め付けられる思いで、先に読み進めなくなることが、しばしばでした。なにも知らない(幾度も主が予告されたお言葉が、現実味を持たない)弟子達の、愚かしさが、腹立たしくなるほど、苛立ちを覚えるのです。
しかし、そうでしょうか・・・❓
実は私も又、それ以上に、このシーンを聖書の福音書物語の
1シーンとして、固定化しては居なかっただろうか???
その様な私の内なる霊的鈍さに、悲しいまでに憤らされたこと、しばしばでした。
その度、悔い改めて祈り読み直したことが幾度もありました。
すると、この記事の一文字一文字に、涙せずに居られない痛みと悔いと、あの、ゲッセマネの森の木々の間を流れる、主の祈りの声を、探しているのです。
私の罪のために
私の罪のために
私の罪のために
主イエス様は、弟子達の眠りこけている姿を二度もご覧になられて、三度、お一人で園の鬱蒼とした森の中で、苦悩の祈りをされたのです。
ここに顕されたイエス様は、
☆神の御子  
☆天から降りてこられた御方  
☆メシヤ・・・・
と言う、特性を持たれた御方としてではなく、まさに、肉なるお体と・感覚(五感)・心と意識を持たれた人の子として(私の、あなたの)身代わりとして、神の前で祈っておられたのです。この悼みと悲しみはそのまま、ゴルゴタの十字架の死にまで、続く道だったのです。
『さぁ、行こう‼️』最早妨げるものはなにも無く、ただ贖いの苦しみの頂き(十字架の道)へと、進まれる主の御姿を、追って、従って参りましょう。
 マタイの福音書26章47節~56節

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
 2026年3月29日(日)リビングライフQT

 ★イエス様、捕らえられる
ユダは、どうしてイエス様を祭司達の手に渡す、てはずを仕組んだのでしょう。
この先の56節には『このすべてのことが起こったのは、預言者達の書が成就するためです。』と、主は語られています。
即ち、イエス様の御生涯のすべての道筋は、父なる神から与った《預言》 の言葉を通して語られたことが、着々と成就する道へと、繫がってきたのです。
イエス様の、《人の子》として歩まれた一刻一刻が、永遠の神・人間(あなた・わたし)の創造者である神の、愛の成就のために顕される道筋のための、歩みと時間だったのです。
ユダが銀貨30枚で主を売ったことも、弟子達が主を見捨てて、逃げ去ったのも・・・・どちらが重く、どちらが軽いか・・・❓❓と言う、比較ではなく、イエス様が負うために歩まれた、道筋だったのです。
この三年、主イエス様に愛されて、共に生活してきた、最も身近な弟子達さえ、誰一人として、この危機の中で、主の慰めにも、助けにもならず、主お一人に、罪の醜さと重荷を、負わせることとなったのです。
ゲッセマネは、人間の罪の醜さの極まる所となったのです。
ですから、改めて、イエス様の祈りの言葉と苦悩を、思い返してみてください。
39節〜『わが父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかしわたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。』
その苦しみは、わたしの、あなたの、《罪》故だと改めて、甚(イタ)く、魂に響くのです。
アァ私の主❗
私の救い主(神)よ‼️
 マタイの福音書26章57節~68節

26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた。
26:58 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った。そして中に入り、成り行きを見ようと下役たちと一緒に座った。
26:59 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。
26:60 多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、
26:61 こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」
26:62 そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」
26:64 イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
26:65 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒?した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒?することばを聞いたのだ。
26:66 どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。
26:67 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、
26:68 「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。
 2026年3月30日(月)リビングライフQT

 リビングライフの本文には、表題として《不正な裁判》とありますが、寧ろ、
《確信的偽装裁判》と私は言いたいですね。
何故なら初めから、この御方を、この世から排除しようとの企みから始まった、一連の計画だからです。
典型的、人間の罪の極まる姿ですね。
手続き、段取り、会合、民意への問い掛け、ユダヤ教の総ての支配者達は、正当な道筋を付けながら進めてはいますが、全くのまやかしです。
罪は常に、正当性と、公開性との道筋を踏みながら、神に敵対する道を、正当化してきました。
改めて私達は、納得や、正当性や、人々の声を保障とせずに、ただ、神の前に立つ自らを、しっかりと見つめ確認する作業を、しなければなりません。
ユダヤ教指導者達は、歴史と伝統にたつ、教義が最高位だとして、それらが教え示してきた、メシヤ(イエス・キリスト)を、魂から排除してしまったのです。
この時点で、ユダヤ教指導者達には、イエス様がサタン的存在として・・・アァ
何とおぞましい事態でしょう。
異端も、信仰生活からの脱落も、実は、自らの正しさを護ろうとする、歪んだ信仰から派生するのです。
67節~68節は、何と悲しい罪の姿なのでしょう。
私達は信仰生活をどの様に歩んできたでしょう。こうして、リビングライフQT.の学びで、毎日魂を照らし、光に導き出され、悔い改めを重ねては、一日の歩みを始める日々は、力があり、潔さが新しくされ、主イエス様が共に居られる中に、護られます。
罪のないイエス様が辱めを受けられたのは、正に私の、あなたの、栄光の道を拓かれるためなのです。
この御方に従って参りましょう。
 マタイの福音書26章69節~75節

26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
26:71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
26:72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
26:74 するとペテロは、?ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
26:75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
 2026年3月31日(火)リビングライフQT

 何と言う、人(人間)の心の弱さよ
この記録は、マタイが書いたものです。この前後の様子を見ると、この場には、マタイは居なかったことは確かでしょう。ではなぜ、状況や、やり取りを、ここまで詳しく書き残すことが出来たのでしょう。まるでペテロ自身が思い出して記録したかのような、鮮明な状況再現なのでしょう・・・❓❓
今日のテキストの最後の節(75節)に・・・・ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度私は知らないと言います。」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
何と切ない(やりきれない)記録でしょう。
全身が、魂が、自分という存在が・・・崩れるような・・・・
これが、罪(神=愛に背く)に苛(サイナ)まれた、最も過酷な責め苦だと、私は実感します。
私は自らの悔い改めの時の、あの時を思い出すのです。
74節『嘘ならのろわれてもよいと、誓い始め・・』とまで言い放っだペテロ゙です。最早[死]を遙かに超えた暗黒が、彼を包んだのだ・・・と、私はここを読む度に、感じるのです。
何と《罪》は、醜くも全ての命を奪い、魂を破壊するのでしょう
最悪の事態まで落ちたペテロ『あなたこそ、神の子キリストです。』とまで告白したペテロ・・・が・・・です。創造主である、神の子とを思わず、自分のことだけを思う(考える)事を第一とした時から、すべてが崩壊し始めるのです。最早その眼には、神の光は消えているのです。
今日❗あなたは、あなたの神(イエス様)に眼を注ぎましょう。そして、その御方があなたを、どの様にご覧になっているかを考え、黙想してみましょう。

ペテロは・・・・
☆イエスのことばを《思い出した。》
☆外に出て行って《激しく泣いた。》
その場には、主イエス様がソッと居られた・・・と・・・
私は思うのです。
忘れないで下さい。あなたの主・イエス・キリスト様は、あなたの側に居られます。
※ある時には、にこやかに
※ある時には、涙しながら
※ある時には、悲しみに満ちたお顔で…
※ある時には、ジッとあなたの魂の深みを見つめて・・・
今あなたの側に主が居られます。・・・・