
力丸嗣夫師 リビングライフ LINE
(新改訳聖書2017)
北九州シオン教会
| ヨハネの福音書 8章48節~59節 8:48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」 8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。 8:50 わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。 8:51 まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」 8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。 8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」 8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。 8:55 あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」 8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」 8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」 8:59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。 |
2025年1月31日(金)リビングライフQT 何と言う会話でしょう。昨日といい、今日のユダヤ人達の議論は、まるで、小学生が、大人と対話しているような、全く噛み合わないやりとりに終始していますね。 ユダヤ人は、良く“律法主義者”と説明しますが、彼らは、(自分達は最も神に近く生きてきており、神もそれを認めておられる❗)と、自認している人達です。自分達こそ神を知り、神に知られている者だ‼️と、自負していました。 だから彼らは、父なる神の元から来られたと言われるイエス様を、『神を冒涜する、悪霊に憑かれている』と、罵ったのです。 私は、ユダヤ人達のこの様な言葉と態度に、魂が痛むような重苦しさを感じながら、心に憤りを感じていた時に、 『父よ❗彼等を御赦し下さい・・・‼️』と、あの十字架上の、主の祈られたお言葉が響いてきたのです。 ハッと、我に返ってここを読み返していると、イエス様のお心の痛みが感じられる思いで、主のお言葉が私の魂に染み込んできたのです。 昨日も書きましたが、主は、今読む私に・あなたに、時空(歴史・場所・状況)を越えて、今、語りかけられているのです‼️ こうして私達はこの福音書の記録の領域の中に、溶け込み読み込み、黙想するとき、時を越えて、主イエス様にお逢いできるんだ‼️と、心が踊りました 難しい《ヨハネ福音書》が、こんなに身近な福音書だと… 信仰の道に歩み始めてから、75年を経てなお、終わることのない、出合いと感動を新たに、させられる、神の言葉が聖書なんですね アーメン |
| ヨハネの福音書 8章31節~47節 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。 8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。 8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。 8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」 8:39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。 8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。 8:41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」 8:42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。 8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。 8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。 8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。 8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」 |
2025年1月30日(木)リビングライフQT 何と、噛み合わないやり取りなのでしょう? *聴かされる方では、言葉は我々と同じだが、話す中身は、宇宙人(尤も、この時代には、“宇宙等の概念はないから”)何処か遠くの世界の話し・・ ☆一方、イエス様のお心には、父に創造され、アブラハムを初めモーセ・預言者達(神の人)によって、永遠の御国の世界が、語り継がれてきているのに、全く、言葉も心も噛み合わない、パリサイ人・律法学者・彼らに魂まで支配されているユダヤ人達・・・どんなにイエス様のお心は、悲しみと悼みと、背後に在るサタンの支配に、憤られていたことでしょう 昨日の終わりの節には、(30節)『多くの者が、イエスを信じた。』と、記されていたのです。 しかし、今日のイエス様とユダヤ人との対話の中には、その人達との会話の姿は見えてきません。 私は何とかして、この中に信じた彼らの存在を探すために、何度も何度も、読み返してみました‼️ やはりその気配すら見出だせませんでした。 しかし、読み進んでいき、イエス様の語られることを❗良く読み直して見ると、何と❗主のお言葉は、信じないで反論するユダヤ人に向かって語るようにしながら、実は、信じてイエス様を主と仰ぐ人々に、確信的に語られているんだ‼️と、感じました。 それを聴いた《信じた》人々は、どんなに励まされ、更に確信に至ったのではないだろうか‼️と、 深い感銘を感じながら、読み・黙想したのです。 私たちの語る(伝える)福音は、イエス様の・十字架・復活・・の《物語》ではなく、《福音》は、正に神の言葉なのです‼️ 祈り・聖霊に充たされ・押し出されて、深い愛と祈りの中から、語り伝えたいですね。 主なる神は、あなたにその力と使命と、豊かな恵みを与えてくださいます。アーメン |
| ヨハネの福音書 8章21節~30節 8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 |
2025年1月29日(水)リビングライフQT イエス様は、やがて御自身が、群衆(ユダヤ人達)の前からいなくなる(それはある意味では、御受難から始まる、昇天で御国に帰られることを、暗に予告されているのです) そして、『あなた方は、わたしの行くところに来ることはできない❗』 と、暗に警告されています。 この短い、イエス様の語られたテキストは、やがて、《その時》が来たときには、聞いた彼らが、主のもとに帰ることに目覚めるようにと、語られたのですが、聴いた民は、誰一人理解できなかったのです。 このテキストの中で、 24節と28節の中で、 『わたしはある』と言う御言葉を語られました。即ち『わたしはある』と言うお言葉です。何だか日本語としては、中途半端な解り難い言葉ですね。 このお言葉は、かつて、この時より3000年以上前に、モーセが、エジプトから、シナイの荒野に逃れたとき、 神がモーセに顕れ、呼び掛けたられたとき、恐ろしさに震え、ひれ伏して「主よ❗あなたはどなたですか❓」と、問うた時、神は嵐のような雲の中から、 『I am that I am ‼️ 』と、答えられた、神のお言葉と同じ、実に荘厳で、重いお言葉です‼️ このテキストではその訳を『わたしはある』と訳していますが、わたしは敢えて、幼い時から読み慣れた、文語訳でご紹介します。 『我は、在りて在る者なり‼️』 もちろん『わたしはある。』と言う訳となにも違わないのですが、《在りて在る者》 存在の根元、わたしから全てが始まった‼️ イエス様は『わたしはある‼️』・・・即ち、父なる神と同じであり一つなのだ‼️と、語られているのですね。 これは喩え話でもなく、奇跡の業でもなく、ご自身をそのまま、御語りになられたのです。 理解した❗・・ 納得した❗・・ 同意した❗・・ そのいづれでもなく、彼らは“信じた‼️”と、記されているのです。 ハレルヤ‼️ 主の御言葉をそのまま信じることは、何と幸いなのでしょう‼️ 明日(30日)のテキスト ヨハネ福音書 8:31~47 |
| ヨハネの福音書 8章節12~20節 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」 8:14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。 8:15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。 8:17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。 8:18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」 8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 |
2025年1月28日(火)リビングライフQT 《仮庵の祭り》は、イスラエルが、エジプトを出て、40年と言う長い年月、神への不従順の故に、シナイの荒野を、さ迷ったイスラエルの先祖達の歴史を思い出させる記念の祭りです。彼らは天幕を広げそこに休んではまた、天幕をたたんで、旅を続ける・・・その旅路の間、昼は雲の柱が、夜は火の柱が民の上を照らし、神ご自身の臨在を示された‼️・・この様な歴史にちなんで、仮庵の祭りでは、神殿の廻りは煌々と火を焚いていたのです。 この様な意味深い歴史の証しに、回りを包まれて、主は神殿の片隅でお話しされていたのです。 お祭りですから、多くのユダヤ人が世界各地から、出入りするなかで、エルサレムに住むパリサイ人(民の指導的立場にある階級)や、当時の律法主義的ユダヤ教にとって、イエス様の教えは、都合の悪い教えだったのです。何とか、イエス様の教えを論破して、排除しようと計ったのです。 今日のイエス様のお言葉の『わたしは世の光です‼️・・・』と、宣言されたのが、彼等の心情を刺激したのです。 《光》それは神に属するものですね。 その言葉をパリサイ人が指摘し、咎めると、主は更に、ご自身が『わたしは父から出て、父《父なる神》が語られることを語っている‼️』と、宣言されたのです。 パリサイ人達は戸惑い「あなたの父❓ その父は何処に居るのか❓」と、更に困惑した問い掛けをしたのです。 この様な議論は、パリサイ人たちは、更にその霊と知性を硬化するばかりです。その結果、自らの魂の醜さ、罪深さを増幅する結果となることに、気付かずに、益々、その腐敗度を深めていくのです。 議論は、実を結びません。イエス様は、彼等の吹っ掛けてくる議論にた対して、単純な真理だけを語られていますね。ですから議論にはならず、パリサイ人達は墓穴を掘る結果となっていったのです。 真理は語らねばなりません。しかし、説得によらず・・・ 真理は、人の魂に食い込んで、何時しか(昨日の証した方の様に)その魂は真理に塗り替えられていくのです。 天の神への信頼と、このお方の御霊の知恵を頂きながら、語らせて(伝えさせて)頂きましょう‼️ 明日(29日)のテキスト ヨハネ福音書 8:21~30 |
| ヨハネの福音書 8章1節~11節 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 |
2025年1月27日(月)リビングライフQT この物語は、イエス様の十字架における、贖罪の物語の中で、最も福音が直接、示された箇所で、実に鮮明に、贖いの福音が明らかにされた箇所と言えるのではないだろうか。 律法学者・パリサイ人達は、何故この様な議論を主のもとに持ってくるのでしょうか。 私が、伝道者の駆け出しのころ、一人の中年の男性が、教会に来られるようになりました。その町ではインテリ階級の方で、素敵な方でした。熱心に礼拝に通い、私も、個人的にお話しするために、よく訪問もして議論をしました。あるときには、中古のオートバイ(250cc)を、伝道のためにと、献品もしてくださる程の、お互い信頼関係が築かれて来ました。しかし、その町で丸三年教会開拓の働きをし、その間に23名の受洗者が与えられましたが、彼は洗礼を受けないまま、私はその町から転出しました。 随分議論をしましたが、何時も新しい追及の課題を持ってやってきました。 何時も、その度パリサイ人・律法学者みたいだなぁと、祈り続けました。 イエス様は、彼らの吹き掛ける議論に巻かれず、無視もされず、何時も、一言・二言で、退散させています。 しかしそのお言葉の中に、彼らの魂をえぐるような、真理をもって、対応されています。 私はとてもその様ではありませんでしたが、その地を去ってからも祈り、文書のやり取りしながら、遂に、10年以上経過した後に(その間、所用で二回その地に行き御交わりしました)遂に、彼の魂は開かれて、末期癌の病に臥せった中で、次の訪問までには間に合わないので、悔い改めと、イエス様への信仰の告白をされて、『子ょ❗心安かれ。汝の罪赦されたり‼️』と、宣言し、涙と共に救いを受けられたのです。この事を担当の牧師に報告し、新たに病床洗礼を‼️と、お願いしましたが、その後二週間後に、静かに御国へと凱旋されました。 一寸お証しを交えての、お話になりましたが、イエス様のお言葉二つ ①7節『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』 *誰一人石を投げずに去って行った‼️ ②11節『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』 何と❗温かい御言葉でしょう‼️ このお言葉の陰よ秘めて語られているのですね この記事を読むたびに、魂にジーンと、感動が沸き上がるのです。 今、新たにこの主のお言葉を、心に受け入れ刻みましょう‼️ 明日(28日)のテキスト ヨハネ福音書 8:12~20 |
| ヨハネの福音書 7章37節~53節 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。 7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。 7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。 7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」 7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。 7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。 7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」 7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」 7:47 そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。 7:48 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。 7:49 それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」 7:50 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」 7:52 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」 7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。 |
2025年1月26日(日)リビングライフQT 愚かな(四角四面)な信仰の姿。 知性・学び得た学問・伝統的理解度・・・これらは時として、私たちの人生を、間違った方向に向かわせる事もあるのです。改めて、感性(神が人に生来与えられた、純粋な霊の光を感知する能力)が、学びによる知性の向上や、経験の積み重ねによって、豊かになるとき、生来(人間の本性)の感性が、成長・経験・学び・見聞によって、後退してしまう危険性があるのです。 私の経験ですが、父・母共に東北の貧しく、大家族の家庭に育ち、その様な中で、野山を愛し、夜空の星に包まれる神秘に、ワクワクさせられながら育った中から、私たち子供に、神の創造の無限の大きさ、その中に居ます、偉大な愛の神を信じ祈ることを、心に刻んでくれました。 それが、今日まで・・ 追い詰められても、行き詰まっても、絶望の縁に立っても・・・ 何時もその様な現実にの中に、失われないもう一つの世界が、私の感性を躍動させるのです。今朝のテキスト 41節:キリストは、ガリラヤから出るだろうか?・・ 42節:ダビデの村ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。 更に、イエス様を捕らえるために遣わされた下役は、心惑いながら 46節:「これまで、あの人のように話した人はいません。」と、感性に触れていながら、それ以上、踏み出せない人の弱さが現れていますね。 いっぽう議員やパリサイ人達は、全く意に介せずにいました。 心動かされて、イエス様のお言葉に魂が揺さぶられている様を見て、 49節:群衆は呪われている⁉️と、語っています。何と言う無知蒙昧な、恵みの“感性=魂”を、失った、知識人達でしょう。 ところが、その様な上流階層のなかで、ニコデモ(ヨハネ福音書3章)と言う一人の指導者の言葉は、重く他の指導者達の上に、語られました。 しかし、その言葉すら、ユダヤ人達は反論し無視したのです。 実は、自然を慈しみ、自らのうちなる思いを大切にする事以上に聖書を読み、祈り、主を賛美し、礼拝することは、創造主なる神の、与えてくださった、人間としての最も大切な賜物である《感性=神の象を秘めた》を、研ぎ澄ます、道なのです。 ニコデモは、夜、密かに主のもとに来て、主と語らったことで、イエス様の終生の弟子となられたのです。 多くの議員や、パリサイ人や、律法学者の中にいながら、最後まで、主に従っていたのです。 |
| ヨハネの福音書 7章25節~36節 7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。 7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」 7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。 7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」 7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。 7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。 7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。 7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」 7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。 7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」 |
2025年1月25日(土)リビングライフQT 人が、自分の知り得た知識、体験したこと、学んできた教え、自らの理性等を屈指して、今、面前に顕れたお方(メシアとしてのイエス・キリスト)を知ろうとして、議論している様子を、私たちはこのテキストの中から、不思議な思いで読んでいます⁉️ 三者三様の見方で、主なるイエス・キリストを観ています。整理して見ましょう。 ①律法に照らして、死罪に値すると断定しながら、民の前で堂々と語られるこのお方を、誰も逮捕しないのは、本当は、このお方こそ《キリスト》ではないのだろうか・・・と、考え始めているのではないか・・・??? ②別な人達は・・・キリスト(メシヤ)が顕れるとしたら、その出所は誰も分からないはずなのだが、私たちは知っている。《ナザレの貧しい大工の息子だ》即ち、ただの人で、メシヤなどではない ③民の指導者(祭司・律法学者・パリサイ人)達は、このような噂の交差する人物(イエス様)を、捕らえようと人を遣わします。 すると主は、これからの御受難を予告される意味で、語られるのですが、彼らの思い(イエス様への見方)は、一層謎が深まるばかりでした。 ☆主が言われたことは、『今はあなた方(民の指導者達)の言うがままにはならないが、しかし、逃げも隠れもしない❗ずっと、あなた方の前に語り続けるでしょう‼️』 言い換えると、わたし(イエス様)を、遣わされたお方は、もう暫くわたしを通して永遠への道を開かれるために、わたしは働かねばならないのです‼️ ところが、このお言葉の指し示す道は、誰も理解しなかったのですが⁉️・・・・ 今、私達は、その道が、御受難へのゴルゴタの十字架の道であり、死をもって開かれる、贖罪への門であり、三日目の甦りと遂に天への凱旋の道だったのです。 何と‼️ 今、私たちはこの道を知っており、信じて主の御足の跡をたどっているのではないでしょうか‼️ 私達は知っており、信じています。 ハレルヤ‼️ |
| ヨハネの福音書 7章14節~24節 7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。 7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。 7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。 7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。 7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」 7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」 7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。 7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。 7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。 7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」 |
2025年1月24日(金)リビングライフQT 《頑ななユダヤ人達》 15::ユダヤ人達は驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」イエス様の語られたお言葉の一つ一つが、ユダヤ人の知性を揺さぶったのでしょう。 しかし、この称賛には、少なからず、悲しみを覚えますね。何故なら、自分達の魂を揺さぶった・・‼️という感想ではなく、何と言う博学‼️・・ これがユダヤ教徒の、偽らざる姿なのです。 彼らは神を敬い、神に仕えている・・‼️と、自負しながら、現実に彼らの前に居られる神の御子を、(まれに見る秀才)と、御子なる神を評価しているのです。 主なる神を知る‼️と言うことは、認識・知性・感性・・・には寄らないのですね 何故なら・・・ 16節::『わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。』 更にイエス様は、 ユダヤ教徒(祭司達)は、安息日に《割礼》を行っている。(安息日にはどの様な働きも、祭りも行ってはならないという規定がある) イエス様が足の不自由な人を癒されたのは、まさに安息日だったので、ユダヤ人達は、その行為は《死罪に値する》と言うのです。 ☆割礼→罪の中に生まれた人を神の僕として結ぶ、ユダヤ教の神聖な儀式 ☆(主の成された癒しの業)→当時傷病者は、汚れた者とされていた。主はその人を、父なる神の愛により癒し、神の民として立ち上がらせたのです‼️ その事を示して・・・ 伝統や教えの字句に拘らず、神の御心は何か・・・‼️を、正しく心に修めなさい‼️ それが神からのものを《信じる》事なのだ‼️と、語られたのです。 今日の私たちにも、心すべき事は、 *素晴らしい説教者だ *何万人も集まった *・・牧師の語るメッセージは魂を揺さぶる *聖会講師が・・・先生だから参加しよう。 この様な品定めが、教会の姿を歪めてきた時代がありました。 これからの時代は、神からの ☆メッセージを語る僕 ☆それを神からの語りかけのメッセージとして聴き従う僕 終末の教会が、こうして、主に聴く神の家の教会として、使命を果して行きたいですね.。 |
| ヨハネの福音書 7章1節~13節 7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。 7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。 7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。 7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」 7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。 7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。 7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。 7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」 7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。 7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。 7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。 7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。 |
2025年1月23日(木)リビングライフQT イエス様と、その御家族との接点を、記した箇所は、余り無いですね。今日の箇所は、非常にリアルで、現実味を帯びているので、主の御実家のある、ナザレかその近くでの記録だと想像できます。 ただ、この様な山里なので、弟子達すべてが同行してはいなかったのでは・・・ 彼らの多くは、カペナウムのぺテロの家に逗留していたのかもしれません。 今朝のテキストでは、兄弟(弟達)=と、ユダヤの大祭(仮庵の祭)に行こうとしない兄貴(イエス様)とのやり取りです。 幼いときから兄のイエス様を見てきたので、自分達と同じレベルで兄であるイエス様を見ていたのですね。 私達が、先にイエス様に出会い、キリストの僕(クリスチャン)になると、なかなか受け入れられない、同じ様にイエス様のもとに来ない家族の事を考えると、イエス様も同じ様に、阻害され(信じられない)た事を見ると、焦りから解放されますね。 イエス様は、彼らとの関わりには傾かずに、 どこまでも『父なる《神》の導きのままに・・・』と言われて、故郷に留まられたのです。 家族兄弟たちは、皆エルサレムの神殿詣に行ったのです。 神からの働きと業が妨げられないために・・ 多分弟子達(2・3人の側近は別として)とも別行動で、エルサレムに入られたのです。 このイエス様の隠密の行動は、噂や、好奇心や扇情的心理により、真の神からのメッセージが、正しく人々の魂に浸透するのを妨げて、群衆化するのを避けられようとされる為だったのでしょう。 噂ばかりが飛び交う中で、イエス様は、習慣であろうと、伝統であろうと、魂の乾きからであろうと、神の宮(エルサレム神殿)に、イスラエルの民のかつての貧しい時代から、今日在るを導かれた歴史にちなんで行われる仮庵の祭りに、感謝とこれからの導きを祈りに集まる人々の前に、主イエス様はご自身を顕わそうとされていたのです。 イエス様の風貌は他の民衆と変わらない、顔立ち・身に付けられた衣類・声のトーン・・・決して際立ってはいなかったのだと推測します。“神が人となられた‼️”と言うことは、これが現実なのです。 《信じる者だけが分かるお言葉を通して》 神の主権(御子イエス・キリストを通して、顕そうとされている、十字架の贖い‼️)を、 ☆語られる福音 ☆行われる御業 ☆御自身の御存在 御子イエス・キリスト様の、短い公生涯の中で、11人(イスカリオテ・ユダは脱落したので)の使徒達は、日々の生活の場にありながら、主を慕いつつ、あのゴルゴタの処刑の丘にまで、従って来ていたのです。 2000年昔も今の時代も、罪に染まった人の内なる思いは変わらず、信仰が、自己実現の場になっている姿なのです。 *祈ったら・・・成る *成功は、神が与えてくださる祝福 *癒されるためには信仰が必要 *私の奉仕は、主に覚えられている *繁栄と祝福は主に覚えられて来た結果だ・・・ 間違いではないのでしょうが、これ等の結果の上に立った信仰は、自己実現的宗教観と置き換わってしまう危険な、信仰の姿なのです。 ☆イエス様に聴く ☆イエス様を仰ぐ ☆イエス様に祈る ☆イエス様を慕う ☆イエス様と伴に 何故なら主イエス様は、父なる神と共に居られるから、私たちを永遠なるお方に、導かれるのですから。自己実現(御利益・成功・癒し・祝福)以上に、私達を完成に向けて、引き上げる神の導きのお方 (イエス・キリスト)様なのですから‼️ ハレルヤ |
| ヨハネの福音書 6章60節~71節 6:60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 6:61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。 6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 6:64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。 6:65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」 6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 6:67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 6:69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 6:71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。 |
2025年1月22日(水)リビングライフQT 昨日の、イエス様のお言葉を思いだして見てください。『わたしが与えるわたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの内にとどまり、わたしもその人の内にとどまります。』(6章56節)このお話は、カペナウムのユダヤ会堂(シナゴーグ)で話され、未だその時点では、多くの人々が、奇跡等で心動かされて、主に(自称弟子として)従っていたのです。ある意味で、信心深い人々とも言えるかも⁉️しかし、信心深さでは、イエス様に従って就いて行くことは出来なかったのです。その理由は・・・ “理性”ですね。“理性”とは、人の中に居座る、偽の神なのです。この“理性”こそ、*神の御子・*遣わされたお方・*贖い(あがない)主・イエス・キリスト様・・を 真の神として信じる道から遠ざける“魔物”です。 イエス様のあのお言葉を聴いた時、主を慕い、尊敬し、感動してきた人々は、アッサリ身を引いていったのです。この類いを宗教心と言うのです。 それは“信仰”ではありません。 63節『いのちを与えるのは御霊です。肉(理性)は何の益ももたらしません。』 65節『父が与えてくださらないかぎり、だれも、わたしのもとに来ることはできないのです。』 何と、主のこのお言葉によって、多くの人々(12人以外)は、皆、主イエス様から離れて行ったのです。 父なる神様の選びと、選ばれた人々の信仰とが結ばれたとき、新しい世界(関係)が開かれるのです。 主は弟子達(御自身で選ばれた)に、『あなた方も離れていきたのですか?』と、問いかけていますが、 これは、イエス様と、弟子たちとの、信仰の再確認の《時》でもありました。 彼らの答えはイエス様をどれ程、お喜ばせしたことでしょう‼️ 同時に、これはイスカリオテ・ユダへの、重要な警告でもあったのですが・・・ 今朝のテキストは、私達のイエス様への信仰を、新たに試されるものですね。何時も、しっかりと繋がせていただき、主の赦しと、愛と、いのちに溢れた日々を守って参りましょう‼️ |
| ヨハネの福音書 6章41節~59節 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。 6:42 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」 6:43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。 6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。 6:45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。 6:46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。 6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。 6:48 わたしはいのちのパンです。 6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。 6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。 6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。 6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 6:59 これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 |
2025年1月21日(火)リビングライフQT どうしても信じることの出来ないユダヤ人。目に見える現実が全てだ‼️と、理性にのみ生きる、人の性(サガ=持って生まれた“罪→穢れ”の塊)から、解放されずに、自分の判断・理解が絶対の正しさとする心、これがユダヤ人(律法学者)の心だったのです。 思い込み・頑なな心・因習・伝統・閉ざされた心・・・は、正に私達日本国民の中にも、根を張る、福音の障害となってきました。 この様な頑なな魂に対して主は、 ☆45節:父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。 ☆47節:信じる者は永遠の命をもっています。 と仰って、改めて ☆48節『わたしはいのちのパンです‼️』と、語られました。51節も同様の宣言をなさっています。 ユダヤ人達は、更に、理解できずに(信じようとせずに・・・)戸惑う中、 主イエス様は、更に明確に、霊的真理を語られました。54節~58節がそれです。 私たちクリスチャンは、信じているので、この主の宣言が、ゴルゴタの十字架の罪の購いを示していることは、明らかだと信じ、永遠の救いに預かって、喜びと平安に生かされているのですね 『このパンを食べるものは永遠に生きます❗ハレルヤ‼️ |
| ヨハネの福音書 6章22節~40節 6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。 6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」 6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 6:28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」 6:29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」 6:30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。 6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」 6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。 6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」 6:34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 6:36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。 6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。 6:38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。 6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。 6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」 |
2025年1月20日(月)リビングライフQT *ティベリア(ガリラヤ湖西岸中部)からカペナウム(ガリラヤ湖北岸)迄の距離は約20km. ガリラヤ湖は竪琴型をした湖で、東側はゴラン高原(当時はゲラサと、呼ばれていた延々と絶壁の続く岸辺でしたので、港はなくイエス様と弟子達の活動は、西側・・・北のベッサイダから南のキンネレテの直線距離は約22km.) カペナウム~ティベリアの直線距離は約13km. 海岸伝いに歩くと約20km.あります。湖上を漕ぎ渡ると約一時間で行ける。歩くと3~4時間かかります。 その様な地形を想像しながら、主と弟子達の動向を想像してください。(#^.^#) パンの奇跡を味わった民衆は、何時の間にか居なくなった、主と弟子達を追って、北の港カペナウムに迄やって来たのです。“暇”と言えば悪いですが、やはり彼らは、イエス様を通して顕された不思議が、心を引いたので、ある意味、群衆心理として、この遠路を踏破したのでしょう 主イエス様は、その様な人々に皮肉混じりに、『パンを食べて満腹したので、もっと見たい❗経験したい‼️』という思いで、追随してきた・・と、皮肉られたのです。 主の本心は、『本当のものを求めなさい‼️』と、語り掛けられたのですね。 “奇跡”と言う、世迷い事に心と思いと目を奪われている民に・・・ 『本当のもの=全てのものを御与えになる、《父なる神》その御方が遣わされた《子》を信じることが、信仰(信心)の根幹だ‼️』と、語られたのです。 私たちクリスチャンは、何を求め、信じる道を尋ねていますか⁉️ 奇跡ですか?説教家ですか?会衆の多い教会ですか?賛美や音楽の活発な群れですか・・ 主が与えたい‼️と願われる人々は、霊の渇きで命を求めて来るのです。《渇いた魂》 主よ私は渇いています、あなたから命の水を汲ませて下さい‼️あなた以外に救いはありません❗あなたの中に憩わせてください‼️ 主であり御子であり、贖い主なるイエス様が、あなたを満たし、癒し、甦らせて下さいます。ハレルヤ‼️ |
| ヨハネの福音書 6章1節~21節 6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。 6:2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。 6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。 6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。 6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。 6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」 6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。 6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。 6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」 6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。 6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。 6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。 6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。 6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。 6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。 6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。 |
2025年1月19日(日)リビングライフQT 二つのしるし《徴》 ①五つのパンと、二匹の魚の奇蹟 男性5000人ですから、子供、女性も含めると、8~9千人にはなったでしょう。 イエス様は、本文にも書いてあるように《弟子達を試すために…》言われたのです 「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 途方もない量です。莫大な金銭以上に、この量(約一万人分のパンですから・・・) 弟子達の答えは、『私たちの手元には・・』ではなく、200デナリの費用❗と、計算したのです。 一方で、『ここに少年がもっているわずかなパンが・・・』弟子達はイエス様も含めて13人以上はいるのです。そのための食料の用意はそれなりにあるはずです。 しかし、彼らは、自分達のための食料はさておいて、少年が捧げたパンについて、主に語るのです。 何と言う、自己中心的な思考でしょう。・・・ しかし、主はこの少年の申し出を、用いられたのです。 主の御眼は、思いもかけないところに向けられているのです。 人の価値観、善悪の判断、良し悪し、良識これ等の上には、勝利や、祝福や救いはないのです。 神の御心に叶った、愛と献身によって、主の御手に握られ、栄光を放つのです。そして、この物語には、この少年はそれっきり題材にはならないのです。 そして人々の驚きの対象は、ただ主イエスお一人に向けられました。 この少年の存在は、もっとも理想の主の僕(器)となったのです‼️ ②湖上を歩まれるイエス様 パンの奇蹟のあと、父なる神と交わるために、山に退かれたのです。弟子達だけで、船でカペナウムへと先に向かったのです。 ガリラヤ湖は、周りを丘と東側の断崖で囲まれた、地形で、朝・夕には、しばしば急な強風に見舞われるのです。福音書ではしばしば嵐のガリラヤ湖の記事が出てきますね。 ベテランの漁師達が操るのですが、何せ、小舟に12人の大人が乗るのですから、舟端が水面スレするになるでしょう。荒れるとひとたまりもないのです。 白波のたつ夕暮れの湖の上を歩まれる、主を観たとき、彼らは薄暗い中、波で主の足元も見えない姿に、恐怖心で、震えたことでしょう。 『わたしだ。恐れることはない。』 なんとも優しい、勇気つけられるお声だったことでしょう‼️ ヨハネは、何十年も経過した時にも、この深い印象的瞬間を、こうして再現しています。 それを読む私たちにまで、深い安堵を与える言葉に、感動しながら読みました。 あなたの、わたしの、人生の嵐の中に、歩み寄られる主の、慈しみと愛に新たに、期待と感動を寄せるものです‼️ 癒されます。✨ |
| ヨハネの福音書 5章39節~47節 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。 5:42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。 5:43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。 5:44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。 5:45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。 5:46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。 5:47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」 |
2025年1月18日(土)リビングライフQT 39節:『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているのです。』 何と言う、お言葉でしょう‼️ 《灯台下暗し》 とは、正にこのことですね。 *最初の(人)が、神の《命》に従わないで、神の前から身を隠した、エデンの園の出来事以来、神は、地に送られた人を、排除はなさらずに生きる道→永遠の命の道へと、導き続けられたのです。 罪の償いの道(贖罪の道)を、早くから開かれたのです。それが、子羊を犠牲(罪の身代わりの死)として、捧げることで、罪が消され、神に受け入れられる道を開かれたのです。これが《燔祭》として、やがて動物による一時的標(しるし)としての犠牲ではなく、《命の君ー神の御子ーが子羊に代わり、全ての罪の身代わりとなられて、永遠の贖罪を成し遂げられる》と、示されてきたのです。 その事を、イスラエルの民が、数百年偶像に満ちたエジプトに留まった後、モーセにより、脱出した《出エジプト》後、シナイの山で、人類の歩むべき正しい道と、犯した罪からの永遠の脱出(解放)の道を教え示したのが、モーセの律法として与えられたのです。 イエス様が『聖書の中に永遠の命があると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。』と仰ったのは、その事なのです。 更に、モーセの後には、多くの預言者が出て、唯一の《罪の贖い》のために、《メシヤ》が来られることを、語り続けて来たのです。 しかし、ユダヤ(イスラエル)の民は、これ等の預言者を殺し、迫害し、神の声に耳を傾けなかったのです。 そして今又、メシヤがお出でになり、今語られているのに、そのお言葉にさえ、耳を開かないのです。 イエス様を糾弾する人々を、イエス様は神に訴えることはなさらないのです。何故なら、神に、身代わりの犠牲となれるために、人々の前に立たれているのです。 主は言われる、「むしろあなた方を訴えるのは、あなた方がこの上もなく尊敬する“モーセ”だと(45節)。と仰っています。 主は徹底して、伝統と、理性と、思い込みと、多くの歪んだ思いで、心閉ざす人々に、悲しみをもって、断罪されたのです。(47節) この様な、意識の構図は、人(理性)が、罪に充ちた霊の中から、罪深い霊で、永遠の神を認定しようとしている、真に愚かな姿なのです。 私達は、神の前に、どの様な弁明ができるのでしょうか。・・・ 私達は、今日、新たに、神の永遠の光の中に照らされて、ただひれ伏して《悔い》十字架の血潮を仰ぐのみです‼️ 我が主よ❗ 我が神よ‼️ |
| ヨハネの福音書 5章30節~38節 5:30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。 5:31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。 5:32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。 5:33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。 5:34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。 5:35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。 5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。 5:37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。 5:38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。 |
2025年1月17日(金)リビングライフQT 私達(人)は、どの様にして、《神》を知ることが出来るのでしょう⁉️ この一番大切なことを、使徒ヨハネは、懇切に教えてくださっているのです。 先ず、使徒達がこの真理を《知り》《体験》したのです。その事を、今朝のテキストは、ヨハネ独特の筆致によって、書き残したのです。 今一度、確かにしておきましょう❗ これらの、主のお話は、あの、ベテスダの池の側で、主イエス様の御声一つでの、足の萎えた男の癒しの業が、神聖な神の浄めの日(安息日)だったことから、宗教家達の“断罪”の火種となったのです。 浴びせかける様な、民の攻撃と罵りの言葉の前に、イエス様は、静かに淡々と、語られたのです。その姿と、お言葉とを、最大限漏らさず、御霊によって思い起こさせられるままに、書き記したのが、この箇所なのです‼️ 今、私達は、反対する人々がいきり立つ中に、混じって、何時しか、主のお声だけが心に染み込んでくる、静けさの様な霊の覆いの中で、このお言葉を味わってみましょう。 ☆わたし(イエス様ご自身)は、驚く様な御業(奇跡)を顕されましたが、それは、ご自身の力と不思議の証し(証拠)ではない❗と言われます。 ☆イエス様は御自身自らを、証言されません。 ☆イエス様がどの様なお方か‼️・・・それを証し(証言)する方がおられます。そのお方は(後に顕される”御霊“です。(32節~この時点では、未だ御自身を顕されていません・・・しかし、福音書が記された時には、すでに周知の中です) 又、もうお一人は、パプテスマのヨハネでした。(33節) しかし、あなた方はそのお方の言葉を信じなかった ☆今一つの証言→それは、主御自身が顕された”御業”(36節) しかし何時の世にあっても、“父が遣わされた方を信じない”ことは、神のいのちと力のお言葉を、内に留めることは出来ないのです。 “信じる‼️”と言うことは、何と素晴らしい“めぐみ”なのでしょう‼️ ハレルヤ‼️ |
| ヨハネの福音書 5章節19~29節 5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。 5:20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 5:21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。 5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。 5:23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。 5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。 5:25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。 5:27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。 5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。 5:29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。 |
2025年1月16日(木)リビングライフQT 非常に深淵な、神の啓示(御自身を顕されること)‼️ 今日のテキストには、聖霊なる神についての、言及がないので、これをもって、三位一体への説明の展開には至りませんが、 父なる神と、子なる神・・・についての、最も重要な学びの箇所となります。 父と子→親子・・・❓ 私達の《言葉》によっては、到底理解できるものではありません。 しかし、 主が、この様な関係をベースにして、ご自身と《大能者なる神》との関係を、語られるのですから、私達の世界の秩序の中で、親しく《神と御子》との間柄を共に考えて参りましょう。しかし、そのような仲でありながら、 福音書冒頭で語られた、あの、深淵な御言葉を、思い出して下さい。 『*初めに、言葉があった *ことばは神とともにあった。 *ことばは神であった。 *この方は、初めに神とともにおられた。 *すべてのものは、この方によって造られた。・・・』 こうして、もう一度読み直してみると、今日のテキストで語られているお方《イエス様》は、福音書冒頭でかたられている《ことば》と示されているのは、正に、《イエス様》なのです。そして、この《ことば》によって、すべてのものが造られたのです‼️ そして、その大いなる業(創造)は、正に、今日のテキストで《父》と、呼ばれているお方が、子に命じて、なさった業だと言うのです。こうして観てみると、改めて、父と御子とは一体である(働きは全く別なのですが)ことが、くっきりと見えてきます。 イエス・キリスト様は、神であられるお方でありながら、父なる神の指示されるままに、全てを行われている→言い換えると、私達は、このお方と*こんなに親しくお交わり頂きながら*実は、創造主なる《神》ご自身と直接触れるような、関係に置かれている‼️のです。 25節:死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。 28節:墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。 神の御声を、罪人は聞くことができません。しかし、御子イエス・キリストの死と復活により、私達、罪に死んでいた者が、《子の声》を聞くことが出来るようになったのです‼️ 当時のユダヤ人たちは、どんな思いで、この厳粛な主のお言葉を聞いた事でしょう。 今、私達は、特別な思いで、子なるお方のお言葉の前に、畏れおののきながらも、ひれ伏すのです。 |
| ヨハネの福音書 5章1節~18節 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。 5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。 5:4 【本節欠如】 5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。 5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」 5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。 5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。 5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」 5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」 5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。 5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」 5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。 5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」 5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。 |
2025年1月15日(水)リビングライフQT ☆魂の解放と 安息日‼️☆ ベテスダの池(貯水槽のような泉)での、主イエス様の御業・・・ 結論的な一文にすると 人々が希望の泉として集まった、ベテスダの泉(池)は、この男にとっては、《絶望の池》でしかなかったのです。それは、7節『水がかき回されるとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると他の人が先に下りて行きます。』 毎回絶望を経験してきているのです。正に、絶望に嘲笑われているように ところが、この男性にとって、この日も又、絶望の縁を這いずっていた日なのですが、一瞬にして、そこが永遠の希望《いのち》の日となったのです。周りは何も変わらないのです。依然として、人々が希望を託す、水面が揺らいでいます。 しかし、今や、彼の魂の泉は、いのちの水が噴出して溢れ流れ始めていたのです。 余りに圧倒する、《いのちの泉の流れの勢い》に、ユダヤ人たちは「今日は安息日だから、床をとって、外を歩き回ってはならない」と、押し止めたのです。 何と、《宗教家》の滑稽さに、笑わずにはおられないですね。 イエス様(救い主・メシア)がその所に居られる‼️・・・これ以上の安息日があるでしょうか。 ユダヤ人たちは、この事実(メシア・救い主の到来)に気がついていないのです、真に滑稽極まりない現実なのです。 この男性は、主のお声『起きて床を取り上げ、歩きなさい‼️』と言う、神の御子イエス・キリストの御声を聞いて立ち上がったのです。 *これが信仰です‼️あなたが今歩んでいるその道❗それが安息日への道なのです。 何故、迷うのです? 何故、恐れるのです? 何故、戸惑うのです? 何故、従わないのです? 主が側に居てくださり、御声をかけて下さるのに・・・⁉️ 安息日⇒それは、主が共(伴)に居てくださる‼️と言う約束を信じて歩む日々なのです。 *不安になったら、目を閉じて、イエス様を思ってみましょう。 *孤独を感じた時、「私の主よ」と、声をかけてご覧なさい‼️ *迷った時、目を閉じて「導いて下さい‼️」と、祈りましょう。 主は、お呼びしたら何処に居られても、飛んできてくださる・・・のではないのです。 実は、何時もあなたの、私の側を伴に歩いていて下さるのです‼️ 先程いくつかの例をあげたのは、それは、自らが目覚める(気が付く)ための・・・ 《ルーティーン》 なのです。 ユダヤ人たちは《型》にはまった信仰、そこに《宗教的美学》を求めて、最も清く輝かれる神の御子《イエス・キリスト》を、見失ったのです。 この、祖国日本に、今必要なのは、キリスト教と言う宗教ではなく、全ての求める者の側に居られる御方を、『我が主よ‼️』と、慕い求める《信仰》なのです。 あの、絶望の淵(泉)で、主の御声に眼をあげた男の様に、愛する者、家族が、友が・主を仰ぎ見る時を待ち望みつつ、祈り続けましょう。‼️ ハ レ ル ヤ |
| ヨハネの福音書 4章43節~54節 4:43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。 4:44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。 4:45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。 4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。 4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。 4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」 4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」 4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。 4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。 4:52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。 4:53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。 4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。 |
2025年1月14日(火)リビングライフQT エルサレムでの過ぎ越しの祭りに、世界中から集まる多くの人々に、神の国の到来を語り、様々な徴(しるし)を顕された後、再びガリラヤへと帰られる途中、サマリヤで、神の国到来を語られました。サマリアの女の救いは、大きな霊的波紋を広げました。 カナを出られてから二日後・・・と記されていますが、ガリラヤの働きの拠点は、ぺテロの家のあるカペナウムだったのでしょう。 *カナからカペナウムまでの距離はおよそ100kmあります、ところが、エルサレムの祭り(過ぎ越し)から帰った多くのガリラヤの人々は、イエス様の行われた多くの不思議な業を語り広めてはいたが、人々のイエス様への視線は、何の特別な輝きもない、普通の主のお姿に、冷たい視線を注いだのでしょう。そこで・・・『預言者は自分の故郷では尊ばれない。』と言われて、カナへと退かれたのです。 カナは、カペナウムから約40km程西へと山地を登った町です。 その山地の町に、カペナウムから、王室の役人(カペナウムには、ユダヤの王の夏の離宮があった)が、重病の息子の癒しを求めて、訪ねてきたのです。 『息子のために、下ってきて下さい。』(多分、主のために、馬車も用意されていたのでしょう。) 50節~イエスは、彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語った言葉を信じて、帰って行った。 主のお言葉をもう一度見てください。『あなたの息子は治ります‼️』・・(治っています)・(治りました)・でもないのです。 このイエス様のお言葉には、この役人の信仰が試されているのです。 *イエス様をお連れして、手を置いて祈って頂く‼️これは誰でもが想像する期待であり願いでしょう。 役人は、から手のまま信じて帰る途中で、息子の癒されたことを知ったのです。 『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』と言う、イエス様の御言葉を思い出しますね。 *ヨハネ福音書20:29 主の復活を信じなかったトマスに語られたお言葉です‼️ 今朝は、信仰の真の姿を深く学びました‼️ |
| ヨハネの福音書 4章27節~42節 4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。 4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。 4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」 4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。 4:31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。 4:32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」 4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。 4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。 4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」 |
2025年1月13日(月)リビングライフQT *魂の実り* 幼いときから、福音書を読んできましたが、何時もこの記事は、深い感動を覚えながら、様々なことを思い巡らせてきました。 先ず、単純なことですが、イエス様は、神が人の子となられたお方だから、全ての面で、優れた働きをなさるものだと考えてしまっていました。 ところが、人としての弱さ、制約、限界の中で、祈りによって、一つ一つ聖霊に導かれながら、あらゆる事にあたられる姿をみて、励まされたり、勇気づけられたりしてきました。ですから、私たちの弱さや、挫け易さや、躊躇などさえも、ご存じで、導かれることを学ばせられました。 32節・34節の・ ☆《あなた方の知らない食べ物がある》と、 ☆《わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。》 私の宣教に携わる生涯は、又、苦悩や困難や葛藤の多い道でもありましたが、イエス様のおっしゃったお言葉の持つ意味が良く理解できる日々でした。 父や、母の姿をみても、その様に感じてきました。父が幼い(若い)私を伝道の働きに何度も連れて行ってくれたことも、その事を学ぶ、大きな力でした。 福音に携わる働きが、どんなに輝きに満ちたものであるかを、教えられました。 それは決して、成功を収めたり、皆さんの感謝に満たされた姿を見たり、沢山の決心者が出たり・・・と言った、光の面ばかりではありません。悲しみの涙と、かきむしられる思いを、経験させられたこともありました。そんな時の父の姿の中に涙と苦悩を越えた平安と感謝で、私に励ましの声をかけられ、胸が引き裂けそうなことも経験しました。 しかし、その中にある平安は、私の心を更に主に深く結びつかされたのでした。 少し、私的な事に流れてしまいましたが、天からの働きに着くことは、他にはない祝福と恵で魂は、天の晩餐に与かっているのです。 ハレルヤ‼️ さて本文に返って・・ 彼女の興奮した証で、人々は主の元にやって来て、イエス様を救い主・遣わされたお方と信じました。 彼らの言葉は『あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だとわかったのです。』 これが救いですね。理解ではなく・納得でもなく・御霊に導かれて《信じた‼️》からなのです。人は信じた時“救われる”のです。 ハレルヤ‼️ アーメン‼️ |
| ヨハネの福音書 4章15節~26節 4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。 4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」 4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。 4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」 4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 |
2025年1月12日(日)リビングライフQT 一人の女性の人生の新しい出発‼️ この記録された長い長い、女性とイエス様とのやり取り、周知しているところでしょうが、改めて読み黙想していると・・・ 何と *イエス様のお心の広 いこと‼️ *忍耐深いこと‼️ *一人の人に 注がれる愛と情熱の 豊かなこと‼️ 正に先日書いたように、このために、サマリヤを通らなければならなかったと言う意味が、クッキリと見えて来た思いです。 ふと、次の主のお言葉を思い出しました。 『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになります。』 ヨハネ福音書13:7 御受難に入る前の、最後の晩餐の前に、弟子達の足を洗われ、弟子たちが戸惑った時に言われた‼️主のお言葉です。 弟子たちは、サマリヤを通る道に入られる時『えっ⁉️先生何故サマリヤを通るのです❓』と、心の内に思ったことでしょう・・ 私たちの人生にも、しばしば、何故・・・❓と思うことが沢山有ったのではないでしょうか。私も・・何故❓どうして❓えっ⁉️等々、ふと、戸惑うことの多いものです。 しかし、多くの場合、その道に意味があることを忘れてはなりません。祈って歩むその道々が、実は主の御手が導いておられる道でもあるのですから❗ あらゆる所で心静めて、主を仰ぎ見ましょう 女性との会話は、続きますが、イエス様は、霊の世界から語られ、女性は、日常生活の世界の事を語ります。完全に言葉はすれ違っていますが、イエス様は静かに《愛をもって》真理を語り続けられます‼️ 主よ❗あなたは預言者⁉️→神を礼拝する問題→メシヤ到来への期待・・・イエス様の網は、グッと引き寄せられました。そしてついに、『あなたと話しているこのわたしがそれ(メシヤ)です』 あなたがイエス様に出会われた時の、驚きと平安と喜びは・・・いつ・どこで・・・・ 大切にしましょう‼️ その時を。 そして、友を、家族を、愛する方に主イエス様を知らせることに、喜び、期待と感動を、持ちましょう。 この女性がどんな思いで、この事を町中に知らせに行ったことでしょう。想像しながら、黙想を閉じて祈りましょうアーメン‼️ 明日(13日)のテキスト ヨハネ福音書 4:27~42 |
| ヨハネの福音書 4章1節~14節 4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが── 4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。 4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。 4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。 4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。 4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」 4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 |
2025年1月11日(土)リビングライフQT イエス・キリスト様の働きが、次第に活発になりはじめ、それに合わせてバプテスマのヨハネからイエス様への働きの移行を、パリサイ人達は、気をもみながら見ていました。 イエス様の御降誕は、皆様、良く御存知のエルサレム郊外のベツレヘムでした。しかし、ご両親のマリヤとヨセフの居住していたのは、パレスティナを、三分割(南からユダヤ・サマリ・ガリラヤ)する、行政区の北のガリラヤのナザレでした。ガリラヤ湖周辺のカペナウム・ゲネサレ・ベッサイダ・カナ・ナザレがその活動範囲でしたが、既に学んだ中で、エルサレムでの話題(宮浄め)もありましたね。 地理的に、エルサレムとガリラヤのカペナウムの距離は、山地を通り、道も一度ヨルダン渓谷に降りてヨルダン沿いに南下しエリコを通ってエルサレムに至る道も、さほど距離的には変わらないもので、150km~180km程の距離です。 イエス様の三年半に亘る、宣教活動の範囲は、この地域を往復移動されたのです。 この度は、3節~4節に『ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。』と記されています。何故❓記録上は何もその理由は書かれていません。 わざわざこの一節が書かれている理由は、ヨハネの、イエス様の働きに関する、重大なコメントなのです。その理由とは・・・ サマリヤの一人の女性の救済(救い)・・・と言う目的のためだった‼️と言う、メッセージなのです。 サマリヤの女は、宗教性も、特別なイスラエルの歴史に精通した、知性の持ち主でもないただの女性でした。しかも、昼間の人の動きのない時間帯に、人目を避けて水汲みに来る・・・といった、どこか事情のありそうな女性だったのです。 ヨハネは、この一人の女性の救いのために、サマリヤ経由のご計画が主の大切な意図だと確信したので、この様な記事を敢えて、《サマリヤを通らねばならなかった》と、記したのです。 事実、この記事内容は、使徒ヨハネ独自の記録となっています。 主イエス様は、あなたの救いのために、どの様な出逢いをあなたに与えられましたか。 主の御降誕時に、ベツレヘムの羊飼いだけにではなく、遥かな東の国の博士たちにも、御降誕の知らせとなった、不思議な赤星の出現で、知らせましたね。それがやがて、二百年の時を経て、福音の東回りのルートで、古代の日本にまで、原始福音を、海を渡って伝える、道を拓いたのです。 主なる神は、今の世にも、不思議な摂理の御手によって、あなたを用いられるかもしれません。 あなたに福音がもたらされたのも、そのような神(御霊)の導きが有ったからなのです。 アーメン‼️ |
| ヨハネの福音書 3章22節~36節 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。 3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。 3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。 3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」 3:27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。 3:28 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。 3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」 3:31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 3:32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 3:33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。 3:34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。 3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 |
2025年1月10日(金)リビングライフQT バプテスマのヨハネは、ある意味で、イザヤや、エレミヤよりも遥かに優れた、預言者です。 イエス様ご自身も、このように、バプテスマのヨハネを評しています‼️ マタイ福音書11章11節~14節『まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした。・・・ あなた方が進んで受け入れる(ヨハネを)なら、実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです。』 イエス様がこの様に仰った理由は・・・・ ☆29節~・・・花婿の声を聞いて大いに喜びます。私もその喜びに満ち溢れています。 ☆30節~あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。 ☆32節~この方は(天において)見たこと、聞いたことを証しされるが誰もその証しを受け入れない。 ☆34節~神が遣わした方は、神の言葉を語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。 ☆35節~父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。 ☆36節~御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 何と、単刀直入なメッセージでしょう⁉️ 正に、福音そのものですね。 こうして見ると、エリヤの再来なのですね。 *《エリヤは弟子のエリシャが、見ている前で、炎の戦車に載って、栄光に包まれ、天に帰った預言者です》 ユダヤの信仰の中には、メシヤが来る前に、エリヤが現れる‼️と言う信仰の逸話が根強くあったのです。 ヨハネの働きの最後は、正に《メシヤ》到来を告げる、神の声として、遣わされたのです。 私は、この学びをしながら…ふと 終末に生かされている私達に、教会に、この様な、重大なメッセージを与えられているのではないでしょうか・・・⁉️ |
| ヨハネの福音書 3章10節~21節 3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。 3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。 3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。 3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。 3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。 3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。 |
2025年1月9日(木)リビングライフQT 更に、イエス様のニコデモとの対話(イエス様の教え)は続きます。 この記録(文書)は、イエス様の御昇天から40~50年後に記されたものですから、リアルタイムに、ニコドモとの対話ではないでしょう。 しかし、ヨハネはこの箇所で、聖霊に導かれながら、正確に記されたものではありますが、むしろ、廻りに集まったユダヤの民達や、パリサイ派サドカイ派の人達にも伝えるべく、主が語られた、切々たる御言葉だと、深く推察するのです。 ☆16節『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 クリスチャンなら誰でも暗記している、福音の真髄です。 思い出して下さい。バプテスマのヨハネが、イエス様が来られるのを見て『見よ、この方こそ、世の罪を取り除く、神の子羊‼️』と、言われたのを思い出しますね。 イエス様は、単刀直入に、ご自身が世の罪を除き、新しい、いのちの道を開くために来られた事を、ニコデモはじめ、回りに集まったユダヤの人々に、語られたのです。 そして、その語りかけは、今、こうして学んでいる二千年後の私達への、語りかけでもあるのです。 ☆天から降(クダ)ってきた御子だから、永遠の世界《いのち》を語るのですし、その教えは、真実そのものです。(12~13) ☆人の子《神が人となって来られたお方》を信じる者への、神のご計画。(16~17) ☆このお方が来られたのは、光の世界からです。ですからこの御方に従う者は皆、光の方に来る‼️(19~21) 神の御子が、人となられてこの世に顕れた‼️と言う、最も福音の中心となる教え(メッセージ)を、ヨハネはこの箇所で凝縮して書いています‼️ もう一度読み直してみませんか。 |
| ヨハネの福音書 3章1節~9節 3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」 |
2025年1月8日(水)リビングライフQT 宗教か?・信仰か? イスラエル議会は、国の働き・存在・運用は全て、ヤッハウェ=創造主なる神・・・に、仕えるための組織であり、エルサレム神殿と密接に繋がった国家組織でした。 ここに登場する、《ニコデモ》と言う、ユダヤ国会サンヒドリンの議員は、議員であるばかりではなく、ユダヤ教の指導的立場にある、パリサイ派の宗教議員でもあったのです。 その彼が、《夜》密かにイエス様を訪ねてきたのです。この事自体、特異で密かな訪問だったと言えます。 民衆からは、イエスは“新興過激派の指導者”と目された方ですから、宗教的・政治的立場にある《ニコデモ》の白昼の、訪問は民衆の目にさらされて、自分の地位や立場を非難されるので、隠れての訪問だったのです。 彼がイエス様に投げ掛けた質問は*** ☆ユダヤ教に抱いてきた自分の信仰が、正しいのか否か⁉️ ☆このお方(イエス・キリスト)の出現(存在)は、旧約聖書の預言の実現の正当な、メシヤなのか・・・⁉️ 恐らくその様な疑問が、心に有ったのでしょう。 彼の最初の、イエス様への語りかけは、少しお世辞の混じった、言葉でした。 するとイエス様は、彼の魂の深い闇を見抜いて、ストレートに語りかけました。 『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。』イエス様は、ニコデモの中に、空っぽな信仰心を観ておられたのです。 ニコデモは、霊の世界に関する全く空っぽの自分を、情けなく思いながらも、辛うじて、「人は、もう一度母の胎から・・・?」と言う、恥ずかしい無知をさらす言葉しか出せなかったのです でも、イエス様はそんな彼を責めることなく、単刀直入に、霊の世界に引きずり込まれたのです。5節~8節までのイエス様のお言葉を、ニコデモと一緒に考え味わってみてください。 ところが、ニコデモの反応は???? 全く、霊の世界の事が理解できないばかりか、かたくなに、その二次元の世界(見えるだけの世界・産まれて死んで行くだけの世界)からは、全く踏み出せないままなのです、 愛する皆さん あなたが福音(神様の恵みの世界)を語るとき、全くそのような話を、相手の方が意に介さなかった…という経験は有りませんか? イエス様はこのような、《暖簾(のれん)に腕押し》の様な中でも、祈りながら伝え、語ることの大切さを教えておられます。覚えましょう‼️ ニコデモは、この後隠れて、主イエス様の群れの中に同行しながら、 7章50節~51節では、パリサイ派の人々の、無責任な発言に対して、『もっと、イエスの言葉をしっかりと聞くべきだ。直接話を聞くべきだ‼️』と、牽制した記録があります。 また、主イエス様の、十字架の処刑の場に立ち会っており、葬りの時には、主のご遺体に塗るための香油30kgを、用意したのも、ニコデモでした。(ヨハネ:19章50~51) 永遠の命(いのち)の福音は、必ず人を主のいのちに繋ぐのです‼️真実をもって、祈り、主の時を待ち望みましょう‼️ 明日(9日)のテキスト ヨハネ福音書 3:10~21 |
| ヨハネの福音書 2章13節~25節 2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、 2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、 2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」 2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。 2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」 2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」 2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。 2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。 2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。 2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、 2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。 |
2025年1月7日(火)リビングライフQT 最初のイエス様の宮清め‼️ エルサレム神殿は、ソロモンによって建造されてから、凡そ1000年に亘り、イスラエルの民・国家・歴史のシンボルとなって、民の信仰の中心でした。 当時ローマの支配下にありながらも、あの大ローマ帝国も、東の片隅にあるユダヤを支配するのに、ユダヤ政治の中核である神殿を、民に委ねていたのです。 それがユダヤ民族を支配するのに、もっとも好都合だったのです。 その事は、ユダヤの民の信仰の頑なさが、そのまま、メシヤとして来られたイエス様への、宗教的頑なさとなって、主の前に立ちはだかる事となるのです。 今朝のテキストは、最初の出来事でもあります。 長年、“あの”《過ぎ越の祭り》は、ユダヤの民の最大の祭り・即ち、イスラエルの国家・民族・信仰の出発点となった、あの出エジプトの記念の祭りです。これはイスラエルの《アイデンティティー》なのです。 この時、世界中に散れたイスラエルの民(ユダヤ人)が、エルサレムに神殿詣でに来るのです。長旅なので、犠牲に捧げる羊は連れて来ていません。持っているお金は、外国の貨幣です。神殿には、神殿貨幣と言う、聖なる指定された貨幣だけしか捧げられないのです。 そこで、両替商・家畜商等が、必要なので、広い神殿内庭には、それらの人々、売り買い等で大変なごった返しだったのです これをご覧になられたイエス様が、お怒りになられないはずがないですね。 この姿のなかには、最早、父なる神への敬虔、感謝の思い、深く神に魂を開く事など、考えられない姿ですね。 イエス様の憤りの姿は、心に痛いほど伝わってきます。 ふと❗私たちの礼拝前の姿はいかがでしょうか。 私は、60年の伝道者生涯で、全国各地世界の多くの主の教会の、礼拝・聖会・集まりに参加してきました。しかし、礼拝前にも関わらず、集まった信徒たちが、賑やかにおしゃべりする姿を見てきました。そんな時、何時も、イエス様のこのお姿を思い出します。 皆さんはいかがでしょうか。 18節以下のやり取りは新たに魂に迫って来ますね 主のお言葉(奇跡に裏付けされた)を、人々は、信じてついて来ましたが、主のお心は、必ずしも、お喜びにはなられなかったのです。 私の魂を主はどのように見ておられるでしょうか。 形ばかりの熱心さや、忠実な姿が、表を飾る神殿にならないように、芯の芯まで、主の者とさせて頂く信仰へと、引き上げられて参りましょう(#^.^#) |
| ヨハネの福音書 2章1節~12節 2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。 2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。 2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。 2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」 2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」 2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。 2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。 2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。 2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、 2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」 2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。 |
2025年1月6日(月)リビングライフQT イエス様が行われた、数々の業(奇蹟)がありますが、カナでの婚礼に招かれた時のこの記事は、ごく日常的な生活の場で行われたものですが、物語としては目立つものです。しかし福音的には、どう解説するか、少し戸惑いを感じるところです。 この出来事は、何を語っているのでしょうか⁉️ 普通の日常的な出来事ですね。カナは、イエス様のお育ちになられたナザレからは、一山越えた隣村・・・といった場所で、幼いときから、行き来のあった所でしたでしょう。ですから招かれた❗と言える関係だったのです。村の婚礼は、村中あげての、祝いで、主イエス様と行動を共にしていた、12弟子達もその中に居たのです。 その関係が思わず、(息子)イエスへの、「どうしましょう?」と言う声掛となったのでしょう。しかし、今や、マリヤとイエス様との関係は、親子ではなく、マリヤにとっても、《メシヤ=神の御子》なのです。 実はこの物語の隠れた主題は《マリヤの選び》なのです。そう、正にここからマリヤは、他の弟子達と同様、息子(イエス)に従う一人として、弟子たちの裏方を担う一人として、十字架の下にまで、従い続けられたのです‼️ 早速、『あの方が言われる事は何でもしてください』…マリヤの言葉は、イエス様のなさろうとされる働きの、道筋を開かれたのです。 これは正に、マリヤの第二の献身なのだ‼️と、何時も感動的に見るのです。 第一の献身は、受胎告知から主の降誕への道でした‼️ 献身とは、自分を無にし、主の道を開くための、妨げを(自身の中から・回りの状況から)除くことです。 この奇蹟は、婚礼の開かれた家庭への、支援ではないのです。 11節に『イエスは・・ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた‼️』と、記されています。 この御業は、弟子たちの為だったのです。 そして、母マリヤへの弟子としての召しとなったのです。 私は、あなたは、何時どの様にして、従い始めたのでしょう。 あなたの信仰生活は、あなたの人生が豊かな日々となるための、歩みでしょうか? それとも、《主の働きに何が私に出来るだろうか・・❓》の、問いかけでしょうか。 『主よ❗私に何が出来るでしょうか?教え導いてください‼️』 |
| ヨハネの福音書 1章43節~51節 1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。 1:44 彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。 1:45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」 1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」 1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」 1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」 1:49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」 1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」 |
2025年1月5日(日)リビングライフQT 昨日に引続き(アンデレ・ヨハネ・ペテロ)、今日は、新たにピリポが主に呼ばれたのです。ところが、ピリポが更に、この不思議な出会いを、親しい友の《ナタナエル》に、話し(証し)たのです。すると、この事がきっかけで、ナタナエルは、主イエス様と直接問答する事となったのです‼️ 47節~50節と言う長い御言葉のやり取りが記録されています。そればかりかイエス様はナタナエルの人物像に対し『見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りはありません。』 なんと言う《勿体ないー日本流に言えばー》主のお言葉でしょう。イエス様は、ナタナエルが、真のイスラエル人として、メシヤ待望に魂を向けてきた、人物だと目されたのです‼️ ☆実は、48節にイエス様が語られた『ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。』と、仰った意味は・・・ “いちじくの木”・と言うのは、イスラエルでは、時が来ると、実が成る(花が咲かずに直接実が結ぶ・・実はあの実は、花でもあるのです)その様な生態から、いちじく(無花果)は、神の時の到来ー預言の成就ーの時を知らせる植物とされている。 その木の下にいる・・・と言う《ナタナエル》は、メシアの到来を祈り待ち望み、信仰の人(神の預言者の言葉を、真実に信じ待ち望んだ・)・・だったのです‼️ 主は、彼がメシヤ待望に心尽くしながら祈り続けて来たことを、証言されたのです。 しかし、12使徒の中には数えられません⁉️ 《何故でしょう⁉️》 勿論、正解はありません。選びは神の主権ですから、私たちが評価や秘策を明らかにすることはできません。 しかし、この記録の部分は、大きな神の主権を著す、部分となっています。 50節~『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、と私が言ったから信じるのですか。 それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。』 この主とのやり取り以来、12使徒の行動の中には一度も、その名が記されてはいません。 しかし、同じヨハネは、福音書の中に、ナタナエルを登場させています。登場させた・・・と言う、意図的な事と言うより、ナタナエルは、常に12使徒と行動を共にしていた結果として、再び、もっとも重要な時点に、その名が記されることになるのです。 それは・・・ヨハネ福音書の21章1節~13節の、主の復活後の顕現された中の目撃者の中にナタナエルの名が記録されているのです。 それは偶々(たまたま)《いた‼️》と言う偶発的な事ではなく、彼が常に使徒達と行動を共にしていた証しだと言えるのです。 主は50節で『・・・それよりも大きなことを・・・と仰ったこと(それは甦りの事だったのです。)』 私達はこの事を通して、主の弟子である‼️と言うことは・・・主に信頼して従い続けることなんだ‼️と言うことを学ぶのです。 ナタナエルの信仰は、イエス様一直線だったのですね。 |
| ヨハネの福音書 1章29節~42節 1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。 1:31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」 1:32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。 1:33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 1:34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」 1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。 1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。 1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」 1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。 1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。 1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」 |
2025年1月4日(土)リビングライフQT 『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』 正に、この言葉“宣言”は、ヨハネの福音書の中心主題ですね この主題の下に、これからの福音書が、展開するのです。ですから、何時も、この言葉を下敷きにしながら、これからの長い福音書を、しっかりと学びとって参りましょう。 イエス様が、パプテスマのヨハネを通して、ヨルダン川でパプテスマを受けられた時の、『御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。』 このパプテスマのヨハネの証言は、他の福音書にも、明確に記録されています。 ☆マタイ 3:16~17 ☆マルコ 1:9~11 ☆ ル カ 3:21~22 そして、この(ヨハネ)福音書の証言と共に、イエス・キリストが、旧約の預言者たちが、預言してきた、最も重要な《福音》なのです。 かつて、アブラハムが、神の御声に従って、イサクを捧げるために彼を伴い、何日も旅してモリヤの山(今のエルサレム)行ったとき、イサクを祭壇に寝かせて、刃物をかざしたとき、神はアブラハムの神への完全な服従を受け入れ、イサクの代わりに、その近くに迷い出た羊を、身代わりの犠牲として捧げた(創世記22章)の記録がありますが、これこそ、イエス・キリストが、身代わりの子羊として、この世に来られた御方‼️だと、ヨハネは、ここから福音を、語り始めたのです。 『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』 この、福音のメッセージの言葉に・・・・ ヨハネが アンデレが シモン(ペテロ)が この御方について従ったのです。 そして、今私が、あなたがこの御方のあとに従って来ているのですね。 何と尊い、主との出会いでしょう‼️ この御方に従うこれからの日々は、今日までそうであった以上に、更に勝る祝福と平安に満ちた日々であることを、福音は保証して下さるでしょう さぁ‼️これから更に主を学んで参りましょう。 |
| ヨハネの福音書 1章19節~28節 1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、 1:20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。 1:21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。 1:22 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」 1:23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」 1:24 彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。 1:25 彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 1:26 ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。 1:27 その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」 1:28 このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。 |
2025年1月3日(金)リビングライフQT ヨハネの証(自己紹介) 当時、ユダヤ教パリサイ派の人々は、ローマの強大な支配の下で、生活は緊張を増し、非常な不安が、ユダヤ全土を覆っていた。その様な不穏な世相の中で、イザヤの終末預言を思い出す、ユダヤ教徒は、自然の成り行きで、メシヤ到来への‼️不安と期待とが入り交じる、不安な世情に、揺さぶられていたのです。 その様な時期に、忽然と現れた、パプテスマのヨハネの活動は、ユダヤ教徒、殊に“パリサイ派”の人々には、不安と畏れを懐かせるに充分な、理由となったのです。 ヨハネは、単刀直入に、ユダヤ教徒たちの抱く不安と予測に、「私の後から来られる御方(自分等、靴の紐を解く値打ちもない者)その方の来られることの告知のために遣わされた‼️」・・・と、語るのです。 パリサイ派のユダヤ教徒は、ヨハネがパプテスマを民に授けていたのを観て、少し不安を抱いていたのではないでしょうか。 自分達の、律法と予(預)言者の教えに対する、信仰の不徹底さへの、指摘が語られているのでは・・・❓との、詮索が、動いていたと、思われます。 庶民からは、預言者と目されていた、ヨハネへの問い掛けは、厳しい口調ながら、何処か不安げな詮索のようでした。 “メシヤ到来”と言う、神の御計画の実現が迫るなかでの、このやり取りは、正に、現代の終末に揺らぐ、神の時の実現となる、終末の姿と重なる事を、痛いほど感じさせられるのです。 私達(教会)は、神の時の迫りを実感する信仰の中で、危機意識の増幅ではなく、イエス・キリストによる、救いの道の開かれた福音を、大胆に、語るべき時となっているのです‼️ 今朝私は、改めて主から与えられた使命の重さを、深く身に感じさせられた思いです。 今私たちが握っている、福音の輝きを、ヨハネ福音書の中から、担わせられて参りましょう。 明日の(4日)テキスト ヨハネ福音書 1:29~42 |
| ヨハネの福音書 1章9節~18節 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。 1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 |
2025年1月2日(木)リビングライフQT 《人》として顕れ、普通の家庭で育たれ、一ユダヤの民として、立たれた御方‼️バプテスマのヨハネから、洗礼を受けられてからは、教えと、行われる奇跡の御業を通して、《メシヤ》と目されて、“時の人”とされましたが、結果的には、政治的・宗教的(選民的)“メシヤ”とは、イメージが違ったので、民は、この御方を排除したのです。 11節→この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。・・・と、ヨハネは語り、続いて・・・ 12節→しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。・・・と述べ、この福音書のもっとも大切な目的としての《結論》を、福音書の初めに、宣言しているのです。 今日のテキストとなっている、9節~18節の、一句、一句は、正に福音の真髄・神の愛の源流となる、ご自身が創造された人類《あなた》への、最重要な語りかけとして、御子(イエス・キリスト)を、指し示した(紹介された)珠玉のメッセージなのです。 ☆この御方を信じた人は ①神によって生まれた。 ②この御方は、父なる神の栄光をにない ③恵みとまことに満ちておられる。 ④全てのものが創造される前からおられた方 ⑤神の御本性の中に充ちている、《恵みとまこと》に満ちておられる。 ⑥この御方によって、私たち人間(人類)は、(信じる人にとって)神ご自身を見る(知る)ことができたのです。 この宣言は、ヨハネ福音書全巻を流れる、一貫した骨子となるメッセージなのです。 これからの学びに当たって、今日のテキストの、言葉を、しばしば思い返しながら、学んで参りましょう‼️ 明日(3日)のテキスト やヨハネ福音書 1:19~28 |
| ヨハネの福音書 1章1節~8節 1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。 1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。 1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。 |
2025年1月1日(水)リビングライフQT 21世紀に入って、四半世紀の区切りの年となりましたね 今年は、あの忌まわしい太平洋戦争(日中戦争から始まった)の終結した年です。80年目です。日本は一見平和ですが、世界に拡がる戦争の暗雲に、無関係でいられなくなる懸念を含んだ時代の中に、その足をすくわれる危機をはらんだ、道を避けて通れなくなるような、事態に直面しています。 正に“混沌”とした時代の中に、新しく歩み始める今日です。 その様な中で、今日からのリビングライフの学びが・・・・ 《初めに‼️》との宣言から始まる、ヨハネの福音書だと言うことは、何と素晴らしいスタートでしょう “初めに”ことばがあった。 《初め》とは❓ 何の“はじめ”なのでしょう。すべての事には、確かに“はじめ”がありますね ここで言う“はじめ”とは、何かの始まりの起点・・・と言う意味ではないのです。 誰かが定めた(はじめ)でも、何かの出発となった(はじめ)でもない、根元的存在・・言い換えると、昨日まで学んでいた、黙示録の22章13節に『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』と言う文章がありましたね。 あの《はじめ》と同じ意味なのです。即ち、時間のことを示したことばではなく、《永遠》と言う意味なのです。 私達はどうしても、時間経過の中で、物事を認識してきたので、過去→現在→未来・・・と言う流れの中で物事を認識し、その流れの中で自らを、認識(知る)のです。 ところが神は、初めであり終わりであると、顕されながら、初めもなく終わりもない、存在者で、この御方により、私が・あなたが、産み出され、生かされ、存在しているのです。それ故、神は知るべき御方ではなく、私たちを知って(いて)くださる御方‼️なのです。 この御方によって、私達は創られた‼️ 何と言う深淵な“真理”なのでしょう。 こうして創られた私たちに、永遠なるおかた《神》がずっと、伴にいてくださるために、私達に寄り添う御方となられて、“光”となって来られたのです。 この御方を、私達(全ての人々“人類”)に、紹介するために、一人の人物を、送って下さったのです。それが《ヨハネ》なのです。 さぁ、しばらく、この遣わされたヨハネを通して、素晴らしい光である、御方を知る学びへと、導かれましょう‼️ 明日(2日)のテキスト ヨハネ福音書 1:9~18 |