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力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
          (新改訳聖書2017)
    

北九州シオン教会

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 エゼキエル書  10章9節~22節
 
10:9 私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一方のケルビムのそばに、もう一つの輪はもう一方のケルビムのそばに、それぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。
10:10 それらの形は四つとも同じで、一つの輪がもう一つの輪の中にあるようであった。
10:11 それらが進むとき、それらは四方のどの方向にも進み、進むときには向きを変えなかった。なぜなら、頭が向かうところにほかの輪も従い、それらが進むときには向きを変えなかったからである。
10:12 それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、周りに目がたくさん付いていた。
10:13 私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれるのを聞いた。
10:14 それぞれに四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。
10:15 そのとき、ケルビムは飛び立った。それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。
10:16 ケルビムが行くと輪もそのそばを進み、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき輪もそのそばを離れず、向きを変えなかった。
10:17 ケルビムが止まると輪も立ち止まり、ケルビムが上ると輪も一緒に上った。生きものの霊が輪の中にあったからである。
10:18 【主】の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。
10:19 すると、ケルビムは翼を広げて、私の目の前で地上から上って行った。出て行くとき、輪もそのそばについて行き、【主】の宮の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光が彼らの上にあった。
10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。
10:21 彼らはそれぞれ四つの顔と、それぞれ四つの翼を持っていた。その翼の下には人間の手のようなものがあった。
10:22 彼らの顔かたち、それは、私がかつてケバル川のほとりでその容貌と姿を見たとおりの顔であった。彼らはみな、前の方へまっすぐに進んで行った。
 2025年7月31日(木)リビングライフQT

昨日は、遙か日本から離れた(根室半島からカムチャッカの震源地まで2400km)場所で起こった地震による津波警報により、日本中が再び不安に駆られましたね。

しかし、今朝のリビングライフQTテキストの箇所から始まるエゼキエルの幻は、この様な事態を遙かに超える、出来事の始まりと言えます。
即ち、一言で言えば、神が去られた
エーッ(*゜д゜*)と言う、事態の始まりなのです。
四つの輪→神の箱(契約の箱)の上のケルビムは、天使の長の両方の羽根で飾られていました。それは神の臨在を顕す象徴として、最も神聖な存在(器具)でした 。これに四つの輪があった。
輪→神の箱を移動するための車です。その輪にびっしりと、眼がついていた。
何だか;奇々怪々な感じが致しますが、主なる神は、この世界で観たり経験したりするものでは無く、初めて、否、只一度エゼキエルだけが経験できた、魂(霊)の感性で観ることが赦された《事象》として、語られているのです。
18節~主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。
この節の記述は、見落としてはならない、
とても大切な行です。
即ち、神がエルサレムを離れる‼️と言う宣言なのです。
19節~・・・・ケルビムは翼を広げて、私(エゼキエル)の目の前で地上から上っていった。出て行くとき、・・・主の宮の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光が彼等の上にあった。
この行を読んだとき、私の胸は、グッと詰まりました。主なり神→アブラハム以来、愛し・赦し・癒し・包んできたイスラエルの神は、どんな御思いで(立ち)止まられたのだろうか
思わずしばし手を止めて、黙想しました。
そして、改めて、『父よ彼等を御赦し下さい‼️』…の十字架の主の祈りを思い出しました。
エルサレムが滅亡する事態以上に、この節に記された言葉が、魂に響いた朝でした。
 エゼキエル書  10章1節~8節
 
10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上の大空に、サファイアのような、王座に似たものがあり、それがケルビムの上に現れた。
10:2 主は亜麻布の衣をまとった者に命じられた。「ケルビムの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを都の上にまき散らせ。」この人は私の目の前でそこに入って行った。
10:3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。
10:4 【主】の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は【主】の栄光の輝きで満たされた。
10:5 そのとき、ケルビムの翼の音が外庭にまで聞こえた。それは、全能の神が語られるときの声のようであった。
10:6 主が亜麻布の衣をまとった者に「車輪の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じられると、この人は入って行き、輪のそばに立った。
10:7 すると、ケルビムのひとりがケルビムの間から、ケルビムの間にある火の方に手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣をまとった者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。
10:8 ケルビムの翼の下には人間の手の形があった。
 2025年7月30日(水)リビングライフQT

エルサレムの神殿の広さ。

神殿そのものの建物の広さは、232㎡=70坪
神殿を囲む境内の広さは、8万㎡=24000坪 の広さが有りました。それは、一辺が2km ✖ 4km  の長方形の広大な敷地で、すべて城壁で囲まれ、3箇所の門がありました。
ケルビムとは、この神殿の中の奥の三分の一に当たる広さ(20坪程)が、厳重に仕切られ、そこは、神の臨在の在る《至聖所》と呼ばれ、年に数回の贖罪の儀式の時に、大祭司だけが、神殿の庭で献げた犠牲の血を、ここに携え、臨在の徴の箱に注いで、民の罪の赦しを祈るのです。
その臨在の徴の箱(契約の箱)の蓋に、天使の長の翼が、かたどってあるのです。
ケルビムの頭上の大空・・・とありますが、天井がないのではなく、神秘的空間となって、幻が顕されたのでしょう。
以下の描写は、エゼキエルの霊的感性の観たまま感じたままを、描写されているので、そのまま読み進みましょう。余り読み込んで解釈すると、違ったメッセージになりかねませんので。
ここで心に留めなければならないのは・・・・
これから何が起ころう(神が為さろう)としているか・・・を読み進むことなのです。
ケルビムは天使の長ですからこそ彼(ケルビム)の行動は、神の命じるままを実行する働きなのです。
ケルビムが《火》を取り・・・・とあるのは、《火》は、神の怒りを象徴するので、神から託された《 怒と、裁きのメッセージ》が、ケルビムから、亜麻布の衣をまとった者(預言者)に渡され、彼は出て行った。
これからどの様な事態が展開するか、ドキドキしながら、明日へと繫ぐのです。
神様は全く心を閉ざされる民に対して、最終的に警告を発しようと、エゼキエルに、幻によって、語られたのです。
今の時代には、この様な形で、神が迫られることはありませんが(通常としては) それ以上に明確な形で、語られてきました。
それは『聖書』によってです。
そ して、その聖書を通して、教会(牧師・伝道者・主の弟子たち-クリスチャン-)によって、今や語られるのです。その語られる福音(救い・罪の赦し・裁き・審判)が、明らかにされたのです。
私達はその中で、亜麻布の衣をまとった、遣わされる者なのです。
明日から、語られる内容を、今の時代に置き換えながら、心に刻んで参りましょう。 
 エゼキエル書  9章1節~11節
 
9:1 この方は私の耳に大声で叫ばれた。「破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い。」
9:2 見ると、六人の男が、それぞれ打ち壊す武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もう一人の人が、亜麻布の衣をまとい、腰には書記の筆入れを付けて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。
9:3 ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルビムから立ち上り、神殿の敷居へ向かっていた。腰に書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている者を呼び寄せて、
9:4 【主】は彼にこう言われた。「都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。」
9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。「この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない。
9:6 年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。
9:7 それから主は彼らに言われた。「神殿を汚し、庭を刺し殺された者で満たせ。さあ、行け。」彼らは出て行って、都の中で打ち殺した。
9:8 彼らが打ち殺しているとき、私だけが残された。私はひれ伏して叫んだ。「ああ、【神】、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出し、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのですか。」
9:9 主は私に言われた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、地は流血で満ち、都も不正で満ちている。彼らは『【主】はこの地を見捨てられた。【主】は見ておられない』と言っているのだ。
9:10 だから、わたしもあわれみをかけない。わたしは惜しまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行いを返す。」
9:11 そのとき、腰に筆入れを付け、亜麻布の衣をまとった、あの人がこう報告した。「私は、あなたが私に命じられたとおりに行いました。」
 2025年7月29日(火)リビングライフQT

創造主なる神の、徹底した裁き(捌き)
この行(クダリ)を、前後の事情を知らないで読むと、 「何と神は無慈悲な方だろう」と、声を挙げるでしょう。
私達日本人は、慈悲・赦し・憐れみ・慈しみ・・・を、至上の美徳として、内に持つ民です。私の伝道者生涯で、幾度・・・旧約聖書に著される神の御姿を、無慈悲・一方的・愛の神の御本質を逸脱していると、酷評されたことが幾度あったでしょう。この様な酷評を聴きながら、魂が引き裂かれる思いをしたものです。そんな時、私は魂の奥底では、号泣しながら、「あなたのその言葉が、神の裁きを招く最悪の言葉なのだ・・・❗」と叫んでいました。悔しく、悲しく、申し訳ない想いで、心が千々に乱れていました。
「主よこの様な結果しか、刈り取れない僕(しもべ)をお許しください。と、幾度詫びて祈ったことでしょう。」
神の憐れみと赦しは、これ等を慈悲と云っても良いのかも知れませんが、日本人(全人類・民族)に共通だとの思いもありますが、それは、余りにも神御自身の《愛》を知らない勝手な解釈なのです。

4節~「都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべき事を嘆き悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」・・・・・・
6節~・・・・しかし、印を付けられた者にはだれも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよう。」
このテキストに書かれている、徹底した捌き(裁き)は、民全体に及ぶ殲滅(せんめつ)的裁きではないのです。民の、破廉恥で、それ以上に、神を悲しませる敵対に対しての裁きは、予断を赦さない徹底したもので、全く情状のない、恐怖の裁きです。
しかし、民の中に、魂を悼めて、神のお心の哀しみと、傷みを思って、彼等に迎合せず、涙し祈り、神に心を向けていた人々への、深いご配慮は、この怖ろしい裁きの中で、慰めと希望の一筋の光として護って下さるのです。
6節の『まず、わたしの聖所から始めよ』
これは、当時の宗教的無節操が、神殿の奥深くまで忍び込み、真の神の臨在を顕す器具までも、彼等の偶像の器具に流用する有様だったのです。
周辺の聖別により、神の臨在の回復が、急務だったのです。
当時の民の神への反抗は、神御自身の臨在をかき消し、混乱させて、神に変わる偶像を飾り・祈り、思うがままの、悪行の限りを尽くしたのです。
その中で、真実に歩み、罪から遠ざかった人々は、心を傷め、秘かに神への礼拝を献げていたのです。
彼等の中には、神は生きておられ、この裁きの只中で完全な保護を与えて、後の世に生きる土台として、選び取り保護されたのです。
今の世において、神はあなたを私を選び残され、後の世に生きる人々の通るべき道を、整えさせている事を、しっかり心に留めて、新しい道を歩み続けましょう❗
 エゼキエル書  8章1節~18節

8:1 第六年の第六の月の五日、私が自分の家に座っていて、ユダの長老たちも私の前に座っていたとき、【神】である主の御手がそこで私の上に下った。
8:2 私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見えるところから下の方が火であり、腰から上の方が琥珀のきらめきのように輝いて見えた。
8:3 すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす「ねたみ」という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。
8:4 なんと、そこには、私がかつて平地で見た幻と同じような、イスラエルの神の栄光があった。
8:5 その方は私に言われた。「人の子よ。さあ、目を上げて北の方を見よ。」私が目を上げて北の方を見ると、なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像があった。
8:6 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。あなたはなおもまた、大きな忌み嫌うべきことを見る。」
8:7 それから、この方は私を庭の入り口に連れて行かれた。見ると、壁に一つの穴があった。
8:8 この方は私に言われた。「人の子よ。さあ、壁に穴を開けて通り抜けよ。」私が壁に穴を開けて通り抜けると、一つの入り口があった。
8:9 この方は私に言われた。「入って行き、彼らがここでしている悪い忌み嫌うべきことを見よ。」
8:10 私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた。
8:11 また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた。
8:12 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちが、暗闇の中、それぞれ自分自身の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『【主】は私たちを見ておられない。【主】はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。」
8:13 また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」
8:14 それから、この方は私を【主】の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。
8:15 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。あなたはなおもまた、これよりも大きな忌み嫌うべきことを見る。」
8:16 それから、この方は私を【主】の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、【主】の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは【主】の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた。
8:17 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ、彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしているではないか。
8:18 だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」
 2025年7月28日(月)リビングライフQT

エゼキエルは、突然主なる神の霊によって、バビロンのケバル川の自宅から、遙か一千数百キロも離れた、彼がかって仕えていた、神の宮の在るエルサレムに連れて行かれ・・・・
多くの民が、バビロン王ネブカデネザルによって、捕囚として連れ去られた後、悔い改めのないユダとイスラエルの民が、どの様な生活をしているかを、見せるために・・・・・・エゼキエルは、不思議な御手によって、連れて来られたのです。

7・8・9節の行(クダリ)は、まるで時空の壁を抜けて、異次元から観るような形で幻のように、今日(当時)のイスラエルの民の悪行の数々を、エゼキエルに見せられたのです。
そこで、11節・12節には、彼等が、暗闇の中で偶像礼拝の儀式を行っている
メソポタミヤ文化の影響下で、偶像礼拝を行っていたのです。
更に、15節~17節は、 更に彼等が異教の信仰即ち太陽神を礼拝して、太陽に礼拝を献げていた。
エゼキエルは、こうして神の極度の哀しみと、燃えるようなの想いを見せられて、預言者としての、神との思いの一体感を授かったのです。
今、神の御言葉と、その御思いを、私達は礼拝と聖書を通して、頂いている身として、どの様にして、今の世に、終末の緊迫度を伝えるのでしょうか?
何か、行動を起こすのでしょうか。
何か、効果的な方策を考えねばならないのでしょうか。
そうではないのです。
エゼキエルは、これ等の体験を通して、神のお心を知ったのです。即ち、☆神の哀しみは、エゼキエルの哀しみとなり、
☆神の怒りは、エゼキエルのとなり、
☆神のうめきは、エゼキエルのうめきとなったのです。
今や、エゼキエルは、神の代弁者としての《器》となったのです。
私達も、もっと神に知られ、神を知る者・・・となる事を熱く祈り求めて参りましょう。

  私達は知ろう
   主を知る事を
          切に追い求む 
   主は暁の光の様に
                確かに現る
 エゼキエル書  7章14節~27節

7:14 ラッパが吹き鳴らされ、すべての準備ができても、戦いに行く者はいない。わたしの燃える怒りが群衆すべてに臨むからだ。
7:15 外には剣、内には疫病と飢饉。野にいる者は剣で死に、町にいる者を飢饉と疫病が滅ぼし尽くす。
7:16 逃れた者たちが逃れて山々の上にいても、谷間の鳩のようにみな泣き悲しむ。自分の不義のゆえに。
7:17 どの手も力無く垂れ下がり、どの膝も震える。
7:18 彼らは粗布を身にまとい、戦慄に包まれ、みな恥じて顔を赤くし、彼らの頭からは毛が引き抜かれる。
7:19 彼らの銀は道端に投げ捨てられ、彼らの金は不浄の物のようになる。彼らの銀も金も、【主】の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。銀も金も、彼らの欲望を満足させることも、彼らの腹を満たすこともできない。それは彼らを不義に引き込むものであったから。
7:20 彼らはこれを、美しい飾り物として誇り、これで自分たちのために忌み嫌うべきもの、忌まわしいものの像を造った。だから、わたしはそれを不浄の物とする。
7:21 わたしはそれを他国人の手に獲物として、地の悪者どもに分捕り物として渡し、それを汚させる。
7:22 わたしは彼らから顔を背け、わたしが秘宝とする所は汚される。無法者がそこに入り込み、そこを侵す。
7:23 鎖を作れ。この国は流血のさばきに満ち、この都は暴虐に満ちているからだ。
7:24 わたしは異邦の民の最も悪い者どもを来させて、彼らの家々を占領させ、有力者たちの高ぶりをくじき、彼らのもろもろの聖所を汚させる。
7:25 恐怖がやって来る。彼らは平安を求めるが、それはない。
7:26 災難の上に災難が訪れ、うわさがうわさを生む。彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司から律法が、長老から助言が失われる。
7:27 王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、民衆の手はわななく。わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。』」
 2025年7月27日(日)リビングライフQT

バビロンがユダに攻めてくる30年ほど前に、ユダの王ヨシヤは、大宗教改革を行い、エルサレムを神の聖なる宮として浄め、民の礼拝の場とし、神への浄めの儀式と礼拝を改革しました。

こうした折も折も、エジプトの王が、アッシリアを攻略するために、南から上ってきた(アッシリヤはメソポタミヤ地方ですから、パレスティナは、通り道なのです)のを、ユダへの侵略と勘違いして、これと対決してヨシヤ王は戦死したのです。
エジプトの王フ ァラオ・ネコは、ヨシヤ王の息子エホアハズを、捕虜としてエジプトに連れ去り、エホアハズの息子をエルサレムに残して、治めさせたのです。
所が彼は、ヨシヤ王以前の、マナセ・アモン王以上の悪政を敷き、山々谷々を、偶像で満たし、ユダの全土が、荒廃した異教の世界と化したのです。
そのような折に、バビロンのネブカデネザルの侵略が始まったのです。最初に、エルサレムを攻略に来た、 ネブカネザルの軍は、エホ ヤキン王はエルサレムの王位に残して、貴族階級と、権勢を支える組織と、宗教関係者を、捕囚として連れ去ったのです。その中に、エゼキエルが居たのです。これがユダ最初の捕囚で、BC.609年です。
その後波状的にユダの民は連れ去られBC.586年には、農業と貧困の民以外は全て、バビロンに連れ去られ、国土は今朝のテキストに記されている情態になったのです。
神により頼まない日々の積み重ね・時勢を読みながら、頃合いを見て渡る生き方・高価な財宝に安心感を求める・・・・
それらがもたらす結末は、何も遺らないのだ
イスラエル・ユダの歴史は、それらを如実に語っていますね。
27節~・・・・彼等は、わたしが主であることを知る。
その時には、国土も国民も、歴史も全て潰え去っていました。
私達にとって《今》が、《主》に返る時なのです。
帰れや♪ 帰れや♪ 帰れや♪ と 主は今 呼びたもう
 エゼキエル書  7章1節~13節

7:1 次のような【主】のことばが私にあった。
7:2 「人の子よ、あなたは言え。『イスラエルの地に対して【神】である主はこう言われる。終わりだ。終わりが来た。この国の四隅にまで。
7:3 今、あなたに終わりが臨む。わたしは怒りをあなたのうちに送り、あなたの生き方にしたがってあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
7:4 わたしはあなたにあわれみをかけない。わたしはあなたを惜しまない。忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、わたしはあなたの行いをあなたの上に返す。そのときあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。
7:5 【神】である主はこう言う。わざわいだ。類のないわざわいだ。見よ、それは来る。
7:6 終わりが来る。終わりが来る。あなたのために機が熟した。見よ、それは来る。
7:7 地に住む者よ、あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。
7:8 今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、わたしの怒りをあなたに出し尽くす。あなたの生き方のとおりにあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
7:9 わたしはあわれみをかけない。惜しまない。忌み嫌うべきことが、あなたの中にあるうちに、わたしはあなたの行いのとおりに報いる。このとき、あなたがたは知る。わたしがあなたがたを打つ【主】であることを。
7:10 見よ、その日だ。その日が来る。あなたの終局が来ている。杖がつぼみを出し、横柄さを花咲かせた。
7:11 暴虐が起こって悪の杖となり、彼らもその群衆も、彼らの富もなくなり、彼らのために嘆く者もいなくなる。
7:12 その時が来た。その日がやって来た。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがそのすべての群衆に臨むからだ。
7:13 両者が生き延びても、売る者は、売った物を取り戻せないからだ。群衆すべてに関わる幻は取り消すことができず、だれもが自分の不義のうちにいるため、奮い立って生きることができないからだ。
 2025年7月26日(土)リビングライフQT

今改めて、イスラエルの歴史のソロモン王の後半期より、凡そ380年に亘るユダ(南王朝・首都エルサレム)とイスラエル(北王朝・首都サマリヤ)の王と民は、あの苦難に満ちた、出エジプトの中で、指導者モーセを通して頂いた、民の祝福の基本 :  神からの律法(十戒):を無視して、繁栄の道を追い求め、周りの民が持っていた文化・生活様式・快楽的要素の入った、彼等カナン人の信仰様式(祭・儀式・踊り・・・etc.)を、取り入れ、食べ物も、生活様式も、異教化していたのです。
創造主なる神への厳粛な礼拝は、お祭り化され、魂を主なる神の前に顕して、創られた御方に似る者となる道を、自分達の理想を追い求める道にすり替えたことが、最早、神に愛される道から、遙かに離れた世界へと、踏み込んでいたのです。
しばしば預言者や、祭司レビ人の指導を無視して・・・・
この様に解説すると、今朝のテキストに顕された、神の裁きの御言葉の一言一言が、突き刺さるように迫ってきませんか・・・❓
これは遙か数千年前の物語として学んでいるのではなく、わたしを愛し愛(イトオ)しまれる、主なる神・救い主の御思いと、深く重なって見えて来るのです。
☆「終わりが来た」と言う言葉が、5回も重ねて、宣言されています、この言葉の前に、混沌とする、私たちの日常に興っている、目を覆うばかりの、残虐行為・破廉恥な行為・自らの利得のみを求めて、他人を貶(オトシ)める詐欺行為、愛する者・家族-肉身の殺人・・・エゼキエルの時代と何処が変わっているのか??と、心が痛みます。
一方、ガザのハマスとイスラエルの殺し合い(敢えて戦争とは書きません)・ロシアとウクライナの紛争・・・正に《終わりが来る》のエゼキエルの言葉が響いてきます。
今日のテキストは、まるで、黙示録の、終わりの時代の到来を告げる様な、内容です。
その時が来た。
その日がやって来た。
と言う緊迫した言葉が周りに満ちる前に・・・
エゼキエルは、命懸けで、遙か一千km以上隔てた、ユダとイスラエルの民に、語り掛けたのです。これを聴いたテルアビブ(現在のヤッファ)から捕囚となった民に聴かせ、彼等から故郷に残った、民に伝えさせるのです。
今私達は、神の愛と恵みに立ち返った、恵と平安の中に在りますが、残された家族・友人・知人を思いながら、危機が迫る今の時代の中で、福音を伝える使命に、置かれていることを、今朝新たに心に刻ませていただきましょう。
 エゼキエル書  6章1節~14節

6:1 次のような【主】のことばが私にあった。
6:2 「人の子よ。イスラエルの山々に顔を向け、それらに向かって預言せよ。
6:3 『イスラエルの山々よ、【神】である主のことばを聞け。【神】である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう言われる。見よ。わたしは剣をあなたがたの上にもたらし、あなたがたの高き所を滅ぼす。
6:4 あなたがたの祭壇は荒らされ、あなたがたの香の台は破壊される。わたしはあなたがたの中の刺し殺された者どもを、あなたがたの偶像の前に投げ捨てる。
6:5 わたしはイスラエルの民の屍を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の周りに散らす。
6:6 あなたがたがどこに住もうとも、町々は廃墟となり、高き所は荒らされる。こうして、あなたがたの祭壇は廃墟となり、罰を受ける。あなたがたの偶像は破壊されて消滅し、あなたがたの香の台は切り倒され、あなたがたのわざは消し去られ、
6:7 刺し殺された者があなたがたのただ中に横たわる。そのときあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。
6:8 しかし、わたしは、あなたがたのうちのある者を残しておく。あなたがたが諸国に追い散らされるとき、剣から逃れる者たちを国々の中に残す。
6:9 あなたがたのうちで逃れた者たちは、捕虜になって行った国々で、わたしから離れた彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目に、わたしがどんなに傷ついたかを思い起こす。自分たちのした悪や、あらゆる忌み嫌うべきことを、彼ら自らが嫌うようになるとき、
6:10 彼らは、わたしが【主】であること、また、わたしが理由もなく、このわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知る。』」
6:11 【神】である主はこう言われる。「あなたは手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の、忌み嫌うべきすべての悪のゆえに、『ああ』と嘆け。彼らが剣と飢饉と疫病によって倒れるからだ。
6:12 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣に倒れ、生き残って監視されている者は飢饉で死ぬ。こうして、わたしは彼らに対する激しい憤りを終わらせる。
6:13 彼らのうちの刺し殺された者たちが、祭壇の周りの自分たちの偶像の間に、すべての高い丘の上や山々の頂に、すべての青々とした木の下や、すべての茂った樫の木の下に、すなわち、彼らがあらゆる偶像に芳ばしい香りを供えた場所に横たわるとき、あなたがたは、わたしが【主】であることを知る。
6:14 わたしが彼らの上に手を伸ばし、すべて彼らの住む所、荒野からリブラまでの地を完全に荒廃した地とするとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」
 2025年7月25日(金)リビングライフQT

主なる神の御言葉は、更に厳しく続けられます。
彼等の心の拠り所であるエルサレムへの徹底した裁きは、正に、ユダ・イスラエルへの神からの鉄槌となって、民全体の崩壊を意味してきました。
今日は更に主の御言葉は、イスラエルの山々への、神の裁きの宣告が語られます。
イスラエルの山々は、決して高くそびえる山ではないのですが、緩やかな山や谷や丘は、緑が生い茂り、命の神秘を感じさせる、憩いと慰めの環境でした。
神から賜ったこの美しい環境を、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、カナンの地に突入した時代(エゼキエルの時代の800年前)からこの地に割拠していた小民族(カナン人)は、バアル・アシュラ・アナト・モレク等々の偶像が祭られ、祭壇が据えられ、儀式が行われていたのが、3節の[山や丘、谷川や谷]なのです。各預言書には [高き所] と記されています。一度は取り除いたのですが、中には、その祭壇を浄め、組み替えて、彼等の神・創造者に祈る祭壇として、流用したのです。
また、先住民の祭壇を、破壊しないで、放置したのです。それらが後々、同じように、真の神に祈るときの祭壇として使ったり、更に酷い民は、生き残りのカナン人と、秘かに組んで、偶像礼拝に流れて行ったのです。
その結果、民の生活と文化の中に、当然のように、異なる神々が混入してきたのです。
4節・6節で、[あなたがたの祭壇] [あなたがたの偶像]・・・と、記されているのが、解説してきました、イスラエルの、偶像化なのです。
何という愚かな歴史となったのでしょう。
それは、彼等の歴史を愚かと笑えない、今の時代を忘れてはならないのです。私達がクリスチャンであることは、形や・生活の上では、確かなのですが、その内なる価値観・第一とする優先順位が、祈りと、礼拝と神に聴く生活の土台となっているでしょうか?
痛みを伴って、気が付く・・・イスラエルの歴史を、踏襲しないように 、今新たに、私の、あなたの目を、主に向けましょう。
禍に魂が痛み、多くの恵みと祝福を失ってから初めて、14節に記されたような・・・・
『わたしが主であることを知る❗』となる前に、今日も、主の前に新たな信仰を、主に献げましょう。
 エゼキエル書  5章1節~17節

5:1 人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。
5:2 その三分の一を、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、またもう三分の一を取って町の周りで剣で打ち、残りの三分の一を風に乗せて散らせ。わたしは剣を抜いてその後を追う。
5:3 あなたはそこからわずかな毛を取って、あなたの衣の裾に包み、
5:4 その中からさらにいくらかを取って、火の中に投げ入れ、火で燃やせ。火がそこから出て、イスラエルの全家に燃え移る。」
5:5 【神】である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。
5:6 エルサレムは悪事を働き、諸国の民以上にわたしの定めに、周囲の国々以上にわたしの掟に逆らった。実に、エルサレムはわたしの定めを嫌い、わたしの掟に従って歩まなかった。
5:7 それゆえ──【神】である主はこう言われる──あなたがたは周りの国々よりも粗暴な者たちで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを行わず、それどころか、あなたがたの周りの国々の定めさえ行わなかった。
5:8 それゆえ──【神】である主はこう言われる──今、わたしはあなたを敵とし、国々の目の前で、あなたのただ中でさばきを下す。
5:9 あなたのしたすべての忌み嫌うべきことのゆえに、これまでしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたに対して行う。
5:10 それで、あなたのうちの父は自分の子どもを食べ、子どもは自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をみな四方に散らす。
5:11 それゆえ──【神】である主のことば──わたしは生きている。あなたが、あらゆる忌まわしいものと、あらゆる忌み嫌うべきことによって、わたしの聖所を汚したので、わたしもまた身を引き、あわれみをかけない。わたしもまた、惜しまない。
5:12 あなたの三分の一は疫病で死ぬか、あなたのただ中で飢饉によって滅び、三分の一はあなたの周りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らの後を追う。
5:13 わたしの怒りが出し尽くされると、わたしは彼らに対する憤りを収めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを終わらせたとき、彼らは、【主】であるわたしが、ねたみをもって語ったことを知る。
5:14 わたしは、あなたの周りの国々の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりの的とする。
5:15 わたしが、怒り、憤り、また憤りによる懲罰をもってあなたにさばきを下すとき、あなたは周りの国々のそしりとののしりの的、教訓と恐怖となる。【主】であるわたしがこれを告げる。
5:16 わたしが飢饉という悪しき矢を、滅びのため彼らに放ち、あなたがたを滅ぼそうとして放つとき、わたしは飢饉をあなたがたの上にいっそう増して、あなたがたのパンの蓄えをなくす。
5:17 わたしはあなたがたに飢饉と悪い獣を送る。それらはあなたに子を失わせる。疫病と流血があなたのうちに起こる。わたしはあなたの上に剣をもたらす。【主】であるわたしがこれを告げる。」
 2025年7月24日(木)リビングライフQT

神からの、絶望的な宣言ですね。主なる神の指示により、一つ一つのパフォーマンスを組み立て、主の命じられるままに行動する、エゼキエルの姿に、私は《ふと》何と❗忠実な主なる神への服従だろう‼️・・・と、感銘に近い思いをいだきました。私は、福音(神の御言葉・神様から受けた体験・頂いた祝福・・etc.)を、人々に語る(伝える)時、どんな伝え方をして来ただろう???
☆自分なりの解釈を施したり、
☆この様に言えば、理解してもらえるだろうから・・・
☆あまり神秘すぎるから・・・・等々
言い換えたり、再解釈したり、装飾したり、世の一般の説得や、手段や、方法を、講じたりしてこなかっただろうか・・・❓
ふと、そんな思いに駆られました。
尤も、エゼキエルが経験したような、導きや体験を、私達がするのではないのですけれど・・・
要は、私の内に・人生に興った、神の御業が、自己改革や、努力による成果としてではなく、正に、見えない創造主の御業だ・・・‼️と、証しされてきただろうか・・・??と、ふりり返らされたのです。
それは説得ではなく、大能の神の愛と命と力の顕れとしての、私が・あなたが其処に在る・・・‼️

私の黙想を先に流してしまいましたが、改めて、福音の宣教・証し・が、物語や、体験や、驚きのニュースとしてではなく、『神の愛が、かく成した‼️』『それは、あなたにも、又起こりうる、神の恵のみ業‼️神はあなたを愛しておられる‼️』と、伝わることを願いながら、証人として、主の愛と力を表してまいりましょう。神様を通して顕される業は、エルサレムの崩壊と民の離散と、飢餓・疫病・侵略と虐殺・・・
何という神からのメッセージでしょう。
この様な神の怒りが顕されるまでには、先にも書かれてあった様に、390年(ソロモンに始まるユダ・イスラエルの、分裂国家)の全ての歴史の、積み重ねた、神への反抗に対する、神からの回答となったのです。
主なる神は、侮るべき御方ではありません。
主は待っておられる御方ではありますが、彼等の反逆は400年近くも・・・・・(x_x;)
主なる神の、哀しみと、辛さは、想像に絶するものだったと、エゼキエルは、身をもって知ることになったのです。これが預言者の資質なのです。
主なる神のお心と一つになって、民に語り掛けるために・・・・
 エゼキエル書  4章1節~17節

4:1 人の子よ。あなたは粘土の板を一枚取り、それを自分の前に置き、その上にエルサレムの町を描け。
4:2 それから、それに対する包囲網を張れ。それに対して塁を築き、包囲壁を作れ。それに対して陣営を設け、周りに城壁崩しを配備せよ。
4:3 また、鉄の板一つを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立てよ。あなたが自分の顔をしっかりとこの町に向けると、この町は包囲される。あなたがこれを攻め囲むのだ。これがイスラエルの家に対するしるしだ。
4:4 あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
4:5 わたしはあなたのために、彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。このように、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
4:6 あなたがこれらのことを終えたら、次に右脇を下にして身を横たえ、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは一年を一日としてあなたに課す。
4:7 それから、あなたは顔をしっかりと、包囲されているエルサレムの方に向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。
4:8 見よ。わたしはあなたに縄をかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。
4:9 あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、粟、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それで自分のためにパンを作り、あなたが脇を下にして横たわっている日数、すなわち三百九十日間それを食べよ。
4:10 あなたが食べる食物は、重さにして一日分二十シェケルである。一日一回それを食べよ。
4:11 あなたが飲む水も、六分の一ヒンを量って、それを一日一回飲め。
4:12 あなたは大麦のパン菓子を食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け。」
4:13 【主】は言われた。「このようにイスラエルの民は、わたしが追いやる国々の中で、自分たちの汚れたパンを食べなければならない。」
4:14 そこで私は言った。「ああ、【神】、主よ。私は身を汚したことがありません。幼い時から今まで、死んだ動物や野獣にかみ裂かれたものを食べたことも、不浄な肉を口にしたこともありません。」
4:15 すると、主は私に言われた。「では、人の糞の代わりに牛の糞でよい。あなたはその上で自分のパンを作れ。」
4:16 そして私に言われた。「人の子よ、見よ。わたしはエルサレムで、パンの蓄えをなくそうとしている。彼らは恐る恐る量ってパンを食べ、おびえながら水を量って飲む。
4:17 こうしてパンと水が乏しくなり、だれもかれもが茫然として、自分たちの咎のゆえに朽ち果てる。
 2025年7月23日(水)リビングライフQT

主なる神は、今や、エゼキエルを、ユダ・イスラエルのバビロンに捕囚として連れて来られた民に、今後の彼等の歴史と、離れてきた、彼等の故郷(彼等の懐かしい故郷)ではなく、むしろ今となっては、彼等の存在の根幹・・・である《エルサレム》即ち、心の拠り所が、どの様になっていくかを、預言するために、大変不思議なパフォーマンスを、エゼキエルに求められたのです。
今朝のテキストにある、一つ一つの示唆が、何を意味しているか・・・?を解き明かすのは、このリビングライフQTでの役目では無いので、対応しませんが、 少なくとも、エゼキエルは、この預言に先立ち、神の御思いを知ることの重要性があることを、この事から知るのです。
預言者の言葉・福音宣教を委ねられた私達クリスチャンに取って、ただ、☆神が与える、神の言葉     ☆クリスチャンが受けた救いの福音    
☆数千年の歴史を通して与えられた、聖書の教え(福音) ・・・・・
これ等の教えを学び、
それを習得して、確かに伝える・・・・‼️
そうではないのです。
主なる神の傷みと哀しみと、更に、審判を内に秘めた、厳しい叱責を、先ず預言者が、体感する必要があったのです。
私達の、伝道・証し・ 愛の宣教は、知っていることを伝えるのではなく、主なる神が魂に触れてくださり、赦され、愛されている・・・喜びと感動に、心震えるような愛と、あふれる思いで、伝えましよう‼️
主の語り掛けを、沢山体験しましょう。
 エゼキエル書  3章16節~27節

3:16 七日の終わりになって、次のような【主】のことばが私にあった。
3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。
3:20 また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
3:21 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」
3:22 その場所で【主】の御手が私の上にあった。主は私に言われた。「さあ、平地に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」
3:23 私は平地に出て行った。すると、【主】の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、そこにとどまっていた。それで私はひれ伏した。
3:24 それから、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。主は私に語りかけられた。「行って、あなたの家に閉じこもっていなさい。
3:25 人の子よ。今に人々があなたに縄をかけて縛るので、あなたは彼らのところに出て行けなくなる。
3:26 わたしがあなたの舌を上あごに付かせるので、あなたは話せなくなり、あなたは彼らにとって責める者ではなくなる。彼らは反逆の家なのだから。
3:27 しかしわたしは、あなたと語るときにあなたの口を開く。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家なのだから。
 2025年7月22日(火)リビングライフQT

昨日の続きです。テルアビブの地から捕囚となってきた住民の集団の地に、エゼキエルは遣わされました。理由は記されていませんが、エゼキエルは、彼等の生活の姿を見て、ショック(❓)受けて、七日間彼等の生活の中に居ながら、只、茫然自失で、言葉を失ったまま動けなかった…と
何を見たのでしょう?
・・・これは私の想像なのですが・・・・
元々、テルアビブは、地中海の港町でした。
港町は、エジプトに、ローマに通じ、アジア・マケドニア・ギリシャに通じる、文化・民族・宗教・富・・・の交流する繁栄の地でした。栄えてはいましたが、その分、その地は、主なる神の国ではなく、商才に長(タ)けた国際都市であったのでしょう。
そこから移住して来た、テルアビブの住民でしたから、バビロンの王は、彼等の才覚を見抜いて、この地に新しい植民都市を築いて、彼等(テルアビブからの捕囚の民)を、優遇して、バビロン化していたのでしょう。
バビロンは、強大な古代国家の代名詞となるほどの、覇権国家でしたが、その文化や行政は、イスラエルから観れば、真に稚拙な行政組織だったのです。
バビロンのイスラエルの民の捕囚は、そのような国家組織の隙間を埋めるための、移民(植民)政策だったのです。
神の臨在と恵とに包まれた、あのエルサレム中心の、神聖国家とは、及びも付かない堕落した世俗に浸った姿に、エゼキエルは食べるのも飲むのも忘れて、茫然自失だったのです。
主なる神は、この姿をエゼキエルに見せて、神御自身の胸の内を観させ、感じさせたのです。
そして、これ等の民に、神の御心を伝え、 「イスラエルの家の見張りとした。」と語られ、彼等の生活の中で、神の御心に生きることのなんたるか❗
神の御心に背く道は、どの道かを、彼等にはっきりと語って聞かせるよう命じられました。
正に、福音宣教の使命を与えられたのです。
彼等を恐れて語らねば、エゼキエルの、責めとなり、語ってもなお、彼等が背くなら、その責めは、従わない(聴かない)民の裁きとなる
その結果、エゼキエルに禍い・迫害・拘束がその身に及んでも、ひるむことなく、大胆に、神のメッセ~ジを語るように・・・・・
『神である主はこう言われる。』と、語らねばならない❗と、命ぜられたのです。
今の時代、この様な預言者職はいないのですが、随分多くの、主の弟子達(クリスチャン)が、福音を語ったことで迫害を受け、左遷されたり、殉教したり、追放・投獄・排除の憂き目に遭ってきました。それが教会の歴史ともなりました。
しかし、この命がけの働きが、幾百万の罪人が滅びから命へと、移されたのです‼️
今や、エゼキエルの働きは、教会の使命となり、力強く働いてきました、これからも・・・・
   ハレルヤ
 エゼキエル書  3章1節~15節

3:1 その方は私に言われた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ。」
3:2 私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、
3:3 そして言われた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。
3:4 その方はまた、私に言われた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばをもって彼らに語れ。
3:5 あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。
3:6 あなたを、そのことばを聞いても分からないような、難しい外国語を話す多くの民に遣わすのではない。もし、わたしがこれらの民にあなたを遣わしたのなら、彼らはあなたの言うことを聞いたであろう。
3:7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。
3:8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。
3:9 わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」
3:10 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばをあなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
3:11 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『【神】である主はこう言われる』と彼らに言え。」
3:12 それから、霊が私を引き上げた。そのとき私は、うしろの方で、「【主】の栄光が御住まいでほめたたえられますように」という大きなとどろきを聞いた。
3:13 それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきになっていた。
3:14 霊は私を持ち上げ、私を捕らえた。それで、私は自分の霊の憤りを覚えつつ、苦々しい思いで出て行った。【主】の御手は私の上に強くのしかかっていた。
3:15 私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたが、私は彼らが住んでいるその場所で、七日間、茫然として彼らの中に座っていた。
 2025年7月21日(月)リビングライフQT

《御言葉を食べる》
エゼキエル書は、未だこれから学ぼうとしているはずなのに、冒頭から、その内容の何とも喩えようもないほど、厳しくも強烈な、神御自身の御思いのこもった、極めて神聖さ、厳しさ・・・最早、この世の価値観や感情では表せない、神の臨在に満ちた、御国の様相を示しています。
その中で、神はエゼキエルに語り掛けられ、特に[神の人=エゼキエル]の存在(人格)を通して、永遠の《聖》さと、万物の創造者としての権威と力を前面に押し出されて、反逆の民への怒り・哀しみ・嘆きを、裁きを重く伝えて、民の改心を願われたのです。
その全てを担ったのが、エゼキエルなのです。
イスラエルの民の、あまりの反抗と、神への敵対を知るほどに、神の御思いと、御言葉は、エゼキエルの魂を、耐え難く重くしているのが解ります。その様子が・・・
14節に、霊は私を持ち上げ、私を捕らえた。それで、私は自分の霊の憤りを覚えつつ、苦々(ニガニガ)しい思いで出て行った。主の御手は私の上に、強くのしかかっていた。
エゼキエルは、この幻を、イスラエルから遙かに離れた、パビロンの、ケバル川のほとりで、受けたのです。
15節には・・・私はテル・アビブの捕囚の民の所に行った。かつてのその町の人々は、集団となって、住んでいた。
遙か1000kmも故郷から離れた地、かつての、出エジプトのように、何十万の人と共に、持てるだけの物で、ひいてこられた人々ですから、その心は萎えており、希望も信仰も引き裂かれた状態だったのです。
それは、まさに、神の怒りの結果であることは、彼等には自明の事でした。
この様な、民の、打ちひしがれた様に対する神御自身の現れ方は、怒りを込めた脅かしなのではなく、それでも民を見捨てられない御自身の自己矛盾への怒りが、この様な形で顕されたのではないでしょうか。
エゼキエルは、この様な神の心の痛みと悲しみを、正面から受けながら、この思いを、民に語ろうとしているのです。
私達は、良く言い交わすこと、また、教会を通して、福音を宣べ伝えよう・・・‼️と、教えられるのですが、それは正に、神の傷みと哀しみの物語《十字架の贖いの福音》を、周りの人々に伝えるのと、同じ使命なのです。
日本の歴史でも、迫害と殉教を伴いながら、積み重ねられてきたものです。
9節~
彼等を恐れるな。彼等の顔におびえるな。
11節〜
彼等が聞いても、聞かなくても
『神である主はこう言われる。』と彼等に言え。
終わりの時代にある、私達の教会(私・あなた)に迫られる神の語り掛けです。
主なる神はどの様に、導かれるのでしょう。
明日からを更に凝視して参りましょう。

 エゼキエル書  2章1節~10節

2:1 その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」
2:2 その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。
2:3 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。
2:4 彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。
2:5 反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない。
2:6 人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。
2:7 彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。
2:8 人の子よ。あなたは、わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のように、あなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
2:9 私が見ると、なんと、私の方に手が伸ばされていて、その中に一つの巻物があった。
2:10 その方はそれを私の前で広げた。それは表にも裏にも文字が書かれていた。そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた。
 2025年7月20日(日)リビングライフQT

神はエゼキエルに、『人の子よ、・・・・』と呼びかけます。
私は、この呼び掛けに、フト❗様々な想いが心の中を駆け巡りました。
主なる神は、どの様な想いで、この様な語り掛けをなさったのでしょう。
創造者なる神を忘れ神なしの欲望の泥沼の中から、アブラハムを選び、全人類・全歴史に生まれる人々の、神に立ち返る指標とされたイスラエルの民を、エジプトの奴隷の苦しみから解き放ち、あの紅海を二つに分けて、エジプトから解き放たれ民を、導き続けて、神と一つにされましたね。しかし、彼等は歴史を重ねながら激しく神に逆らい、遂に、神の怒りと鞭により、バビロンの奴隷となったのです。(正にエジプト返りです)
最早神に見捨てられ、裁かれる以外の道しか残されてない事態に刻まれる歴史を綴った中から、 この神聖なイスラエルは、真の神ならぬ神々を、崇め、祭り上げ、あの神聖な奇跡の神、天地万有の創り主を、捨て去ったのです。・・・・
今、彼等が離れ捨て去った、創造主・アブラハムの神を裏切り、魂の砂漠の中の日々を、バビロンに曝しているのです。神はそのような反逆の民に、今、エゼキエルによって、語り掛けようとされているのです。
エゼキエルの内面の恐れ(神からの警告と悔い改めを語る事への、それなりの覚悟❗)が、エゼキエルの魂を波立たせていたのでしょう。そこに『神の人よ‼️』この呼び掛けですから、全身を開き神に向き合ったその時、☆2節~その方が私に語り掛けると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。
その時自分に語り掛ける言葉を聴いた。
☆3節〜わたしはあなたを彼等に遣わす。
☆4節〜「神である主はこう言われる。」と言え
☆5節~「聞く聞かないに関わりなく・・・」
☆6節〜彼等を、恐れるな。・・・ 彼等の顔におびえるな。
エゼキエルに、神の御手が伸ばされて、一つの巻物が差し出され、それを広げると・・・
嘆きと、うめきと、悲痛がびっしりと記されていたのです。
お分かりでしょうか。
その書かれていたのは、まさに、創造者なる神の御想いなのです。
☆10節
その方はそれを私の前で広げた。それは表にも裏にも嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた。

これを読んだ時、胸のつまる思いでした。
暫く、心の思考が止まったのです。
光と輝きの源である御方が、ご自分の御創造になられた、《人》の歩みが・存在が、こんなにも御心を痛めてきたのかと、
自らの事として、頭を垂れ、そっと、十字架を仰ぎ見たのです。
エゼキエルの担った使命が、どんなに重いか・・・明日からの内容にかかりますが、今改めて、《罪=神に背く》が、どんなに創造者なる神を、悲しませてきたかを、改めて、知らされたような瞬間でした。
しかし、振り仰ぐと、其処には・・・・・
『父よ‼️  彼等を御赦し下さい‼️』のみ声が降ってきたのです。
    ア~メン‼️
 エゼキエル書  1章15節~28節

1:15 私がその生きものを見ていると、それら四つの顔の生きもののそばには、地の上にそれぞれ輪が一つずつあった。
1:16 それらの輪の形と作りは、輝く緑柱石のようで、四つともよく似ていた。それらの形と作りは、ちょうど、輪の中に輪があるようであった。
1:17 それらは四方のどの方向にも進み、進むときには向きを変えなかった。
1:18 その輪の周りの縁は高さがあって恐ろしく、四つの輪の周りの縁は一面、目で満ちていた。
1:19 生きものが進むときには輪もそのそばを進み、生きものが地上から上がるときには輪も上がった。
1:20 これらは霊が進もうとするところに進み、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
1:21 生きものが進むときには輪も進み、生きものが止まるときには輪も止まり、生きものが地上から上がるときには輪も上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
1:22 生きものの頭上には、まばゆい水晶のような大空に似たものがあり、頭上高く広がっていた。
1:23 その大空の下で、その翼が互いにまっすぐに伸び、それぞれ一対の翼が彼らをおおっていた。それぞれの一対の翼が彼らのからだをおおっていたのである。
1:24 彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのよう、全能者の声のようであり、そのどよめきは陣営の騒音のようであった。彼らが止まるときに、その翼は垂れた。
1:25 彼らの頭上にある大空から声があった。彼らが止まったとき、その翼は垂れた。
1:26 彼らの頭上、大空のはるか上の方には、サファイアのように見える王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
1:27 私が見ると、その腰と見えるところから上の方は、その中と周りが琥珀のきらめきのように輝き、火のように見えた。腰と見えるところから下の方に、私は火のようなものを見た。その方の周りには輝きがあった。
1:28 その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに【主】の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。
 2025年7月19日(土)リビングライフQT

今朝のエゼキエルが目(肉眼で視た?観た?・・)にした映像は、眼前に顕れた存在を、目の奥の網膜に映像化されたものとして、言葉や絵図で表したのでしょうか。
恐らく、到底、図面では表現できないものでは無いかと・・・・
その姿は、三次元で表現できない、様態と、動向を、その幻は示しているですから。
一体この幻は、何を顕しているのでしょう。
それは、捕囚の民となった、イスラエルに対して、御自身を顕そうとされている、神御自身の《意図》ではないだろうか?と、考えて見ました。
その顕されている、様々な様態は、正に人間の概念や、想像を遙かに越えた、別世界の秩序のような感じがしています。
これ等をあまりに詳しく、細かく解説するのは、返って、自らの理性と知性で、分かろう(解ろう)とする、独りよがりは、傲慢に堕ちはしないか・・・?と、私は危惧します。
解らないまま、しかし、厳粛さ・・・・の中に、ひれ伏し、より深い臨在を待つ・・・事が求められているのでは・・・?と、考えさせられるのです。
27節に来ると、更に更に、主なる神の臨在の深さ大きさが迫り、遂に、神御自身のみ声を、聴くことになるのです。
私達は、頭で理解しようとしないで、神が与えようとされることを待ち望み、主からの啓示に触れて参りましょう。
主なる神は、語り掛けられる御方ですから。
サムエルのように、
座して、
『主よ❗私は聴きます。御語り下さい。‼️』と、待ち望みたいですね。
 エゼキエル書  1章1節~14節 

1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
1:2 それはエホヤキン王が捕囚となってから五年目の時であった。その月の五日に、
1:3 カルデア人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルに【主】のことばが確かに臨んだ。その場所で【主】の御手が彼の上にあった。
1:4 私が見ていると、見よ、激しい風が北からやって来た。それは大きな雲と、きらめき渡る火を伴い、その周りには輝きがあった。その火の中央からは琥珀のようなきらめきが出ていた。
1:5 その中に生きもののようなものが四つ現れ、その姿は次のようであった。彼らは人間のような姿をしていたが、
1:6 それぞれ四つの顔と四つの翼を持っていた。
1:7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のようにきらめいていた。
1:8 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。また、その四つの生きものの顔と翼は次のようであった。
1:9 彼らの翼は互いに触れ合っていて、進むときには向きを変えず、それぞれ正面に向かってまっすぐに進んだ。
1:10 彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた。
1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに触れ合っていて、もう二つはそれぞれのからだをおおっていた。
1:12 彼らはそれぞれ前を向いてまっすぐに進んだ。霊が進ませるところに彼らは進み、進むときには向きを変えなかった。
1:13 それらの生きものの姿は燃える炭火のようであり、たいまつのように見えた。火がそれらの生きものの間を行き来していた。火には輝きがあり、その火から稲妻が出ていた。
1:14 それらの生きものは、閃光のように出たり入ったりしていた。
 2025年7月18日(金)リビングライフQT

今日から、旧約聖書の中の、「三大預言書→イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書」と呼ばれる中のこのエゼキエル書を学びます。新約聖書の学びは、本文そのものが《御言葉》として、そのまま心に語り掛けてくる、内容でしたが、預言書は、新約聖書より更に遡ること五・六百年も古代の書巻ですから、どうしても解説が必要になります。解説の時代背景、文化、預言を受ける人々の状況を学びながら、その歴史の中に自らを置きながら、神様から離れやすい人の弱さ、迷いの多さ、など・・・その様な中、神の語り掛けを、読み解いて参りましょう。聖書の世界は、今も昔(数百・数千年を隔てて)も、変わることのない、真理として、読み・聴く全ての人に語り掛けられるのです。今に生き・働かれる《神》の言葉として、迫ってくるのです。

さて、今日のテキストは、預言者エゼキエルに、語り掛けられた、神の言葉のあった時代と、状況が記録されています。
ユダの王エホヤキン王が捕囚になってから・・・・BC597年(この時代の日本は、縄文時代の終わりで、集落が生まれ始めた時代です)イスラエルの南王朝ユダは、強大なバビロン帝国の王、ネブカデネザルの波状的な攻撃に屈して、エホヤキン王が連れ去られたとき、多くのユダの民、エルサレムの市民も、捕囚として拉致されました。その中に、エルサレムで祭司として、神事に携わっていたエゼキエルも居たのです。
1000kmも離れたカルデヤ(ユーフラテス河の下流・現在のイラク)
に連れ去られ、神の守り、恩寵の世界から、断絶されたのです。

今朝、私達が心に留めたいのは、神に背いて、祭司や預言者の言葉に耳をかさず、堕落のどん底(神殿の中にまで偶像を持ち込む程)に落ちたユダの民
ユダの滅亡は、その結果なのです。
所が、捕囚となって、手も足も、もがれたようなユダの民に、神がエゼキエルを通して、語り掛けた・・・‼️と言う3節のメッセージなのです。
更に、エゼキエルが見た幻は、こうして読むと、奇妙な生き物で、この世界には存在しない、
不思議な生き物だったのです。
当時の人々に知られ、最も強い(優れた力と知恵を持つ)生き物の合体した姿
   →人間・獅子・牛・鷲←
神の使いの象徴的姿なのです。
私達は今、どんな時にも、見捨てず、滅ぼさず、断罪せず・・・背く者をこよなく愛して、御自身を顕されて、語り掛ける御方‼️
この御方が居られるから、今の《わたし》があることを、深く想いましょう。
 テモテへの手紙第一 6章11節~21節 

6:11 しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
6:12 信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。
6:13 私は、すべてのものにいのちを与えてくださる神の御前で、また、ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。
6:14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。
6:15 キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
6:16 死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。
6:17 今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、
6:18 善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、
6:19 来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。
6:20 テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。
6:21 ある者たちはこの「知識」を持っていると主張して、信仰から外れてしまっています。恵みがあなたがたとともにありますように。
 2025年7月17日(木)リビングライフQT

この手紙の締めくくりとなるテキストです。
先ず、最初に飛び込んでくるパウロ先生の言葉は、『神の人よ❗』の呼びかけです。パウロ先生の思いは、決して、テモテの人格性を高く評価して、この様に呼びかけをしたのではないでしよう。 むしろテモテに、神から委ねられた働きの神聖さと、重みを、テモテの魂に深く自覚を促す意味合いを持って、新たに信任するための、呼びかけではないでしょうか。
私は、この書簡を今日まで学びながら、自らを、テモテの立場に置き直して、考え、祈り、思い巡らしてきましたので、《神の人よ》の呼び掛けは、青天の霹靂(セイテンノヘキレキ=突然の雷鳴の響に魂を呼び覚まされる想い)の様な、衝撃的呼び掛けに感じました。そして、この後に語られるパウロ先生の、一言一言が、重く魂、深くに刻まれるように感じながら、この晩年 (❓)に、新鮮に重く受け止めて参りました。そして、二度読み直したのです。
☆13節~ポンテオ・ピラトに対して為された告白とは・・・
再録すると、長くなるので、聖書の引照を記します。何れも・・・
ヨハネによる福音書
  ✴18章33節~37節
  ✴19章10節~11節
ローマの総督ピラトの質問に応えられた、主イエス様の御言葉です。それは質問への答えではなく、正に永遠の御国の福音を示唆する、御言葉でした。
続いては、パウロ先生のテモテへの、霊的(信仰の)勧告(=命令)です。
☆自らを、永遠(なる御方)の御支配の元に置きなさい。
☆富める人は、地の宝に望みを置かず、永遠のいのちを与える御方(神)に、望みを置くように・・・
☆善行に富み・惜しみなく与え
☆来るべき世に自らを生かす、いのちの恵を蓄え、
☆主から委ねられた、人々を、立場を、教会を、しっかり護る‼️
☆議論・噂や・時代の知識(方法論)・・・に、流されないように。
只、福音にしっかりと根を下ろし、イエス・キリスト様だけを、証して参りましょう‼️
恵があなたとともにありますように‼️(*^_^*)
 テモテへの手紙第一 6章1節~10節 

6:1 奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。
6:2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。
6:3 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、
6:4 その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。
6:5 これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。
6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
6:7 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。
 2025年7月16日(水)リビングライフQT

更に、信徒の群れ牧会の具体的導きの勧めが展開されています。

☆奴隷(終身使用人)
彼等は、どの様な流れで、福音に繫がったのかは良く分かりませんが、それなりに福音を聴く機会があった❗・・・と言うことでしょう。
そればかりか、主の日の礼拝にも、参加できたことがうかがわれます。彼等の信仰生活が、自分達が、大能の神、救い主の前に、立派な自由人だ‼️とばかりに、傲慢に振る舞うことのないように、持ち場、立場をわきまえることを・・・
そうすることが、信仰者の証しとなって輝く・・・と❗
☆更に、主人の家に雇われている、使用人は、主人と同じ信仰で同じ群れの集いの交わりにあるからと言って、慣れ親しみが過ぎ、仕事が疎かにならない様に、気を付けなさい。
魂(存在の根幹)が、信仰によって整えられると、日常の生活・仕事等の内容が、より義務感や、与えられた枠を超えて、心から仕える❗・・・と言う、輝きと喜びが、仕事にも、主人との関係にも、祝福となってくるのです。
☆パウロが語った福音に反する教え(律法主義的解釈)を持ち込んで、群れの間に議論を巻き起こして、まるで熱心なように、惑わす者たちの心は病んでいるのです。
ですから注意しなさい。そこには争い、議論、非難、ののしりが生じるのです。
☆福音に反することは、金銭を愛する(大切なものだし、それによって、神の働きさえも大きく出来る・・・)とさえ考えて、金銭を最重要視することで、生きた信仰が罪と死の世界へと落ち込んでいくのです。
テキストの真ん中にある言葉が、今日の、珠玉の光なのです。
『満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利得を得る道です。』
    ・・・・ア~メン・・・・
 テモテへの手紙第一 5章17節~25節 

5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。
5:18 聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。
5:19 長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。
5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。
5:21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。
5:22 だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。
5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。
5:24 ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。
5:25 同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。
 2025年7月15日(火)リビングライフQT

パウロの弟子であるテモテは、エペソを拠点として、地域に根ざした集会所で・・・・・
旧約聖書(律法・預言・神の民ーイスラエルーの歴史)を通して、成就した、イエス・キリストによる、ゴルゴタの丘に成就した、罪の贖いによる、救いの福音を、忍耐深く、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、ローマ人にも・・・分け隔て無く、教え伝えて救いに導く‼️と言う、素晴らしい働きは、当然、豊かな恵と祝福を伴う報いを受けるべき・・・だと、示唆したのです。
福音の働きとそれに伴う、多くの霊的闘い・忍耐を伴う時間の経過・家族を養うための仕事にも、集中できないまま、孤立することもある・・・・その様な葛藤に報いるための、応分の報酬を受けるのも、神の恵みの道・・・だと・・・・
その働きの重さと、全てに優る神の恵みを受けるに相応しい道であることを、教えています。
この様な働きの清さ、神聖さ故に、長老の上に興る噂や、顕れてこない罪や汚れに対しては、慎重を期して対応すべき事を、強く示唆しています。
              ・・・・・・・
更に、パウロは、弟子のテモテ自身に対して、働き人の任命には、慎重に慎重を期して、対応することを勧告します。
教会は、一般の社会の組織ではなく神の国の秩序(組織)だから、単なる能力評価による任命ではなく、聖霊の力に推された、神聖な任命としての『按手』であるべき事を語っています。
        ・・・・・更に・・・・・
自らの健康に留意すること・・・・ともすると、健康は、二の次になりやすいのですが、重要な点として、勧告されています。
最後に、良いことも、悪いことも、隠されたままで終わることがない・・・・それ故に、謙虚さと、明らかな良心の元に、心低くして歩むことを、改めて心に銘記することを、教えられました。
    アーメン‼️
 テモテへの手紙第一 5章1節~16節 

5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、
5:2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。
5:3 やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。
5:4 もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。
5:5 身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、
5:6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。
5:7 彼女たちが非難されることのないように、これらのことも命じなさい。
5:8 もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。
5:9 やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満ではなく、一人の夫の妻であった人で、
5:10 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助けるなど、すべての良いわざに励んだ人にしなさい。
5:11 若いやもめの登録は断りなさい。彼女たちは、キリストに背いて情欲にかられると、結婚したがり、
5:12 初めの誓いを捨ててしまったと非難を受けることになるからです。
5:13 そのうえ、怠けて、家々を歩き回ることを覚えます。ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話さなくてよいことまで話すのです。
5:14 ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。
5:15 すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。
5:16 もし信者である女の人に、やもめの身内がいるなら、その人がそのやもめを助けて、教会に負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます。
 2025年7月14日(月)リビングライフQT

昨日までの内容は、主の教会を導いていく(牧会の)為に必要な、日常社会的心得、更に霊的な課題についての勧めでしたが・・・・

今日からのパウロ先生のメッセージは、主の教会を常時牧会する、(伝道者・監督)テモテへの、個人的・個別的に関わる諸問題への、助言や原則の、勧めの言葉です。
そして、それはそのまま、全ての歴史を繫ぐ、主の教会への、訓戒ともなってきたのです。
内容が非常に具体的であるし、何時の時代にも、共通な原則ですから、現在の教会として、牧師のみならず、教会全体(信徒)として読み、心に留めながら、キリストの身体としての教会を、護っていきましょう。
今日のテキストでは、多くの行を重ねて当時の〈やもめ〉について語られています。少し説明しておきましょう。
☆〈やもめ=寡婦〉とは、夫と死別した妻のことで、古代社会では、夫の死は即、生活困窮者となるのです。そして、真に困窮するやもめは、教会に登録され、食事や生活への支援が、教会を通して、成されたのです。それだから、教会での〈やもめ〉の取り扱いは、古代社会の福祉であり、人々の驚きだったのです。
今日の社会福祉の原点ですね。
当時は (やもめ) が、社会問題化する事態を垣間見たのでしょう。
パウロ先生の、この勧めの言葉からも、当時の主に在る教会が、個人の救いの恵に留まらず、社会全体への神の恵みの証しを、如何に大切にしていたかを、知ることが出来ますね。
人類創造直後から始まった堕落が、社会全体に拡がった中、イエス・キリスト様の十字架の贖い(救い)は、個々の魂の救いに留まらず、家族・社会の秩序の回復にまで、拡がる要素を、示唆しています。
それらの要素が二千年の教会の歴史の中で、多くの社会のひずみを、傷みを、回復する働きへと開かれてきました。
☆女性の地位の向上。
☆貧困者への、支援。
☆様々な福祉支援。
☆救護活動・・・・・・・etc.
勿論、これ等の働きの制度化が、人類救済に、取って代わるものではありませんが…
救いの恵は、ただ一つの道→イエス・キリスト様による、十字架の贖いのみなのです。
これ等の、社会的救済の道は、人々をあのゴルゴタの十字架へと導く、道標なのです。
 テモテへの手紙第一   4章6節~16節

4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
4:7 俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。
4:8 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。
4:9 このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。
4:10 私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。
4:11 あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。
4:12 あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。
4:13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
4:14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。
4:15 これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
4:16 自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。
 2025年7月13日(日)リビングライフQT

ふと、思いました。まだまだ続くこの手紙。羊皮紙か、パピルスで作られた紙(今の紙の何倍も厚い非常に高価な紙)に書かれた手紙なのだ…と
今日で6日目です。未だ後4日に亘って、パウロ先生の、テモテへの導きと訓戒は続くのです。
私達は、聖書通読・・・と言いながら、テモテへの手紙を、一回で読み切るでしょうか。
私は牧会書簡と言われる、短い箇所は、一度に読み切ることにしています。特に、音読すると、まるで私に宛てられた手紙のような気持ちで、魂に深く響いてきます。
一度やってみませんか。
さて、今日パウロ先生の、テモテへの勧めは、《敬虔であれ》と言う課題で一貫しています。
[敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。]
[敬虔]→それは、内面から滲み出る、いのち=存在・・・と一体化した、福音が姿を持って顕れてくる、証しの輝きです。
この、《敬虔》のために、自分自身を鍛錬しなさい。
これは、切磋琢磨(セッサタクマ)して訓練することでしょうか❓
一体それはどの様にして、身につけられるのでしょう。
それは、人と成られて、この世に顕れた、神の御子イエス・キリスト様の、生きられたお姿、そして遂には、あのゴルゴタの丘で、私達の罪の身代わりとなられて、十字架に贖いの死を遂げられた、《あの》イエス・キリスト様を、我が主・我が神と崇め、主が歩まれたうちに、悼みと、愛に根ざした業と御言葉を、心と身体に染みこませることです。
☆福音のために労苦し、苦闘する。
☆救い主である生ける神に、望みを置く
☆聖書の教えと朗読と教えに専念しなさい。
☆あなたの内にある賜物を軽んじではいけません。
☆・・・これ等のことに心を砕き、ひたすらに励みなさい
☆自分自身にも、教えることに、よく気を付けなさい。
牧師であれ、宣教師であれ、信徒として社会に日々歩む者であれ、福音に根ざした日々をしっかり歩む時、《敬虔は》あなたの存在の中から、輝き出すのです。あなたの存在そのものが、イエス・キリストの福音そのものが、輝き出すのです。
    ハレルヤ‼️

明日(14日)のテキスト
テモテへの手紙第一
             5章1節~16節 
 テモテへの手紙第一   3章14節~4章5節

3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。
3:15 たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。
3:16 だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
4:2 それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。
4:3 彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。
4:4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。
4:5 神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。
 2025年7月12日(土)リビングライフQT

[神の家]・・・それは、教会のことを指している・・と、述べられていますが→[《生ける》神の教会]と、語られていますね。
それは、《教会》と言う、場所・建物・組織・団体・・・を意味しているのではありません。
最終節にありますように・・・・・
5節~神の言葉と祈りによって、聖なるものとされた・・・
即ち、あなたであり、私なのです。クリスチャン(キリストの弟子)を意味しているのです。
《教会》と言われたとき、それは《わたし》なのだ・・・と、考えてみましょう。身の引き締まる思いがしますね。
この言葉《教会》の意味は、キリストの身体・・・に連なっている者‼️なのです。
パウロ先生が、この手紙を書いた頃(時代)は、先にも教会に加わった多くの民について、書きましたが、この時代には、《グノーシス》と言う、宗教的思想が広まっており、イエス・キリスト様の教えが再解釈されて、
究極的自己認識によって、自らを〈善〉だと悟る(知る・確認する)事で、内にある(悪・罪)は存在しない‼️と、考える教えなのです。
この考え方・宗教思想は、二千年の宗教史の中で、繰り返し顕れた思想です。今日でも、新興宗教がこの手法で、多くの人々を惑わしてきましたし、これからも、サタンはこの思想(教え)を、使い続けるでしょう。
禁欲主義・一つのことに特化した・・行(断食・徹夜・~断ち・奉献・・)・熱心な行為・等々

改めて、パウロ先生のテモテへの言葉を記して、閉じましょう。
私達教会の最も大切な教え(信ずべき魂の土台)
       ・・・・・それは・・・・・
16節~
『キリストは肉において現れ、
霊において義とされ、
御使いたちに見られ、
諸国の民の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光の内に上げられた。』  ア~メン‼️
 テモテへの手紙第一 3章1節~13節 

3:1 次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
3:2 ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、
3:3 酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、
3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。
3:5 自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
3:6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。
3:7 また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。
3:8 同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、
3:9 きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。
3:10 この人たちも、まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事として仕えさせなさい。
3:11 この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
3:12 執事は一人の妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。
3:13 執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。
 2025年7月11日(金)リビングライフQT

当時の教会はパウロ先生の宣教によって、次々と救われた人々で、新しい世界が生まれたような、群れだったと想像できます。
そこには、ユダヤ教の律法の、がんじがらめの信仰から、解放されたユダヤ人、知識をもてあそぶことを人生の生き甲斐に生きてきたかのようなギリシャ人、エペソのアルテミスの退廃的・快楽追求的女神信仰からの改心者・・・・そのような環境下での、新しい教会はきっと、さまざまな問題を内包していたことでしょう。
正に、サタンの支配・統治していた世界に、永遠の神の清い世界が生まれたのですから、どんなにか霊の闘いが厳しかったかが、伺われます。
イエス・キリストの教会が、この世に土台を据えて、そこから新しい神の国を建て挙げる働きに、必要な御言葉に生きるリーダーシップの土台が、今テモテに示されたのです。
監督・執事・奉仕者・・・があげられています。
新しい世界観・秩序・人格性・周囲からの高い評価・・・・
この文章の中に再録しようと思いましたが、もう一度あなたの手元の聖書(リビングライフ誌の聖書テキステでもOK)本文で、再度読み直してみましょう。
ごの聖書本文のパウロ先生の言葉は、今の時代でも、確かな神の国の民の、標準そのものです。
古代社会の中で、既に、一人の妻の夫で・・・・と言う行(クダリ)は、神の創造の最も基本だったことが分かりますね。
因みに・・・アブラハム・ヤコブ・ダビデ・・・等、聖徒と呼ばれた神の選ばれた父祖達は、複数の妻をめとりました。
あたかも、古代世界では、許容されたかのように!見過ごしがちですが、実は、その結果、民族対立・神の導く歴史を妨げる障害となり、様々な醜い争いや、純粋な光の道が、神の国の民の働きを、阻害してきたのです。

2000年を遙かに超えて、キリストの教会が、時代を超え、民族を超え、変化し続けてきた、文化・価値観・倫理観を一貫した真理が、永遠の教会の旗印となってきたのです。
終わりの時代に在って、新しい基準の教会ではなく、聖書的教会として、輝き続ける様に、祈りと献身をもって、聖書の真理を繫ぎ続けて参りましょう。
 テモテへの手紙第一 2章1節~15節 

2:1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
2:2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
2:3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
2:7 その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。
2:8 そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。
2:9 同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、
2:10 神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。
2:11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。
2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。
2:13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
2:14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。
2:15 女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。
 2025年7月10日(木)リビングライフQT

今、参院選の真っ最中。1節の御言葉は、折りに適った御言葉ですね。
今の世の中の乱れ、戦争の現実、世相の混乱 (残虐な殺人・詐欺・・・)目を覆うばかりの内外の混乱は、正に世の終わりを思わせるばかりです。
真剣に、社会のため、国のため、神の浄さと、輝きを見失った世界のために、言葉こそ、具体性が乏しくとも、祈らねばならないですね。
3節には~そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり
喜ばれることです。
                    ア~メン‼️
4節・5節・6節~は福音の神髄を、テモテに思い出させるための、記述ですが、正に私達にも、新たな真理の強調点ですね。
8節は、男性信徒への訓戒ですが、男性には1節だけ女性に関しては7節に亘って、述べられているのは、何故でしょう?
様々なことが考えられますがパウロ先生の書かれた内容を裏返せばある程度、想像できますので、ここでは扱いません。
☆男は・・・怒り・争い・対立・・・・を生みやすい攻撃型の性格が、潜在していますが、
パウロ先生は、その積極的・攻撃的力の性格を用いて、手を挙げて祈りなさい‼️と、勧めています。非常にうがった、力強い勧告ですね。
一方、女性には、《良い行い》で身を飾りなさい・・・・と。
ここで、今の民主主義的世界観の中で、[男女同権] と言う、考えが追求されていますが。
聖書は、女性(女=エバ)は、男性(男=アダム)の助け手・慰め手として、創られた・・・と言うのが、創造の秩序です。その事をふまえて、神の創造の深い根源的な意図として、
男女の問題・意味・在り方を、もっともっと、深く学び(聖書を通して)、考え生きる道を繋げたいですね‼️
男女同権→男=女・・・なのではないのです。それぞれに主権的に神の創造計画と、使命とは、違っているのです。それを知るためには、創造主である神を知ることなしには、その神の真意にはたどり着けないのです。
順位でも無ければ、優劣でもないのです。主従でもなければ、対立でもないのです。
ただ、女性には、神の御計画により、[子を産む]と言う、独自の使命を与えられています。
この事実は、大きな神の恵み、隠された秘儀なのではないでしょうか。
 テモテへの手紙第一 1章12節~20節 

1:12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。
1:13 私は以前には、神を冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。
1:19 ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。
1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒?してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。
 2025年7月9日(水)リビングライフQT

15節~『イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け容れるに値するものです。
私はその罪人の頭です。
何と力強い言葉でしょう‼️         ア~メン‼️

パウロ先生は、自らが~神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした・・・・と、告白しています。当時の多くのクリスチャン達は、彼の名を恐れているほど、その名は知られていました。同時に彼の福音の働きは、各地に知れ渡っていました。それだけに、パウロのこの様な告白は、新たな福音の力を帯びて、主イエスの福音で救われないものは無い・・・と言う、力強い証しとして、新たにテモテの魂に福音の確かさを、呼び覚ますものとなったのです。
この行を読みながら私もまた、自らの、泥沼の中から引き上げられ、赦されて、今在ることを、深く深く思い巡らすのです。だから福音のためには休めない。呼ぶ声があると、あらゆる垣根を越えて、イエス様の愛の言葉を伝えたい‼️と、心が燃えるのです。
パウロ先生の千分の一にも満たない小さな私ですが、イエス様の十字架の福音は、伝えられると、その人を変え、社会を変え、周りに新しい命の息吹を与えるのです。
パウロ先生が、テモテに『以前あなたについてなされた預言に従って・・』  と在りますが、特定の記録は、使徒の働きの中には有りませんが、パウロ先生は、手紙の中でしばしば、テモテを励まし導く中で、語られている言葉を、ここに記しましょう。
テモテへの手紙第二3章5節がそれです。
『しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の勤めを十分に果たしなさい。』この励まし・命令なのです。
テモテの行く手には、彼の魂を転覆させるに十分な、妨げ敵が待ち受けているのです。
20節の例は、パウロ先生がエペソでの宣教の時(使徒の働き19章に著しい福音妨害の記録があります)エペソ中に改宗者が出たので、女神アルテミス神殿で、利を得ていた職人が、参拝者さえ激減したので、暴動が起こり、その首謀者達がこの二人の名前なのです。
リバイバルの興る所(時)では、福音を妨げる力が働く・・・ので、それに惑わされてはなりません。弱気にならず、それはサタンの挑戦だから、雄々しく闘うように・・・
この大きな十字架の福音、救いの確かさを、どうして、後退させられるでしょう‼️
パウロ先生のメッセ~ジは、今の私達にも何と力強く響いてくることでしょう。
 テモテへの手紙第一 1章1節~11節

1:1 私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、
1:4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。
1:5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。
1:6 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、
1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。
1:8 私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。
1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、?をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。
1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。
 2025年7月8日(火)リビングライフQT

イエス様の十字架の死と復活、昇天、ペンテコステの日の聖霊降臨、その後エルサレムを中心に、爆発的にクリスチャンが増え、迫害が拡がり殉教者が出始めました。その様な中から、エルサレムから迫害を逃れて、北のダマスコへと移動したクリスチャンを迫害して捕らえるために、軍を率いてダマスコへと下る途中で、サウロ(後のパウロ)は、復活のキリストに出会い、クリスチャンとなって、弟子達の仲間に入り、彼は、アジア・ヨーロッパへの宣教者となって、今日の世界教会の基礎を築いた人物です。

パウロがアジア(小アジア半島=現在のトルコ)の各地の 都市を廻って宣教する中で、聖霊の導きで、エーゲ海を渡ってヨーロッパへと宣教に行くにあたって、テモテを、エペソに残して(派遣)、しばしば手紙を託して、テモテを励まし、教え導いたのが、この手紙なのです。
当時の地中海周辺の町々には、多くのユダヤ人が居住し、必ずユダヤ会堂があったので、そこでパウロは福音を語ったのです。それ故、初期のクリスチャンは、多くがユダヤ人でした。
彼等は、語られたイエス・キリストの福音が、モーセの教えを始め、様々な律法に適っているかどうかを、最優先に議論の題材にしたのです。

指導者テモテが、その議論に困惑しないように、福音のなんたるかを、教え導くための、書簡なのです。
《律法》・・
彼等にとっては、1500年以上、信仰の規範となってきたので、新しいキリストの福音が、素直に浸透しないのです。
それは、神国日本として、二千年の歴史の上に立つ我が祖国でも、戦国時代に、明治の始めに、もたらされたイエス様の福音が、迫害と殉教の中で、闘ったのと似ていますね。
日本の場合は、異教としての扱いでしたので、少し違うのですが・・・・・
様々な宣教団体がもたらした教えなので、教派間の議論・方策・神学がしばしば、議論の的となりがちでした。
そこで、今朝は、長々となりましたが、教派間の教えではなく、キリストの福音(十字架による罪からの贖い)を 第一として、この福音に特化して、進んで行きたいですね。
祝福に満ちた神、栄光の福音によれば、
私達はその福音を委ねられたのです。
             ア~メン  ‼️
 詩篇   89篇38節~52節

89:38 しかしあなたは拒んでお捨てになりました。あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者に向かって。
89:39 あなたはあなたのしもべとの契約を廃棄し彼の王冠を地に捨てて汚しておられます。
89:40 あなたは彼の城壁をことごとく打ち壊しその要塞を廃墟とされました。
89:41 道行く者はみな彼から奪い取り彼は隣人のそしりの的となっています。
89:42 あなたは彼の仇の右手を高く上げ彼の敵をみな喜ばせておられます。
89:43 しかもあなたは彼の剣の刃をさやに戻し彼が戦いに立てないようにしておられます。
89:44 あなたは彼の輝きを消し彼の王座を地に投げ倒されました。
89:45 あなたは彼の若い日を短くし恥で彼をおおわれました。セラ
89:46 いつまでですか。【主】よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは。
89:47 心に留めてください。私の生涯がどれほどかを。あなたがすべての人の子らをいかにむなしいものとして創造されたかを。
89:48 生きていて死を見ない人はだれでしょう。だれが自分自身をよみの手から救い出せるでしょう。セラ
89:49 主よあなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです。
89:50 主よみこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。
89:51 【主】よあなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。
89:52 【主】はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。
 2025年7月7日(月)リビングライフQT

昨日(6日・日曜)は、大変ご心配おかけしました。土曜から日曜は痛みで、あまり眠れず、しかし、朝には落ち着きました。
しかし、顔は、オタフクの様に腫れ上がり、何時痛みが再発するか分からず、礼拝と、メッセージ奉仕は休ませていただきました。
今又こうして、リビングライフQTを再開できることを、そして皆様の篤い御加禱に感謝致します。

昨日の続きが更に述べられます。
その前に思い出してみましょう。
朗詠者エタンは・・・・・・
ダビデ王国が、とこしえに立つ‼️・・・と、語られて、その歴史を積み重ねてきたのに、今ここに、その歴史は瓦礫の中に埋もれ・・・・・
39節~45節まで、毎回《彼の・・・》と、《ダビデ》の選びと功績と、その後の栄光の姿を・・
神はことごとく、破壊し、消し去り、恥辱で覆い、押し流された・・・と、哀しみと、怒りと、砕け散る心の痛みを重ねて語りながら・・・・・
これは正に、バビロンによって、エルサレムが完全に崩壊して、神殿も破壊され略奪を欲しいままにされた姿を憂いているのです。
46節~主よ、何時までなのですか・・・と、
神の約束と御計画を、真実に訴えて、民とエルサレムの回復を、懇願し、最後には、神なる主への讃美で、詠唱を閉じています。
内容は、呻きと、哀しみと、屈辱に砕けた心と、先が見えなくなるような、絶望の言葉が連なってきましたが、その実、主なる神の真実な約束通り、変わることのない、完成への期待を内に秘めての、信仰の告白となっているのです。
この祈りの訴えは、愚痴でも、絶望の吐露でもない、神への真実な信仰を底に据えた、信仰の告白だったのです。
私達の祈りにも、この祈りは、大きなチャレンジとなるものですね。
神の愛と真実は変わることはありません。仮に私達が間違っても、背いても、罪に沈んでも・・神の真実と愛の眼は、あなたから離れることはないのです。
真っ暗で先が見えないような失敗のどん底にあっても、神はあなたを・私を愛して、御自身を求めるのを、待っておられるのです。
愛に富む主を求め讃美しましょう。
主は、とこしえにほむべきかな。アーメン❗
アーメン‼️
 詩篇   89篇19節~37節

89:19 あなたはかつて幻を通してあなたにある敬虔な者たちに告げられました。「わたしは一人の勇士に助けを与え民の中から一人の若者を高く上げた。
89:20 わたしはわたしのしもべダビデを見出しわたしの聖なる油で油を注いだ。
89:21 わたしの手は彼とともにあって揺るがずわたしの腕も彼を強くする。
89:22 敵が彼に害を加えることはなく不正な者も彼を苦しめることはない。
89:23 わたしは彼の前で彼の敵を打ち砕き彼を憎む者を打ち破る。
89:24 わたしの真実とわたしの恵みは彼とともにありわたしの名によって彼の角は高く上げられる。
89:25 わたしは彼の手を海の上に彼の右の手を川の上に置く。
89:26 彼はわたしを呼ぶ。『あなたはわが父わが神わが救いの岩』と。
89:27 わたしもまた彼をわたしの長子地の王たちのうちの最も高い者とする。
89:28 わたしの恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。
89:29 わたしは彼の子孫をいつまでも彼の王座を天の日数のように続かせる。
89:30 もしその子孫がわたしのおしえを捨てわたしの定めのうちを歩まないなら
89:31 またもし彼らがわたしのおきてを破りわたしの命令を守らないなら
89:32 わたしは杖をもって彼らの背きをむちをもって彼らの咎を罰する。
89:33 しかしわたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。
89:34 わたしはわたしの契約を汚さない。唇から出たことをわたしは変えない。
89:35 わたしはかつてわが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。
89:36 彼の子孫はとこしえまでも続く。その王座は太陽のようにわたしの前にあり
89:37 月のようにとこしえに堅く立つ。その子孫は雲の上の確かな証人である。」セラ
 2025年7月6日(日)リビングライフQT

突然の送信お許しください。
昨日から、奥歯二本が、痛み始め、一応抗生剤と痛み止め頂きましたが、
痛み止めも全く効かず、猛烈な痛みで、脈拍まで85まで上がる始末
明日の送信準備は出来ていたので、今のうちに送信指せと頂きます。或いは、救急搬送に成かも知れませんねで。お許しください。

昨日に引き続きここ、朗詠者の声と言葉は、更に、イスラエルの民の歴史を思い出させる賛美へと導くのです。
イスラエルの民にとって彼等の歴史は、神の御手の業の回顧であり、そのこと自体が、神への賛美と感謝の告白となるのです。この様な詩の朗詠は、彼等の礼拝の中心となる力です。祈りです。讃美です。この様な詩の朗詠は、民の魂を一つに結び、一つ心になって民がしっかりと神と結ばれ、イスラエルの民存続の力の源となったのです。
今日のテキストでは、一介の名もないベツレヘムの羊飼いが選ばれた地は(今でこそベツレヘムは、イエス・キリスト様の聖誕地として有名ですが)羊が草を食む、牧草地の拡がる、名もない場所でした。そこで羊を飼うエッサイと言う羊飼いの家族の中の、末っ子のダビデが選ばれて、やがてイスラエルを治める王となったのです。
この歴史を、民に改めて想い出させる、大切な行(クダリ)なのです。
この物語こそ、私達が罪の中から見出されて、神の赦しとめぐみと、豊かな愛に生かされてきた、憐れみの物語と重なるのです。
私達の祈りの中に、この様に思い巡らしては、神の恵みの確かさと慈しみを、新たに心に刻む時を持ってきましたでしょうか…
救われて、今在るめぐみを、しばしば思い巡らしましょう。
私は、ここを読みながら、改めて、ダビデの選びの物語が記されている、旧約聖書・第一サムエル記17章から31章までを一気に読みました。
イスラエルの人々は、これ等の歴史を、親から子へ、子から孫へと、語り伝えているので、この詩の朗詠は、彼等のアイデンティティーを 呼び覚ます。讃美となったのです‼️
私達の今在る、限りない恵みを、もっともっと、繰り返し繰り返し、魂に刻ませて頂きましょう。
 詩篇   89篇1節~18節

<89> エズラフ人エタンのマスキール。

89:1 私は【主】の恵みをとこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。
89:2 私は言います。「御恵みはとこしえに打ち立てられあなたはその真実を天に堅く立てておられます。」
89:3 「わたしはわたしの選んだ者と契約を結びわたしのしもべダビデに誓う。
89:4 わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立てあなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」セラ
89:5 【主】よ天はあなたの奇しいみわざをほめたたえます。まことにあなたの真実を聖なる者の集いで。
89:6 いったい雲の上ではだれが【主】と並び得るでしょう。力ある者の子らの中でだれが【主】に似ているでしょう。
89:7 主は聖なる者の会合で大いに恐れられる神。主を囲むすべての者の上におられる恐るべき方。
89:8 万軍の神【主】よ。だれがあなたのように力があるでしょう。【主】よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。
89:9 あなたは海の高まりを治めておられます。波が逆巻くときあなたはそれを鎮められます。
89:10 ラハブを打ち砕いて殺された者のようにしあなたの敵を力ある御腕で散らされました。
89:11 天はあなたのもの地もあなたのもの。世界とそこに満ちているものはあなたが基を据えられました。
89:12 北と南あなたがこれらを創造されました。タボルとヘルモンは御名を高らかに歌います。
89:13 あなたには力ある腕があります。御手は強く右の手は高く上げられています。
89:14 義と公正はあなたの王座の基。恵みとまことが御前を進みます。
89:15 幸いなことよ喜びの叫びを知る民は。【主】よ彼らはあなたの御顔の光の中を歩みます。
89:16 彼らはあなたの御名をいつも喜びあなたの義によって高く上げられます。
89:17 あなたが彼らの力の輝きでありあなたのご恩寵によって私たちの角を高く上げられるからです。
89:18 私たちの盾は【主】のもの私たちの王はイスラエルの聖なる方のもの。
 2025年7月5日(土)リビングライフQT

今日から、この89篇を三回に分けて、学びます。マスキール=教訓歌・・・と言う内容の詩です。
以前、聖書を音声で聴くメディアがありましたが、特に詩篇は、好んで目を閉じて黙想しながら聞き入ったことがあります。
イスラエルの民は、朗詠者エタンが詠い、神殿の庭に響き渡る、朗々たる声を通して、この詩に聞き入ったことでしょう。
詠われる一言一言に・民は魂を合わせて、この賛美に魂を合わせて、ひれ伏す‼️
今日の区切りは、主の民の信頼し仰ぎ信じてきた御方《主なる神》への・民の信頼の告白を、言葉を尽くして表しています。
6節~いったい  雲の上では  だれが主と並びうるでしょう。
7節~聖なる者の会合で大いに恐れられる神
  主を囲む全ての者の上におられる。
恐るべき方。
8節~万軍の神  主よ・・
11節~天はあなたのもの
地もあなたのもの。
             ・・・・・・・・・・
14節~義と公正は  あなたの王座の基・・・

麗しい詩であるとともに、その一行一行に溢れる言葉は・より深く神を想う言葉にあふれ、引き込まれるように、聴く者の心の中に、神の厳粛な存在感が、迫ってきます。
ふと、この様な賛美と祈りを、献げてみたくなりました。
若いとき、近くの山裾の藪の深くに分け入り、声をあげて、私なりの思いのたけを、主に向かって、叫ぶように祈り賛美して時を過ごし、すべての重荷を下ろして、晴れ晴れと山を下りて、又、宣教に邁進したことを思い出します。
四国の開拓時代、
四万十川の広い河原に出て川の流れの水音と競うように、歌ったことが懐かしいです。
詩篇の詠唱者の思いが、今新たに、私を誘うような思いが致します。
実は、この89篇は、イスラエルが、危機に直面して、民が恐れに囲まれたときの歌なのです。
信仰はあらゆる事態の中で、研ぎ澄まされた、
魂の武器になります。
     ハレルヤ‼️
 詩篇   88篇1節~18節

<88> 歌。コラ人の賛歌。指揮者のために。マハラテ・レアノテの調べにのせて。エズラフ人ヘマンのマスキール。

88:1 【主】よ私の救いの神よ昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。
88:2 私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。
88:3 私のたましいは苦しみに満ち私のいのちはよみに触れていますから。
88:4 私は穴に下る者たちとともに数えられ力の失せた者のようになっています。
88:5 私は死人たちの間に放り出され墓に横たわる刺し殺された者たちのようです。あなたはもはや彼らを覚えてはおられません。彼らはあなたの御手から断ち切られています。
88:6 あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に深い淵に。
88:7 あなたの憤りが私の上にとどまりあなたのすべての波であなたは私を苦しめておられます。セラ
88:8 あなたは私の親友を私から遠ざけ私を彼らの忌み嫌う者とされました。私は閉じ込められて出て行くことができません。
88:9 私の目は苦しみによって衰えています。【主】よ私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって両手を差し伸ばしています。
88:10 あなたは死人のために奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がりあなたをほめたたえるでしょうか。セラ
88:11 あなたの恵みが墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。
88:12 あなたの奇しいみわざが闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。
88:13 しかし私は【主】よあなたに叫び求めます。朝明けに私の祈りは御前にあります。
88:14 【主】よなぜあなたは私のたましいを退け私に御顔を隠されるのですか。
88:15 私は苦しんでいます。若いころから死に瀕してきました。あなたの恐ろしさに耐えかねて私の心はくずおれそうです。
88:16 あなたの燃える怒りが私の上を越えて行きあなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。
88:17 それらは日夜大水のように私を囲み瞬く間に私を取り巻いてしまいました。
88:18 あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。私は暗闇を親しい友としています。
  2025年7月4日(金)リビングライフQT

この詩は、何度詠んでも、不可解さが拭えない、不思議な感覚を覚えます。
でも、それでも・・・・どこか身近さ(親近感)を覚え、心の何処かで、同じような叫び、祈りを捧げてきたような想いを実感します。
この詩を献げるのは、コラ人・・・となっています。コラ人は元々、神殿に仕えるレビ人の一族ですが、かって、イスラエルの出エジプトの荒野の旅路の中で、
モーセとアロンに反逆して、神の裁きに遭った一族でした。
後に彼等一族は赦されて再び、神殿礼拝の重要な立場に立つ、賛美集団となって、神に仕えるものとなりました。
ダビデ王国が建て挙げられ、繁栄の極みに向かったのですが、やがて、民は神の恵みから遠ざかり、王国は、北のイスラエル王国の後を追うようにして、零落の極みに落ちていくのです。
その様な国を担いながらその姿を憂い、神に叫び、救いを求めて祈る姿が現されています。
全体の構成は、神の裁きの故に、最早回復の見込みがないばかりか、国が人の死のように、黄泉に下り、最早回復の見込みがないばかりか、完全に裁きに呑み込まれた姿になった中で、その現実の中から、神が、かっては愛された民だという、神御自身の内なる矛盾に訴えるかのように、叫び祈る『詩』なのです。
端的に表現すれば・・・
☆あの様に確かな愛と選びを持って、高く挙げられた国《ダビデ王国》が今や、踏みにじられて、見る影もない・・・・それでも、
1節~私の救いの神よ‼️
2節~わたしの祈りを、御前に捧げます。
私の叫びに耳を傾けてください。
13節~しかし、私は  主よ    あなたに叫び求めます。・・・・・
と、懇願するのです。
何を持って御前に立てるのか・・・❓
分からないままに、他に行くところはない主なる神の他に、私のあるべき処はない
この祈りこそ、罪のどん底にある者に残された、ただ一つの、道(救い)なのです。
イスラエル(ダビデ王国)はこの様な中から、新しい命の芽吹きを与えられたのです。
そして、私も・・・・‼️
これが福音です。主なる神の下に行き、拒まれる者は居ない。回復から遠ざけられる者は居ない‼️
神はあなたを 求めておられるのです。
この祈りを最終的に、私達の祈りと致しましょう。
永遠の命のために‼️
 詩篇   87篇1節~7節

<コラ人の賛歌。歌。>

87:1 主の礎は聖なる山にある。
87:2 【主】はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。
87:3 神の都よあなたについて誉れあることが語られている。セラ
87:4 「わたしはラハブとバビロンをわたしを知る者として記憶しよう。見よペリシテとツロクシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」
87:5 しかしシオンについてはこう言われている。「この者もあの者もこの都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。
87:6 【主】が「この者はこの都で生まれた」と記して国々の民を登録される。セラ
87:7 歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。
 2025年7月3日(木)リビングライフQT

シオン =エルサレム=創造主なる神の居ます処
昨日記した、ダビデ王国・・・政治的・歴史的ダビデ王国(ユダ王国 )は、アッシリア・バビロンによって、消滅しましたが、それによって、主が選ばれた民、イスラエルは、四散し、彼等の行った先々で、唯一の神・創造主への信仰が拡がり、世界が真の神への信仰を、告白するようになったのです‼️
ラハブ(エジプト)も、バビロンも、ペリシテも、クシュ(エジプトより南の、エジプトよりも更に前に栄えた古王国・現在はエチオピア)からも、次々と主なる神への信仰に変えられ、更には、イエス・キリスト様の、あの十字架の罪からの贖いの完成により、イエス 様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を受け、神の国の民とされたのです。  
2節《シオンの門》
3節《神の都》
4節・5節・6節
 《この都で生まれた》
これ等の《・・・》内の言葉は全て、永遠の神の都《エルサレム=永遠の神の御国》を指しており・・・・・
6節「この者は   この都で(に)生まれた。」と記して、国々の民(私達)を登録される。
    ハ    レ    ル    ヤ  ‼️
終末的、永遠の御計画への《讃歌》ですね。
今朝は、何という、力強い預言、そして約束なんでしょう。
この約束を堅く握って立ち上がりましょう。
私は神の都に、生まれたのだ‼️・・・・と。
 詩篇   86篇1節~17節

<ダビデの祈り。>

86:1 【主】よ耳を傾けて私に答えてください。私は苦しみ貧しいのです。
86:2 私のたましいをお守りください。私は神を恐れる者です。あなたのしもべをお救いください。あなたは私の神。私はあなたに信頼します。
86:3 主よ私をあわれんでください。絶えず私はあなたを呼んでいます。
86:4 このしもべのたましいを喜ばせてください。主よ私のたましいはあなたを仰ぎ求めています。
86:5 主よまことにあなたはいつくしみ深く赦しに富みあなたを呼び求める者すべてに恵み豊かであられます。
86:6 【主】よ私の祈りに耳を傾け私の願いの声を心に留めてください。
86:7 苦難の日に私はあなたを呼び求めます。あなたが私に答えてくださるからです。
86:8 主よ神々のうちであなたに並ぶ者はなくあなたのみわざに比べられるものはありません。
86:9 主よあなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て伏し拝みあなたの御名をあがめます。
86:10 まことにあなたは大いなる方奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です。
86:11 【主】よあなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
86:12 わが神主よ私は心を尽くしてあなたに感謝しとこしえまでもあなたの御名をあがめます。
86:13 あなたの恵みは私の上に大きくあなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです。
86:14 神よ高ぶる者どもは私に向かい立ち横暴な者の群れが私のいのちを求めます。彼らはあなたを前にしていません。
86:15 しかし主よあなたはあわれみ深く情け深い神。怒るのに遅く恵みとまことに富んでおられます。
86:16 御顔を私に向け私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与えあなたのはしための子をお救いください。
86:17 私にいつくしみのしるしを行ってください。そうすれば私を憎む者どもは見て恥を受けます。【主】よあなたが私を助け慰めてくださるからです。
 2025年7月2日(水)リビングライフQT

ダビデの、切ないほどの苦悩の祈りが聞こえて来るようですね。
ダビデと言えば、
イスラエルの民を一つに結んで、世界で唯一の創造主なる神を、民族の永遠の主(神)として立て、この神を中心に全世界に、神の国を広げるための、国を建て挙げた(約BC 1000年)偉大な王です。
今でこそ、その王国は、政治体制としては、存在しませんが、イエス・キリストが、全ての民の王・・・として、十字架の上に血を流された時から、主イエス・キリスト様を信じる民が、新しい国民として、民族・言語・ 歴史を超えて、神の国が建て挙げられてきました。そういった意味でダビデ王は、神の国の原点と言われる存在です。
そのダビデの詩は、詩篇に多く散りばめられていますが、それらの詩は、決して、人生の頂点を飛び交う、絶頂の詩は殆ど無く、苦悩と哀しみと、悔い改めと、懺悔の祈りが多くあり、一人の罪人が、慈しみ深い神を見上げて、ある時は涙し、ある時は、歓喜の賛美となり、又ある時は、厳粛な礼拝の真中にいるような、告白に満ちた詩であったり、ダビデの人としてのあらゆる姿が、歌い出されています。
今日の、テキストは、
1節~・・・私は苦しみ  貧しいのです。
2節~・・・私のたましいをお守り下さい。
3節~・・・主よ、私をあわれんでください。
4節~・・・しもべのたましいを 喜ばせてください。
6節~・・・主よ   わたしの祈りに耳を傾け
7節~・・・苦難の日に
わたしはあなたを呼び求めます。
この様に、苦悩の中から主を呼び求めながら、
やがて8節からは、主なる神への力強い信仰の告白の詩が次々と繰り出されています。
ダビデの祈り・懇願は、単に苦しい中からの神頼み的な、呻きの懇願ではなく、自らの全存在を投げ出した礼拝となって、歌い上げられています。
ダビデの祈りは、賛美となり、礼拝となっています。
4ペ~ジに亘っていますが、声を出して、読んでみませんか・・・‼️
(折りを見て)この詩を、あなたの詩(うた)としてみませんか。
 詩篇   85篇1節~13節

<85> 指揮者のために。コラ人による。賛歌。

85:1 【主】よあなたはご自分の地に恵みを施しヤコブを元どおりにされます。
85:2 あなたは御民の咎を担いすべての罪をおおってくださいます。セラ
85:3 あなたは激しい怒りをすべて収め燃える御怒りから身を引かれます。
85:4 帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。私たちへの御怒りをやめてください。
85:5 あなたはとこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。
85:6 あなたは帰って来て私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。
85:7 【主】よ私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。
85:8 聞かせてください。【主】である神の仰せを。主は御民に主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。
85:9 確かに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは栄光が私たちの地にとどまるためです。
85:10 恵みとまことはともに会い義と平和は口づけします。
85:11 まことは地から生え出で義は天から見下ろします。
85:12 【主】が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出します。
85:13 義は主の御前に先立って行き主の足跡を道とします。
 2025年7月1日(火)リビングライフQT

この詩は、表題には記されていませんが、ユダの民が神に背いたため、バビロンのネブカデネザル王に滅ぼされ、捕囚として連れ去られ、亡国の民となった歴史がありました(BC586年)
その後、民の悔い改めにより神はユダの民をバビロンから解放し、民は帰還したのです。
ペルシャのキュロス王による《ユダヤ解放令》です。
古代歴史の奇跡と言われる、この解放令によって、帰還したときに、唱われ、古来から礼拝でも唱われた、喜びと感謝の詩歌なのです。
良く、旧約の神の姿は、裁き主・審判の神・として顕されますが・・・・・
2節を見ると、『あなたは   御民の咎を担い  全ての罪を   覆ってくださいます。‼️』
この御言葉は、一瞬、新約のイエス・キリスト様の十字架の贖い(罪の赦し)を、彷彿とさせられますね。
彼等はエルサレムとユダ王国の、以前の所領に帰還しましたが、全ては、元に戻ったわけではないのです。捕囚で全ての民がバビロンに連れ去られてから、60年~70年という長い年月、肥沃なシャロンの平原も、彼等の家も畑も、荒れ放題又、彼等の住まいの中には、先住民が住み着いた家もあったでしょう。そんな荒廃した故郷に帰還した民は、呆然としながらも、許されて、帰還した現実の中で、1,000kmも離れた地で、《帰還できる‼️》と、喜びに沸いた瞬間とは、想像もつかない、現実の荒廃と復興の過酷さに直面して、改めて、神に叫び懇願する姿は、魂に迫り来る痛みと苦悩を感じ取られます。

実は、この苦悩こそ私達の信仰の底辺にある、最も大切な姿ではないでしょうか。
神様に願えば、叶えられる❗と言う、単純な方程式❓に流されやすい信仰の在り方に、強いメッセージが突きつけられたような詩篇です。
まるで、親しく信頼する師に友に、訴えるように、彼等の魂のどん底からの真実な告白を持って、帰還した彼等の魂は、今、新たに整えられ、新しい主なる神との関係を、築き上げていくのが、目に見えるようですね。
神は民のこの様な告白を待っておられるのです。
私達の祈りは、その祈りの中で、一つに結ばれる時を待っておられるのです。アーメン